第35話 太陽の過去

 アリナの母親は薄く目を伏せた。

 娘の衝撃告白に対して意外にも反応は薄いものだった。

 アリナは自分の言い方に誤りがあったのだろうかと俺の顔を一瞥した。何も誤りはないし、打ち合わせ通りの内容だ。もし俺が子を持つ親なら「とうとう中二病を遅れて発症したか」と笑い飛ばしていただろうが。


「そういうことだったのね」


 アリナの母親はそう言った。


「……わかってたの?」

「いいえ。でも変わったのは気付いてた。娘のことですもの。何かがあったのはわかっていたわ」


 アリナの母親は微笑みながら、それでいて悲しげな表情も浮かべて話した。傷心が垣間見える。俺の胸までも締め付ける、あまり見たくない表情だった。

 アリナは困惑していた。

 返す言葉が見当たらないといった状態で目が泳いでいる。しっかりしろ、と俺は念を込めてアリナの足をつついた。

 アリナは母に視線を戻して口を開いた。


「……いつ頃からか覚えてる?」

「そうね……」


 目を伏せて数秒黙り込む。


「小学6年生から中学2年生の3年間は私の知るアリナではなかったわね。でもどちらも私の娘なのはわかってる」

「ちょ、ちょっと待って。じゃあその3年間以外はって言いたいの?」

「違うの?」

「私は中学3年生以前の記憶が一切無いの。小学6年生以前も……」


 母にとってアリナの記憶がない話は残酷すぎる話だ。


 一人娘と過ごしてきた日々が娘にとって無かったことになっているのだ。思い出して、笑いあって、時に悲しんだ記憶はもう娘の頭にはない。

 アリナの母親は俯いてほろりと涙をこぼした。


「ごめんね、本当にごめんね、アリナ……」

「ちょっと、お母さん。どうして泣くのよ。泣くところじゃないでしょ。あ……」


 そう言うアリナも涙を流し始めた。

 2人してしくしく泣くものだから混沌の世界に放り込まれたような気分になった。何が起こってるんだ、この空間で。誰か説明してくれ。

 これより先には話が進まないと判断し、俺から切り出すことにした。


「アリナ、自分の部屋で落ち着いてこい。そしたら戻ってこいよ」

「……うん」


 アリナは鞄を肩に下げ、立ち上がる。


「ごめんなさい」


 去り際に彼女は耳元に肉薄してそういった。それ、毎日俺に言ってくれよな。


 アリナがリビングから出たのを確認し、俺は切り出した。


「単刀直入に話します。自分はアリナさんの生活態度を改めるためだけに付き添っている者です。決してお付き合いしているとかそういう仲ではありませんので安心してください」

「ごめんなさいね、突然泣いてしまって。アリナは……学校ではどうなの? あの子は学校のことを一言も喋らないからわからないの」

「アリナさんはいわゆる問題児です。酷い言葉遣いで相手を拒絶します。極度の人間嫌いというか、とにかく誰も寄せ付けない。寄ってくる者は徹底的に排除する、そんな感じです」

「それは本当?」

「本当です。自分は先生から頼まれてアリナさんの手助けをしています。理にかなっているのかはわかりませんが、だいぶ落ち着いたと思います。今もまだ酷いですが。あくまで自分目線での感想です」


 俺は立て続けに話し、そして最も知りたい核の部分に触れることにした。


「僕が訊きたいのは、アリナさんの過去です。何があったんですか? 言いづらかったら話さなくて大丈夫です。もし教えていただけるのなら聞きたいです」

「アリナの過去……あの子は忘れてしまってるのかしら……いえ、その方がいいのかもしれないわ……」

「この場で言いづらいのであれば紙に書いてもらっても構いません。口外は絶対しません。後日アリナを通してでもいいので自分に渡してください。郵送でも構いません。自分の住所を教えましょうか」

「大丈夫、アリナに書いて渡します。封筒に入れて読めないようにして渡すわね」

「無理には書かないでください。お2人の身が第一優先ですから」

「ありがとう。スイくん、アリナをよろしくね」

「いい方向に転がるよう頑張ってみます」

「でもどうしてそこまでアリナに?」


 どうして、と言われると確かにどうしてなんだろうな。


 アリナが好きかと質問されたら好感はある。

 割とあいつは面白いやつだし話していて飽きない。でもそれがしたいためにアリナの側にいるのとはまた違う気がする。

 赤草先生のためと考えてもいたが、最近は先生のことを考えなくともアリナのためと思って近づいていた。


 多分、俺は人の役に立ちたいんだろう。


 ずっと無気力な学校生活を送っていたから今が楽しく感じる。

 テレビの前で死体のように寝転んで妹にからかわれる。俺はその日々だけでも十分だと思っていたが、放課後に誰かと過ごして笑うことが、とても有意義で美しい時間であると、あいつは俺に気づかせた。

 新しい価値観との出会いは人間を変える。

 きっと俺はアリナが好きなんだろう。結果はどうあれ彼女の役に立ちたい。


「誰かの力になりたい、じゃあダメですかね」

「ふふ。アリナはいい人に出会ったわね」


 アリナに別れを告げず、俺はそのまま日羽家を出た。

 とても清々しい気分だった。本当の自分に気づけた。それは俺にとって大きな躍進だったと言える。




 日羽家を訪れた翌日、昼休み。

 真琴と食事会中、俺は昨日言いたかったことを真琴に告げた。


「おい真琴。俺と飯食ってる場合じゃねぇだろ。流歌と食えよ」

「わかってないな、彗は。これだから恋愛経験不足は困る。普通に考えてさ、クラスメイトがたくさんいる中で男女が一緒に飯食うとかおかしいだろ。周囲の目を気にしなさすぎだし。彗みたいなぶっとんだ性格のやつは違うかもしれないけど。よかったな、彗。俺が常識人で。一つ学べたね」

「今日はよく喋るな。スポーツ実況者の脳みそでも食ったのか」

「まぁ彗はそうやって一生ひがんでいればいいと思うよ。悪いけど俺はリア充だから」

「末永く幸せが続くことを祈っておいてやるよ」


 恋愛脳に染まりつつある真琴と話していると教室が少しざわついた。

 アリナだ。

 クラスメイトたちがドアの方に顔を向ける。アリナが教室に一歩入っている。

 クラスメイトの1人が「彗ならいるよー」と声をかけた。アリナは俺の方を見るなりズカズカと一直線に俺の元に来た。


「これ、渡してってお母さんから言われたんだけど」


 茶封筒だ。開け口はノリで貼り付けられている。開けられた形跡もない。

 

「何だろうな。受け取っておこう」


 俺はとぼけて受け取った。これが送られて来ると知っていたような反応をすればアリナはしつこく問いただす。


「それはそうと何で勝手に帰ったのよ」

「親子水入らずで話してほしかっただけだ。俺がいても気まずいだろ」

「べ、別にあんたなんかいなくても」

「ツンデレキャラやめろ。真琴が驚いてる」


 真琴はエイリアンにでも遭遇したかのように恐怖と驚愕の入り交じった表情をしていた。


「ひ、日羽ってそんなキャラだったっけ……?」

「誰あんた」

「うぐっ、フラッシュバック」


 真琴は過去の苦い記憶を思い出し、机に突っ伏して死んだ。


「アリナ、今日も特にやることはない。自由だ」

「そ……ありがとう」

「は?」

「き、昨日のことよ」


 ぷいっと視線を逸らしてアリナは帰っていった。

 風のように消えていった後に残ったのは茶封筒と真琴の死体。俺は茶封筒を持って教室を出た。真琴の葬儀には一応参列してやろう思う。


 中庭のベンチで茶封筒を開けた。

 一枚の紙。文の始まりは『スイ君へ』だった。そういや漢字の説明はしていなかった。






 スイ君へ。


 筆を取るのはとても迷いました。

 会ったばかりのスイ君に話せる自信がありませんでした。ごめんなさい。ですので、こうして文字に起こすことにしました。

 この内容は秘密にしてください。誰にも言わないでください。


 アリナは離婚した夫に虐待されていました。

 私がモデルの仕事で中々家に帰れない間、アリナは父親に暴力を振るわれていたのです。その事実に私は気づけず、本当に申し訳ないことを娘にさせてしまったことを後悔し続けています。

 夫は酒癖が悪く、そして私が人を引き付けやすいことが原因で人間不信に陥りました。精神的に歪み、不安定になって感情のコントロールが効かなくなっていたのです。

 

 虐待は小学4年生頃から始まって、学校の先生が虐待に気づき、通報したことで判明しました。それが小学5年生が終わる頃でした。

 母親と名乗る資格など私にはありません。アリナを抱きしめて何度も謝りました。しかし既に娘の目に光はありませんでした。娘は心を殺して自分を守っていました。

 きっとアリナは、家族が壊れてほしくなかったのだと思います。母親と父親が離れ離れになってほしくない、と。昔の夫は優しかったのですが見る影もありません。

 

 親権は死に物狂いで取りました。夫とは離婚し、旧姓の「日羽」に復氏しました。

 娘の光は帰ってきません。

 そして小学6年生になって間もない頃、異変が起こり始めました。アリナの性格が波のように変わるのです。


 元気いっぱいの明るいアリナ。

 今に近しい性格の気の強いアリナ。


 明らかに違いました。


 前者のアリナは偶にスイッチが入ったように現れます。ほとんどは後者で、生まれてからずっと私が見てきたアリナです。

 明るく元気なアリナは記憶がとても曖昧で齟齬が見られました。

 そして小学6年生後半から中学2年生が終わる頃まで元気なアリナが続きました。まるで虐待そのものが無かったかのようでした。

 私は怖くて訊けませんでした。

 訊けば、思い出して苦しめてしまうと思ったからです。


 私は何もできませんでした。


 娘が中学3年生になって、本当に何でもないある日、仕事から帰宅するとアリナは私の知る小学6年生以前のアリナがいました。表情、振る舞い、喋り方でアリナが戻ってきたとわかりました。

 けれど、記憶だけがなくなっていたようですね。今日アリナから話を聞いてわかりました。あの時も違和感はありましたが今日謎が解けました。

 

 その日以来、スイ君も知っているアリナです。

 娘から二重人格の話をされて全てが合致しました。はじめ、私が母親であることがわからなかったそうです。父親の暴力のことも話しました。

 

 これが娘の過去です。

 娘の心が割れてしまったのは虐待が原因でしょう。

 私はどうしようもなく馬鹿な女です。泣くことしか私はできませんでした。


 勝手すぎるお願いは承知の上ですが、どうかアリナと仲良くしてあげてください。








 読み終え、涙腺が緩んでしまった。怒りで自分の胃液が沸騰しているのがわかる。

 二重人格の原因はアリナの母親が言うように虐待だろう。

 アリナが震えて暴力に耐えている姿を想像すると全ての内臓が燃えるように熱くなる。1人の大の男から殴り蹴られ、じっと黙って耐えているなんて……あまりにも理不尽だ。

 記憶喪失の原因は限界を超えた苦しみの中での自己防衛だろう。耐えられない、辛い、これ以上は精神が崩壊する。そんな崖っぷちの精神状態。

 地獄のような世界でアリナは記憶を消すことを選んだ。



 これからどうする。


 自問する。

 アリナの過去を知って俺は何ができる。

 何を変えられる。


 最初に思いついたのは深層にしまい込んでいるトラウマの排除、あるいは克服だろう。

 忘れてはいるが影響は受けている。それがアリナの毒舌に結びついているはずだからだ。

 そのためにまずはもう1人のアリナに相談する必要がある。


 俺はそこから始めることにした。

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