第55話 冬を切り裂く衝撃
起床時間を徐々に早めないと初日が苦しいとわかっていたが、欲望には勝てず、夜更かしをして余裕のない朝を迎えた。早起きは永遠の難題だ。
久しぶりの制服はいつもより身体を締め付けている気がした。ゆるゆるの普段着を数十日着ていればそんな感覚になるのも当然か。だらだらと着替えて玄関を出ようとしたところ、妹に呼び止められてネクタイを締め直された。うちの妹は俺の妻だったらしい。強く締めすぎて頸動脈が一時的に止まった。
去年以来の教室だ。
夏休み後なら日焼けなどで変化を見られるが冬は大して変わらない。強いて挙げるなら白雪みたいに白くなっている生徒がちらほらいるくらいだ。
席について教科書等を机に投げ込んでいく。この教科書たちとも来年度でお別れだと思うと寂しい。頭痛の種でしかなかった教科書も次第に愛着が湧くものだ。いや、嘘だ。今すぐにでも燃やしたい。
約1年後に訪れる卒業が現実味を帯びてきている。
馴染んだ彼らとも1年後にはそれぞれの道に向けて歩みだし、次第に離れていく。その分岐点を最後に、それっきり会わないクラスメイトが大半を占めるだろう。
この集団が奇跡的に思えた。もし俺がこの高校を落ちていたらここにいるやつらとは会わなかった。真琴にも、鶴にも、アリナにも。
もしかしたら他校で素敵な出会いがあったかもしれない。そこでは部活に入り、友人たちと汗を流し、放課後の夕日に目を細めながら自転車を走らせる青春を送っていたのかもしれない。
過去に戻りたいと思わないような、最後の1年にしよう。
「あけおめ」
リア充真琴の新年のご挨拶。
意外にも彼は眠そうだった。朝に強い体質であるはずなのに。
「随分と眠そうだな。睡眠薬は程々にしろよ。中毒死とかあるからな」
「睡眠薬とか飲んだことないよ。久しぶりの学校だから緊張してあんまり寝れなかったんだ」
「遠足前の幼稚園児かよ」
「修学旅行前の中学生って感じ。彗は相変わらず眠そうだね」
「一日10時間睡眠が必要な脳だからな。毎日睡眠の借金を作ってるんだ。いずれ破産する予定だ」
「破産したらどうなるの?」
「死ぬ」
「やばいじゃん。今すぐ寝たほうが……」
「今のところ土日で返済できてるから大丈夫だ」
俺の睡眠事情はどうでもいい。
アリナの安否が心配だ。正月以来、彼女とは音沙汰無しだから内心不安でしょうがなかった。あんな話をされたら気が気でならない。俺は休み中ずっとそわそわしてたし、何度か電話をかけようとして連絡先を開いた。しかし結局押さなかった。気恥ずかしかったのもあるし、最悪のケースを耳にしたくない恐怖もあった。繋がらなかったらどうしよう、という恐怖もあった。
朝のホームルームが始まるギリギリに俺は教室を出て、隣クラスに入った。
「おふぅ……」
アリナがいた。思わずだらしなく息が漏れた。
彼女はスクールコートを羽織り、手をポケットに入れ、猫背になって縮こまっていた。顔半分をマフラーでぐるぐる巻きにしている様子から察するに相当寒がっているようだ。
「よう。寒いのか?」
「朝からあんたの顔なんて見たくないわよ」
「平常運転だな。大丈夫そうで何よりだ」
「これが大丈夫に見えるかしら。寒すぎよ。あんたたちどうして寒くないのよ。どれだけ剛毛なの」
「女子が聞いたらめっちゃ傷つく言葉だぞ」
「大声で言ってもいいわ。無駄毛で世界を覆うつもりなの、って」
「お前より俺の方がまだ女子力高そうだな」
「大腿骨砕くわよ」
マフラーの下でモゴモゴ喋っているだけだから全く怖くなかった。俺の脇腹を殴るその右手も寒さでポケットに引っ込んでいるし、足の指を踏み砕くその艶かしく白い両脚も黒タイツに包まれ、寒さに凍えている。
無害の毒舌アリナは口のうるさい芸術品なだけだ。
「あの後は何かあったか?」
「何がよ」
「……お前の父親の話だよ」
「いいえ。来ていないわ。心配してくれてるわけ」
「人並みには心配していたが、そうか……よかったよかった」
「ふぅん。最近奴隷としてサマになってきているわね」
「いつか反逆するからその首洗って待ってろよ。フランス革命を思い出せ」
内心ホッとした。
アリナの毒舌が寧ろ気持ちいいくらいだ。弱気な声色だったら俺は相当動揺してあたふたしていた。
そろそろ教室に戻ろうと思った時、俺の左肩を誰かが掴んだ。ぐいっとそのまま力づくで押し退けられる。見覚えのある男子生徒が俺とアリナの間に割り込んできた。廊下ですれ違う程度の「見覚え」なので話したことはないと思う。しかしその失礼な振る舞いに、紳士のわたくしもほんの少し不快感を覚えた。
「アリナさん! 1年の頃からずっと好きでした!」
今の時代では珍しくなったストレートな生告白だ。情報端末で想いを伝える若者たちに真っ向から否を突きつける熱い告白だ。しかも教室で。大勢のクラスメイトがいる前で。
教室は静まり返った。彼の告白音量がでかかったのである。
熱い愛の告白を初日から貰ったアリナの反応は顔色一つ変わらなかった。
「うるさいんだけど。私はそこの男と話しているのだから割り込まないでくれる? 常識をわきまえない人間なんかお断りよ。牛舎に帰って干し草でも食べてなさい」
そうなっちまうよな。悲しいこと極まりない。好きな子から牛扱いされるなんて悲劇だ。特殊な性癖を持つ者なら罵倒は御褒美になるかもしれないが彼は違うだろう。
プライドを傷つけられた彼は露骨に機嫌を損ねた。
「榊木のどこがいいんだよ!? こんなやつのどこが! やっぱり付き合ってんじゃないのか!?」
急な批判に俺は驚いた。羞恥心を抑えるために俺を使うな。視界に白奈の姿を捉える。彼女は顔を逸らしているが肩が小刻みに揺れているあたり、面白がっているようだ。
「まあまあ落ち着けって。コーヒーでも飲んでさ。あ、カフェインって興奮剤だったっけか」
「榊木、はぐらかすな。どうしてお前がいっつもアリナさんの隣にいんだよ。釣り合わねーよ」
「はぐらかしちゃいないっす。釣り合ってるとも思ってませんよ。ほらほら、俺は帰るからさ」
彼の肩をポンポンと叩いて「気楽に行こうぜ」的な海外ドラマに見られる友情シーンを再現した。
しかし彼は手を払い除けた。結構強めに。そして俺の胸をぐっと押した。もし俺が女の子だったら言い逃れのできない痴漢行為だ。いやん、と甘ったるい声を出しておけばよかっただろうか。誰にも需要がないから無意味か。
ちょっとしたこの攻撃で、彼が本気で俺を敵視していることがわかった。流石に反撃して殴るような脊髄反射精神ではないため「おっとっと」とよろめいた振りをしてそれっきりにした。喧嘩はゴメンだ。俺が勝っちゃうからな。
バチンッ!
アリナが立ち上がってビンタした。
なんとアリナに告った彼にである! 俺じゃなかった!
ビンタの対象が俺じゃなかったことに俺は驚き、口がぽっかり開いた。
ビンタされた彼は目をパチパチさせて赤くなった頬を撫でた。アリナは子羊のように萎縮した彼を軽蔑するように見下ろした。残酷なことにアリナの方が身長が高かった。そのアリナより身長の高い俺を攻撃したのだから肝は座ってると思っていたが、アリナのビンタは強烈な出来事だったらしい。
「邪魔よ」
眉の角度を上げてアリナは冷えきった声でそういった。そして男は魂が抜けたように教室から出て行った。
最近落ち着いていたアリナの久しぶりに見せたマジギレに、俺だけでなく生徒らもどよめいた。クラスは空気を戻そうとぎこちなく談笑を再開した。アリナをこれ以上怒らないように。
はっと息を切って席につき、彼女は乱れたマフラーをまた巻き直した。
「彼の名前、何ていうの」
「え。あ、知らん……」
「はあ。面倒ね」
「追い討ちをかけるのか?」
「違うわよ。ノートに本名を書かなきゃならないのよ」
「あ、例の……」
告白してきたやつを彼女は天使アリナのために記録しているのだった。
彼女が機嫌を損ねた上に担任教師がもうすぐ来る時間なのでフェードアウトすることにした。
「じゃ、帰ります。心を鎮めろ」
彼女は目を閉じ眉間に皺を寄せてこっくり頷いた。彼女が目を閉じるのは会話の拒絶を意味する。
俺は教室から出る前に軽く頭を下げて出ていった。荒らして申し訳ない。
「結局、俺と食事会かよ」
休み明けの始業式で午前が潰れ、やってきた昼食タイム。真琴は流歌とラブラブご飯するのかと思ったのに自然な流れで俺の机にやってきた。
「気まずいから……」
「なんかあったのか」
「冬休み、あんまり連絡できなかった……」
「そうですか。いただきます」
はっきり言うともう真琴の恋愛事情はどうでもよかった。彼らがどこまで進んでいるかだけ気になっているくらいで、それ以外はもう興味ない。
「あと、噂なんだけど……」
「この学校は噂が多いな。一体誰が情報操作してるんだ」
「彗が日羽に殴られたって聞いた」
「日常茶飯事だからいつを指してるのかわからんぞ。ちなみに今日は暴行されてない」
「本当に? あ、確かに血も出てないし、骨折もしてなさそうだね」
「どんだけボコされてんだよ俺は」
「なーんだ違うんだ。喧嘩でもしたのかと思ったよ」
「俺じゃなくて正確にはアリナに告ったヤツがビンタされたんだ。強めにな」
「いつ?」
「朝だ。お前との無駄話の後」
「あの後そんなことがあったんだ……」
浮気した旦那への制裁ビンタのような迫力だったから目に焼き付いている。見ているこっちが痛くなるくらいの豪快なスイングだった。あのタイミングでのビンタは意味不明だったが、もともと意味不明の塊みたいなやつだから理解しようとしても徒労に終わるだろう。
「あともう1つ噂があるんだけど……」
「本当に噂だらけだな。真実が1つもない高校だな」
「赤草先生が異動かもしれないって」
「へ?」
赤草先生が、いどう?
移動?
引っ越しか?
もしかして、あの異動か?
その後のことはよく覚えていない。
意識が戻るまで、俺は卵焼きを箸でつまんだままフリーズしていたらしい。
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