第58話 チョコレート

 とうとう2月に突入した。正月からもう1ヶ月が経過したことになる。

 近頃、時間の流れが速く感じてならない。濃い時間を過ごしているからそう感じるのか、それとも大人へと近づいているからなのか。


 時間の感覚はいつも曖昧だ。楽しい時は短く感じるし、辛い時は長く感じる。そのときどきの心境で伸びたり縮んだりする。

 だから今、街のティッシュ配りのように新聞部が発行した記事を持って校門で立つ俺は、時間の流れをスローに感じている。様々な制服が本校の門へと吸い込まれていく。みな緊張した面持ちで名残惜しそうに参考書を睨んでいる。

 申し訳なささを感じつつも「頑張ってください」と一言添え、俺とアリナのモデル写真が載っている新聞を手渡した。中学生たちは公式パンフレットと思い違いをして受け取るわけだ。人の心を利用した醜い手法である。良心の呵責に苛まれるも、俺はまた新聞を手渡した。これがゼロになれば温室に戻れるからだ。

 誰か纏めて受け取ってくれる物好きはいないだろうか。


 今日は本校の受験日である。ここ数週間で完成させた1枚の新聞を配っているのである。

 新聞部がやるべきなのだが、またしても生徒会のとある食用鳥が口を挟んだ。


「アリナが校門前にいたら受験生もヤル気でるよ」


 と余計な要求を突き出してきたのだ。ここまではいい。その要求には俺の存在が触れられていないからだ。このまま掃除ロッカーにでも逃げ込もうと策を練っていたところ「あんたもよ」とアリナに指でさされた。俺は後ろを振り向いて「誰もいないが」とボケたがボールペンを逆手で持つ彼女を見た刹那、降参した。

 そのような経緯があり、校門にて、人生の分岐点を迎えている中学生たちに新聞を配っているわけだが食用鳥の言った通り、大半の中学生どもは俺ではなくアリナ寄りに校門を過ぎていった。校門の両端に立っているため思い違いではなく、その差は明確で歴然的であった。


 アリナはというと気持ち悪いくらい人のいい笑顔で「頑張ってね」と善人ぶりながら配っている。過ぎて行った者は三度見して振り向く。そのまま首を折ってしまえと呪っておいた。しかし神は嘲笑うようにアリナの方に人を送っていく。

 さすがに悲しくなった。底知れない劣等感が俺を苦しめた。


 しばらくするとアリナの視線を感じた。俺はちらっと彼女を見た。すると両手をパーにして訴えてきた。


『無くなっちゃったから頂戴』


 おそらくこう言いたいのだろう。あげるともあげるとも。3分の1も減ってないからな。

 近づいてきたアリナに残り8割を手渡した。


「ちょっと。これ多いわよ」

「俺が持ってても減らねーんだよ」

「使えない男ね」


 これは需要と供給の問題なのだ。

 俺よりアリナの遺伝子が付着した新聞の方がみんな大好きなのだろう。

 

 受付終了時刻に近づくにつれ、人は少なくなってきた。付き添って来た受験生たちの親が学校から出て行く光景が続き、この仕事もそろそろ終わりを迎えようとしている。

 もう来ないだろうと思った俺たちは引き返すことにした。


「よし。新聞部に報告だ。帰るぞ」

「あんたまだ残ってるじゃないの。貰った分はちゃんと配り終えたわよ。このサボリ。生きてて恥ずかしくないのかしら」

「人には適材適所というものがありまして、今回は不適だったというだけなんですよ、アリナくん。ええ、恥ずかしいとも、悔しいとも。この宙を彷徨い続けた僕の右手を君は可哀想だと思わなかったのかね」

「うるさいわね。無能が感染するから近寄らないで」

「泣きそう」


 とは言うものの無事終わって良かった。神経をすり減らして書いたのだから少しでも読んでくれたら嬉しい。稚拙な文章だが頑張ったのは本当だ。


 新聞部に戻り、早速部長に報告した。今日は受験日のため全校生徒は運動部以外休みとなっている。彼も本来休みであるが俺とアリナに任せっきりなのは申し訳ないということで出てきてくれた。

 生徒会に代休を申請したいと心底思った。断ったら労基に駆け込むから覚悟しろよ。


「少し残ったが配り終えたぞ」

「おお! 良かったー! どうよ、反応は!?」

「受験だから新聞に目を通すほど余裕はなさそうだったからなぁ。ま、帰宅してから読んでくれるんじゃないか?」

「校内のゴミ箱に捨てられていないことを祈ろう!」


 見つけたら全力で特定して一生涯トマトしか食えない身体にしてやる。


「大丈夫よ。私が載ってるんだもの」

「お前の自意識過剰は世界一イラつくな」

「あいつら私のこと見過ぎよ。目玉をスプーンでくり抜こうかと思ったわ」

「悔しいが鶴の言った通りお前の存在は大きかった。俺は寂しい思いをしたけどな」

「慰めてあげるわよ」

「ペンの先をこっちに向けんな。台詞的にそこは『楽にしてあげるわ』が正解だろ」


 




 用は全て済んだから俺たちは下校することにした。部長は生徒会に寄っていくそうなのでアリナは先に帰ることとなった。

 距離を置こうとしたが、仙台駅まで帰宅路は同じだし変に離れるのも今更な関係だ。おとなしく2人で歩く。

 もう昼だ。帰ったら飯だなと考えていると見透かしたようにアリナが声をかけた。


「どこか寄ってく?」


 何だ。何だその……デート的な台詞は。こいつがこんなことを言うなんて今日は大嵐だ。しかし仙台の空は雲一つない晴天だった。


「おー、そうだなー」


 ちょうど仙台駅内にはファーストフード店も多いことだし、俺たちはそこで昼食を摂ることになった。午前中に制服姿で店をうろつくなんて何とも背徳的な気分だ。


「やっぱ昼時は混むなぁ」

「そうね」


 俺はハンバーガーとコーラを、アリナはアップルパイとコーヒーを注文した。

 注文が届くまでどんな話をしようかと悩んでいると珍しくアリナから話しかけてきた。


「で、どうなの」

「何がだ」

「私よ」


 情報量が少ない。君の言葉はいつもトマトジュースの原材以下の情報量だな。

 

「あんたから見て、私は変わったのかしら」


 もちろん変わったとも。初めて会った時と比べれば性格はだいぶ柔らかくなった。

 誰に対しても心を開かず拒絶していた人間がこうして1人の男と向かい合わせで座っているなんて奇跡だ。

 眉の角度をあげて固く口を紡ぐ顔ばかりだったが、少しずつ表情のバリエーションは増えていった。笑うようにもなったし、悲しげな表情も見せるようになった。これでも変わっていないと言える者は是非とも挙手してほしい。肩を外して挙手できなくしてやろう。

 自分の変化に一番気づかないのは自分自身だ。彼女には自覚がないのかもしれない。


「まるで別人だ」

「大げさな表現ね」

「いやいや誇張はしてない。嫌という程この数ヶ月間お前を近くで見てきた俺が言ってるんだ。安心しろ。いい方向に転がってる」

「じゃあ。あんたはもう要らないのかしら?」


 似たような言葉を天使アリナに以前言われた。文化祭で、迷惑になるからもういいよ、私が消えるから、と俺に告げたときのことだ。

 元々抽象的なテーマで始まったのだから更生プロジェクトも曖昧に終わるだろう。気がついた時には終わってた、みたいに。決定打なんて最初から無いことはわかっていたからアリナの今の発言はある意味、終わりでもあった。


「ふふ。冗談よ」

「まだ俺が必要ってか。そりゃ嬉しいねぇ」

「調子に乗らないでゴミ」


 ちょうど注文が届き、会話は一旦打ち切られた。

 店員が下がり、アリナがコーヒーを一口含む。


「忘年会のときにも話してたが、東北大を目指すのは変わってないのか?」

「変わってないわ。あんたは?」

「俺はとりあえず模擬試験を受けてからだな。奨学金をドッサリ借りることになるだろうから将来は借金抱えた社会人だ。奨学金ってよりはあれは学生ローンみたいなもんだよな。宇銀ちゃん助けてー」

「そ」

「俺がとんでもなく優秀だったら学費はなんとかなるかもしれないけど、まぁ現実はそう甘くない」

「名前を書けば入れる大学なんて腐るほどあるから大丈夫よ」

「俺を低く見過ぎだ。そんな大学に入るつもりはねえよ。そういうところは学生を育てるってより補助金目当ての金儲け大学みたいなもんだからな」


 これからのことを考えるだけで胃がキリキリする。

 訪れる地獄の受験シーズンに絶望する中でもハンバーガーは美味かった。ジャンクの王様であるハンバーガーとコーラの組み合わせは捨て身の美味さだ。健康を犠牲にして精神を安らがせる。帰宅したらトマトでリセットしないとダメだな。


「あんた――チョコとか好き?」


 唐突な話題に俺は動揺した。


「な、な、なんだよ、チェコなんて行ったことねえよ。海外旅行は一度もない」

「チョコレートよ、チョコレート」

「あっ、ああああー、あの、あっ悪魔のお菓子か。幼い子供がカカオ農園で辛い労働をさせられている――」

「ひねくれすぎよ」

「あれだな、ダイヤモンドとかも最悪だ。過激派が資金確保のため拉致した住民を奴隷にして、ダイヤモンドを探させて……」

「チョコレートの話をしてるのよ?」

「先進諸国は一度頭を冷やすべきだな。利己主義と拝金主義が苦しみの連鎖を作っているこの現実を深刻に捉えなければならない……宝石は美しいが、見えない血で汚れている」

「また話を逸らしたら刺すわよ」


 バレンタインの季節にチョコレートの話をするな! 

 デリカシーのないヤツめ。全国の男子諸君が非常にそわそわしている時期だとわからないのかね。チョコの話をしたら必然的に


「あー、バレンタインかー」


 ってなるだろうが。そしたら女の子のお前が誰にあげるとかあげないとかそういう話になりかねないだろ。そんな甘い話はしたくねえ。塩辛の話でもしよう。宮城の塩辛は美味いんだ。


「あんたとかチョコ貰えなさそうだものね。ごめんなさい、トラウマを思い出させてしまって」


 こいつは悪魔だ。

 しかし。残念ながら俺は毎年貰っている。


「ハハッ、俺はちゃんと毎年頂いている」

「お母さんとか妹ってオチは悲しいから言わなくていいわ」

「血縁者以外からも貰っている」

「えっ、誰よ」

「特定秘密だから言えません。民間人には秘密だ」

「言いなさい」

「特定ひみ――」

「言いなさい」

「白奈さんです……」

「ああ、なるほど。そういうことならわかるわ」

「『ぎ、義理だから!』という前置きを聞いて早4年。今思えば義理ではなかったのかと内心罪悪感に苛まれながら最近生きています」


 白奈が俺のことを想っていたと判明した時、バレンタインのチョコが義理ではなく意味あるものだとわかった。だから尚更今回のバレンタインは本当に怖い。また白奈と気まずい雰囲気に戻りそうな予感がしてならないのだ。いっそのことバレンタインとかいう企業戦略はなくなってくれ。

 

「……」


 予想できた沈黙だった。

 思春期の男女がバレンタインの話をするもんじゃないだろ。カップルでもない限りするもんじゃない。考えちゃダメだ。考えたら負けだ。俺は視線を店外に向けて歩行人を凝視した。


「朗報を聞かせてあげる」

「なんだよ」

「あんたにチョコ作ってあげるわ」


 聞き間違いかと思って俺は無言でアリナに視線を戻した。


「は?」

「だから、あんたにチョコあげるってことよ」


 俺は腕を組んで背を持たれ、天井を見つめた。


 こいつ何言ってんだ?

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