第36話 人間という生き物
放課後、今日も自由だとアリナに数時間前に言ったばかりだが、俺は薔薇園に向かった。
「こんにちは、お嬢さん」
ドアを勢い良く開けて元気に挨拶する。
アリナは普段通り本を読んでいた。
「あんた、今日は何もないんじゃないの……」
「急用ができたんでな。まあまあそういう顔すんなよ。その不機嫌な面は見飽きてんだ」
アリナはすぐに視線を本に戻した。
いつもなら適当に冗談を飛ばしているところだが真面目な話を始めた。
「アリナ」
声色からアリナは何かを悟ったらしい。再び俺に視線を戻した。
「もう1人の自分についてどう思う。率直な意見でいい」
「いきなり何よ。もう1人の私に恋でもしているわけ」
「魅力的ではあるけどな」
「気持ち悪い……」
アリナは己を両手で抱きしめて身震いしてみせた。
やがて彼女の表情は静かなものへと変わった。
「……彼女は私の妹みたいな感じよ」
「年齢がお前より下なのか? 俺はロリコンじゃねえから場合によっては自分自身を殴り倒さなければならない。魅力的って言ったが取り消してもいいか」
「ノートの自己紹介では私と同じ17歳だったわ。でもなんとなく妹っぽいのよ」
「ほう」
「あんたの妹さん、宇銀さんだっけ? あの子を見てそう思ったの」
「宇銀で? 不思議なもんだなぁ」
「慕ってくれる。そんなところよ。あー恥ずかしっ。言わなきゃよかった」
妹が俺を慕っているとは思えないが客観的にはそう見えるのだろう。命日になるかもしれんが妹に訊いてみようかな。俺のこと好きか、って。
「もし『彼女』が自分の中から消えるとしたら、お前はどう対応する」
「それはもう1つの人格が消滅して私だけになるって意味?」
「そうだ」
「……」
沈黙。一瞬だが深い沈黙だった。
「……私だけでいいと思うわ」
耳を澄まさないと聞こえないくらい細い声で彼女は言った。
「つまり、消えていいってことか?」
「えぇ。もう1人の私はきっと悲しみの反動で生まれた子よ。なんとなくわかるの。ずっしりと重たい何かを背負って笑ってる。スマホに残っている彼女の写真はそんな印象だった。他人から見れば元気な子に見えるかもしれないけど私にはわかる。本当に脆い子よ。だからもう眠らせてあげたい。もういいんだって、そう言いたいの」
重苦しい話だった。俺が触れちゃいけない部分だろう。
「これは興味本位の質問なんだけどな、その……俺があの日、お前の前に現れてなかったらアリナは自分がどうなってたと思う」
「何を聞きたいのかよくわからないわね」
「……俺は本当にアリナと関わっても問題なかったのかと思っててな、ずっと」
「多分嫌われ者のままだったと思うわ。今も嫌われているけれど。私が望んで作った環境であることは自覚してるわ」
「女子からは一部嫉妬されてるかもしれんが、男連中からは人気絶大だぞ」
「男は下心でしょ。死ね」
「俺は例外だから安心しろ」
「でも遅かれ早かれ男からも嫌な女になるわよ。だから、あんたが現れたのは転機だったのかもね」
もう1人のアリナは赤草先生にこう言ったそうだ。
もう1人の私と相性のいい話し相手を見つけてあげてください。
その相手が本当に俺でよかったのか。その真意はアリナの心の中にある。しかしわざわざ問いたださなくてもいいだろう。
転機だったのかもと言われて少しだけだが嬉しかった。役には立っていた。無駄ではなかったんだとわかった。
俺のプランは決まった。
端的に言えばアリナがここにいたいと心から思わせることだ。
アリナの人格交代はその場に「いたい・いたくない」という非常にシンプルで強い想いがトリガーだろう。確証もないし、確かめようがないがそうとしか思えない。これが俺なりの答えだ。
「アリナ。明日からやることを決めた」
「次はどの部活?」
「明日になったらわかる」
翌日。
「どうも」
昼休みに薔薇園に行くと予想通りアリナがいた。
「昨日の続きかしら」
文庫本を閉じてアリナは対話の準備をした。至って普通の動作であるのだが彼女にとっては、かつてありえなかったことである。過去なら無視してそのまま活字を追っていた。
「端的に言おう。友人を作れ」
「はあ?」
「アリナさんは友達を作りましょう」
「いらないんですけど」
「だろうな。その回答は予想済みだから素直に手を引こう。じゃあ何をするのか。それは普通の学校生活だ」
「何を言いたいかわからないわ。あんたよく馬鹿にされるでしょ」
「産声を上げてからずっと言われてきた気がする。それにお前と出会ってからは頻度が増えた。だがこれとそれとは別問題だ。俺は普通の学校生活と言った。頭のよろしいアリナ君にはこれがどんな意味かわかるか?」
「……いえ」
「薔薇園はやめだ。こんな空間はいらんってことだ」
薔薇園の必要性がなくなった。
二重人格、虐待、いじめ。その事実を俺はアリナと出会った時は知らなかった。だから薔薇園という俺とアリナだけの空間で人と接する機会を得るためにあれこれやった。しかしこれは一定値に到達すると変化がなくなる。ネタ切れになって、ただこの空間にいるだけになる。まさに現状だ。
だからいっそ無くなった方がいいのだ。
無くなっても会う機会はいくらでも作れるし活動はできる。薔薇園という避難所を無くす。彼女を追い詰めるわけじゃないが今までが贅沢すぎた。
最初は無理に友達を作る必要はないと思っていた。人間関係を無理矢理構築されても長続きするわけもないし、良い関係になるわけもない。
しかし人生観の変化はいつも誰かと出会ったときだ。
世の中には思いもしない過去や考えを持っていたり、自分とは違う人間がいる。その出会いをきっかけに心というものは少しづつ形を変える。人間が変わるきっかけは人間だ。
俺もアリナと出会って学校生活を改めるようになったし、放課後に誰かと過ごすのも悪くないと思うようになった。自分を変えたければ人と出会うのが一番だ。
「薔薇園は……この空間はダメだ」
「どうしてよ」
「ここはただの避難所でしかない。アリナ、俺は本気でお前たちが納得する結末に導いてやりたい。だからこうする。人にもっと寄り添え。誰もがお前を煙たがるわけじゃないんだ。
俺もそうだ。鶴、白奈、真琴、生徒会、赤草先生もそうだ。人の心に踏み出すことは図々しいことじゃない。人は嫌でも他人の心を食べないと成長できない生物なんだ。人は繋がりを求める。誰であろうと繋がりを欲しがる。それに逆行して棘を生やしても自分が辛くなるだけだ」
長々と本音を述べた。
対するアリナは無表情だったが、俺が述べ終わると含み笑いをした。
「それ、今考えたの?」
「台本用意しても覚えらんねえよ」
「あはは。あんたらしい」
アリナは立ち上がってスカートはたいた。
ふぅ、と息を吐いて彼女は顔を上げた。
「わかった。あんたを信じる」
「すまんな」
「ゴキブリが謝る必要はないわ」
「せめて哺乳類で例えてくれ」
「哺乳類に失礼じゃない」
いつもの調子が蘇ってくる。なんだか久しぶりに高揚した。
「薔薇園はこれにて撤収。でも私たちの活動は終わらないんでしょう?」
「お前が望むならな」
アリナはにんまりとして中指を立てた。
「ならいいわ。よろしく、榊木彗くん」
「よろしく、日羽アリナ」
俺も中指を立てた。
本当に俺らは馬鹿だなあと思う。
でも最高のコンビだとも思った。
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