第56話 冗談の意味

 赤草先生が異動するという根も葉もない噂話を真琴から聞いてから数日が過ぎた。未だ俺は漫然とした不安の中でそわそわと落ち着きなく日々を過ごしている。


 アリナの更生プログラムは年始の初動の忙しさもあって中断している。彼女とは廊下ですれ違うくらいで言葉は交わさなかった。

 実を言うと挨拶程度に声をかけようとはした。しかし俺が口を開く前に彼女は「どうして生ゴミが二足歩行できるのかしら」と眉をつり上げた。

 いつもの毒舌だ。特に驚くことも気に悩む必要もないのだが、俺が冗談を飛ばさなかったことに少々アリナは訝しげな表情を刹那浮かべた。そういったタイミングで「どうしたの!? 大丈夫!? ちょっとおでこ触るね!?」とあざといアクションをしてくれれば、良いお薬になって元気100倍になるのに。


 授業合間のトイレ休憩。

 小便器にレモンジュースをぶちかましていると真琴が隣の小便器に立った。1つ以上小便器を挟んで距離を取るのが男子トイレの暗黙のルールなのだが彼は堂々破った。彼の行為に物申したい俺の気持ちを男子諸君なら分かるだろう。


「ションベンと一緒に気力も流れてるんじゃない?」


 真琴がそう言った。ここ数日の無気力な俺への風刺だ。彼なりの軽い冗談だろう。


「俺はもうダメだ」

「なぁ、噂レベルだから気にするなよ」

「ただの噂だと信じている。俺が卒業するまで異動はないと信じている。この噂の発信者はデマを流したことを後悔し、俺の元へ自首しに来ると信じている」

「もう手遅れだな……」


 手遅れではないと信じている。

 




 昼休みもいつも通り真琴との食事会。

 マジで流歌と飯食えよ。

 

「彗は来年の今頃は受験でひぃひぃ苦しんでるんだろうなぁ」

「無事、大学に行けることを信じている」

「俺は専門だからある程度頑張れば大丈夫だけどさ。大学受験は違うよなぁ」

「お前は料理の道に進みたいんだよな」

「そうそう。和食系」

「すげーな。俺は料理ができん。目玉焼きでさえ焦がしてしまった。その点お湯で出来上がるカップ麺は最強だ」

「油忘れたんじゃないの……?」

「わかんね。妹からは『二度と卵に触らないで』って言われちまったよ。家ではあらゆる料理を禁止されてるんだ」


 宇銀に忠告はされたが、その後、土日に隠れて自分なりの飯を作ってみたら意外とできた。フライパンに白米、めんつゆ、卵、肉、キャベツをぶっこんで適当に炒め、その後マヨネーズと焼肉のたれをぶち込んで完成。料理名は不明だ。一人暮らしをしても生きていけるだろう。


「じゃあ料理のうまい人と結婚しないと彗はすぐに生活習慣病とかになっちゃうね」

「今の時代、外食とかコンビニでどうにかなる。それに俺は独身貴族だ」

「いいよ、恥ずかしがらなくて。俺は彗が金髪の黒ギャル連れてきても何も言わないから」

「俺の妹も似たようなことを言ってた。そんなに俺はギャルが好きそうな人間に見えんのか」


 結婚といえば、法的には同級生の女子は結婚できる年齢だ。女子高生と結婚とかもう響きがアレだ、破廉恥だ。しかし全然他人事ではなく、俺たち男子も今年で結婚できる年齢になる。

 なんとも現実味のわかない話だった。経済力皆無の高校生がなぜに結婚するというのだ。ああ、愛ってやつですか。愛なら時空すら超えられるってか。それなら俺も時空を超えてプレアデス星団行って宇宙人探してえよ。

 飯を食い終わり、またも尿意がこみ上げてきた俺はトイレへと向かった。17歳にして高齢者並みの頻尿。若干の焦りを感じた。トマトジュースの飲みすぎかもしれない。しかし俺は止めん。水なしじゃ人間は生きられないように、帰宅部員はトマトジュースなしでは生きられない。



 放課後になって掃除が始まった。うちの列は廊下の掃き掃除なのでホウキが武器である。さっさと終わらせたいので廊下でゴミをせっせと掃いた。この時期の廊下はハズレだ。とにかく寒い。ちなみにアタリは暖房の効いた教室掃除である。貴族と貧民の格差のようだ。生まれは誰も選べない。

 ちょうど隣のクラスのハズレくじを引いたやつもガチガチ震えながらホウキを持って掃除をしていた。日羽アリナである。


「お前、本当に寒いの苦手なんだな」


 黒ストッキングで生足を包み、首もマフラーで包んでいるから彼女の素肌は手と顔しか露わになっていない。


「私たちにもズボンを履く権利が欲しいわ。鶴を脅せば校則は変わるかしら」

「俺たちのロマンが無くなるから是非とも寒さに耐えてほしい。がんばれ」

「死ね」


 そんなガクガクのか弱い姿で文句を言われても何も怖くなかった。むしろ手を叩いて「はいもっと声出してッ!」と熱血音楽教師のごとく励ましてやりたいくらいだ。ちなみに俺は中学で音楽が嫌いだった。無理矢理歌わせるあのスタイルが嫌いだった。合唱コンクールなんて最悪だ。

 調子のいい俺に苛立ったようで、彼女は得意の精神攻撃を始めた。


「赤草先生が異動するって話を聞いたのだけれど。どんな気持ち?」


 この悪魔が。俺がここ数日気に病んでいた話題に触れてきやがった。やはり日羽アリナは人の傷口に塩をつけるだけでなく、タバスコも追加で塗ったくるような最悪の性格をしている。


「なんとも? なんとも思ってませんよ?」

「悲しいわよね。あんたの憧れの先生が居なくなるんですもの。悲しいわね」

「悲しくないが? 次はどんな美女が来るのか楽しみだ」

「そうね。赤草先生は他校に行って、もしかしたらそこで運命の若い男性教師と出会うかもしれないわね。それはそれで先生にとって幸せね」

「やめろ……やめるんだ……」

「幸せになってほしいわ。私も憧れるわ」

「お前には蛇がお似合いだ。毒持ち同士仲良くやれ」

「可哀想に。なんて貧弱な遠吠えなの」


 本当に赤草先生がいなくなるんじゃないかと思い始めた。もう終わりだ。俺の学校生活は終わりでございます。



 掃き掃除が終わり、あとは各々自由に使う放課後となったので俺は荷物をまとめてアリナのクラスへと赴いた。

 アリナは貧乏ゆすり中で、小刻みに両足を動かして机をガタガタと揺らしている。まるでアリナだけ震度3の地震に見舞われているかのようだ。ただえさえ仙台は地震が多いのだから勘弁してくれ。

 

「おーい、行くぞ」


 実は今日新聞部の手伝いがある。久々の更生プログラムだ。

 ドアから一声かけるとアリナはばっと目を見開き素早く鞄を肩に下げて立ち上がった。そしてズカズカと俺の元へ早足で来た。随分やる気だなぁと感心したのだが次の言葉でその感心は消えた。


「早く行きましょう。暖房が壊れてるから耐えられたものじゃないわ」


 若干冷えてるなと思ったら暖房の調子が悪いらしい。冷え性持ちのアリナには堪えるものだったのだろう。

 彼女はぶるっと身震いしてまた早足で歩き始める。廊下を走っては行けません、と風紀委員にギリギリ咎められない程度の速度を守って歩く姿が面白かった。中身は真面目なのだ。

 

 新聞部のドアをノックして開ける。室内から暖気が廊下へと漏れて、それを浴びたアリナは「ほわぁ……」と謎の擬音を発して入室した。ご満悦に両手を広げて喜びを表現している。


 ――いや、違うな。これは俺を部室に入れさせないよう自分自身を壁にしている。


 アリナが立つ左手側に身体をねじ込む。俺にも貴族の温室を体験させてくれ。

 しかしアリナも負けじと踏ん張る。俺は彼女の左腕を掴む強硬手段に出た。校内に蔓延るアリナファンを敵に回す行為だが既に敵だらけなのでこの際変態と呼ばれてもいい。俺も寒いのだ。早く新聞部部室に入りたい。アリナをどけようと力を込める。だが岩のように動かない。

 すると新聞部の部員の1人がカメラで俺たちを撮った。


「おいそこ。写真撮るな。スクープにするなよ」


 この新聞部どもが。書き方次第で俺の高校生活は確実に終焉だ。アリナファンたちが俺を拉致して拷問しかけない。

 小競り合いに飽きたのか、彼女は抵抗をやめて用意されたパイプ椅子のもとへ歩いた。

 周りを見ても座る場所はアリナの隣しかなかった。俺はしぶしぶアリナの隣に座った。


 


 落ち着きを取り戻したところで新聞部部長が話を始めた。


「今日君たちを呼んだのはあることを手伝ってほしいからだ! 来月は何がある、彗」

「えーっと……バレンタイン?」

「はあ!?」

「バレンタインくらいしかないだろ」

「現中学3年生の受験がある!」

 

 記憶を2年分巻き戻してみよう。

 第一志望だったこの学校を受験しに来た日を今でも覚えている。

 高校はやはり中学校と違って建物が立派で感動した。試験会場では様々な制服でいっぱいだった。自分以外の全員が天才に見えてしまう現象は十分すぎるほど俺にダメージを与えていて、開始する前から「落ちたな」と負け気分に浸っていた。そんな中、自分と同じ制服を着た白奈や友人たちの姿がとても頼りになっていた。白奈と俺以外は全員落ちたけど。気まずかった。

 懐かしい記憶に思考を奪われているとアリナに小突かれた。


「あんた聞いてるの? 鼓膜あるの?」

「あるある。すまん、ぼーっとしてた」


 部長は言葉をつづけた。


「生徒会が受験日に向けて当校の概要をまとめた記事を作ってほしいと頼んできた。人が足りないのに! 新年度に向けてプロジェクトを進めている段階のタイミングに! 何を考えているんだ生徒会!」


 愚痴がヒートアップし始めたところで部員の1人が彼にペンを手渡した。すると部長はゆっくりと落ち着き始めた。どうやらペンは彼にとって鎮静剤らしい。アリナにもそういったアイテムを与えてやりたいものだ。

 断る理由もないので俺たちは承諾した。


「記事は見開き1ページ! 内容は本校の概要! 施設、部活動、校風、カリキュラム等だね。生徒会の挨拶の欄もあるからスペース配分は気を付けて!」


 部長はすぐ立ち上がってホワイトボードに簡単な構図を描き始めた。俺は部長が立ち上がった時、彼の股間に釘付けになった。


 開いている。


 社会の窓が開いていたのだ。男子あるあるの事件が発生していた。

 アリナも気付いていた。クックックと悪役のような声を必死に抑えて俺を叩く。ここは何も言わない方がいい。チャックが開いているぞと指摘されたら恥ずかしさは倍増になる。彼のために触れてはいけない。


「構図はこんな感じ! ちなみに背面は校舎と君たち2人をモデルにした制服写真を貼るぞ!」

「制服写真ってなんだ」

「モデルだ! 制服のパンフレットとかによくある写真みたいに載せる! 生徒会からの要望だ!」


 鶴だ。絶対に鶴の思惑だ。新聞部が俺に声をかけたのは鶴がそう仕向けたのだろう。アリナがモデルになれば映えるのは間違いないが俺はいらんだろう。


 その後、部員が過去の記事を俺たちに見せた。俺は実際に活字を書くのは初めてになる。それもあって部員たちは気を遣って丁寧に説明してくれた。

 流石に俺とアリナだけで1から作成するのは難しいから部長と3人で作ることになった。他の部員は今月分の新聞や新年度に向けた記事の作成に回るらしい。

 机をわけて取り掛かることになったのだが、やはり部長はチャック全開だった。俺は心を無にし、文章を考えた。アリナは集中できていないようでペンが全く走らない。


 結局、チャックは最後まで全開だった。もはや清々しいくらいだ。みんな見慣れたようで誰も取り乱す様子は見受けられなかった。アリナを除き。


 完全下校時刻が近づいてきたので俺らは下校することになった。明日も新聞部に寄る旨を伝え、別れを告げてアリナと廊下に出る。

 しばらく廊下を無言で歩いているとアリナが笑いだした。


「ムリムリ! 笑わないほうがおかしいわよ!」


 あはは、と校内に悪魔の笑い声が響き渡った。


「勘弁してやれよ。彼の名誉のためにも他言無用にしろ」

「言わないけれど彼を見るたびに笑っちゃうかもしれないわ。思い出しちゃって」

「お年頃の女子高生がジロジロ見るのもどうかと思いますが」

「うるさいわね。教えてあげないほうが悪いのよ。あんたたち男子が言うべきでしょ」

「変態女子に何を言っても無駄か……もう宇銀には近づかないでくれよ。教育に悪いから」

「番号知ってるから無駄よ」

「非合法な手段を使っただろ。許せん、わが妹の番号を……」


 昇降口に着くと生徒会メンバーと出くわしてしまった。鶴や生徒会長、副会長などだ。こんな時間まで生徒会は何をしているのだろう。何かを生産するわけでもないのに何をお喋りしていると言うのだ。こっちはそちらの書記係の陰謀でモデル役を担うハメになったのだぞ。

 鶴は顔をニヤつかせて声をかけてきた。


「おやおや。お2人がこんな時間までどうしたの?」

「新聞部の手伝いをすることになった」

「わぁ。新聞部かー。ビックリだね!」

「記事と制服モデルもやることになった」

「わぁ! アリナにぴったりだね〜!」


 計算通り、か――。

 見た目は掛け算割り算できない系ギャルのニワトリだがやはり頭脳は侮れない。

 アリナをモデルに抜擢したのは良い。だが俺を巻き込まないでくれよ。俺以外にも男はたくさんいるだろ。


「やっぱりモデルは高身長でないとね! あっ、口が滑った」

「大体犯人はわかってたから『ミスった』って顔はしなくていいぞ。腹が立ってくる」

「いいじゃん。新入生の人気者になれるよ!」

「在校生の敵を増やすことになりそうなんだがな。ただえさえ余計な嫉妬で敵視されているのに」

「美しいって罪ね」

「アリナくんは静かにしてなさい。元凶は君だから少しは申し訳なさそうにしろ」


 ともあれ俺の犠牲心の甲斐あってアリナがこうして会話できるレベルまで社交性を底上げすることに成功したのだ。

 数ヶ月前の暗殺者のような目付きを思い返せばアリナはガラリと変わった。赤草先生、いや、天使アリナからの願いは半分達成したのではなかろうか。後はどこで区切りというか、任務完了を見極めるかだな。


 アリナは鶴と一緒に帰るそうで昇降口で別れた。

 生徒会らもそれぞれ別れて校門へと歩いていく。その光景を見て少し寂しくなった。

 来年の今頃、彼らの姿は無い。3年生は自主登校となっている。当然俺らも来年自宅で勉強なりして、最後の追い上げをしているはずだ。たった1年。たった1年後には無くなるこの下校風景。

 俺は昇降口の階段に座り、トマトジュースを開けた。


「どうなるんだろうなぁ……」


 卒業後のビジョンが見えなかった。

 曖昧な不安が胸を締め付ける。寒さとは別の震えだった。何に向かって進めばいいのだろう。周りの友人たちはそれぞれ夢を持っていて、目的がある。俺はこうしてトマトジュースを飲んで毎日が過ぎるのを見続けるだけ。何も生まれず、なにも失わない。だから何もない。

 不安で仕方がなかった。帰宅部だからだろうか。帰宅部じゃなければ何かを得たのだろうか。今となっては全て神のみぞ知ることだった。


 誰かに面白い人だねと褒められたことがある。いつも冗談ばかりを言って周りを笑顔にすると褒めてくれた。嬉しくもあったが痛いところをつかれた気分にもなった。

 何もないから偽りを口にするんだ。

 俺はそういうやつだ。

 缶の中身が半分くらいになって俺は立った。


「彗? こんな時間に?」


 振り返るとテニスウェア姿の波木白奈がいた。

 他には誰もいなかった。

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