第29話 かき乱される心

 冷静になって考えてみるとおかしな点が露呈している。


 2人。優しいアリナと毒舌アリナ。

 2人の意見だけではどちらが基本人格なのかは断定できない。

 2人とも相手のことを基本人格と述べているからだ。記憶の断絶もある。確かなことが何一つない。


 日羽アリナという肉体の歴史は、今、目前にいる優しいアリナの方が理解が深いことだけわかった。

 彼女は小学6年生から世界を観測している。6年生以前の自分は毒舌アリナに教えてもらったと明言しているが、当の毒舌アリナ自身は中学3年生以前の記憶がないと言う。


 俺はもう1つの人格の可能性を考えた。

 二重人格ではなく『多重人格』ということだ。

 多重人格者の事件を調べたとき、存在が認知されていない人格があるという事例を知った。だから可能性としては捨てきれないだろう。

 

 アリナは向日葵のような満開の笑顔を振りまいて俺と歩いている。すれ違う生徒らは三度見くらいして鼻の下を伸ばしていた。

 もちろん生徒会所属の臨時風紀委員として職務を全うしている最中だ。

 

「あれ楽しそー!」


 指差す先は俺の教室だった。


「ちなみにコスプレ会場じゃない。あれは喫茶店だ」

「へえ。彗くんのクラスだよね?」

「まあ」

「コスプレしないの?」

「しないんだな、それが。この仕事を引き受けたから免除してもらった」

「ふうん。面白そうなのにもったいないなぁ」

「あ、やべ逃げるぞ」

「え?」


 馬のマスクを被ったアロハ男が近づいてきた。

 アリナはささやき声で俺に耳打ちした。


「ちょちょ、誰この人」

「鷹取真琴だ」


 アリナは鞄からノートを取り出した。


「うーんと、私に告白した人? 彗と親友って書いてる」

「お前に告白したやつなんて腐るほどいるだろ」

「そうだね。合計72人って書いてある」

「もはやグロいな。男が72人はキツい」

「全部断っておいた、って書いてある」

「さすがだ」

「前向いて前。いるって」


 首を正面に戻すと馬の鼻先が眼前にあった。

 

「近えよ、真琴」

「来い」

「は?」

「来いって言ってるんだよ、裏切り者」


 腕をぐいっと強引にひっぱられ、アリナとの距離が開く。腕を千切る勢いの握力だ。憎しみがこもっている。

 俺は壁に背を預けることになった。馬は鼻先を相変わらず俺に突きつけた。その鼻先を震わせながら馬は喋った。


「ただの美少女じゃねぇか……!」

「声が震えてんぞ」

「日羽はどうしちまったんだ……!? あれじゃあただの美少女キャラじゃねぇか……!」

「言われてみればいつものアリナじゃないよな」

「もはや別人だろっ……! 可愛い……!」

「それは俺じゃなくてアリナに直接言ってやれよ。俺からは何も出ないぞ。トマトジュースぐらいならドロップする。まだ1本ある」

「ほざけ、裏切り者。彗が日羽になんかしてあんなほわほわした雰囲気にしたんだろ。付き合ってないとか言っておいてなんだこれ、ぶっ飛ばすぞ」


 興奮の冷めない馬に俺はトマトジュースを押しつけた。


「これ飲んで落ち着け。教室の雰囲気おかしくなるだろ」


 馬は缶を握りしめ、俺に背を向けた。いい加減にあいつと付き合ってないことをわかってくれ。さもなくば馬刺しにするからな。

 アリナのもとへ戻った。


「みんな知らない」

「無理もない。逆にお前は有名人だけどな」

「そうっぽいね。赤草先生からも聞いてる。ノートを読むとそんな関係がなんとなーくわかった。毒舌薔薇ちゃんは悪目立ちしてるんだね」

「毒舌薔薇っていうのもノートから?」

「うん。自分の呼ばれ方とか書いてるよー。日羽さん、アリナさん、アリナちゃん、毒舌薔薇って。ちなみに彗から『お前』って呼ばれるのはすごく嫌なんだって。おもしろーい。気に入られてるんだね」

「はいはい光栄光栄」

「本当にノートに書かれてる通りの人なんだね」


 日羽アリナは俺の左腕を抱きしめて身体をすり寄せた。

 咄嗟のことに魂が出て行った。


「ふわあー……」

「ドキッとしちゃった?」


 体が溶けそう。なんて柔らかな体なんだろう。


「ノートに『榊木彗との交際疑惑が噂になってるから気をつけて』って書いてあったんだけど」

「存じ上げませんでした」

「嘘つき。なんで私が出てきたかわかる?」

「わかんねーな」

「ふふ、恥ずかしかったんだよ。彗くんに見られるのがね。恥ずかしくてたまらなかったから引っ込んじゃったの」

「どうも信じられんな」

「ほんとだよー。アリナ、すごくツンツンしてるけどやっぱり女の子だから」


 左腕が解放され、とても軽くなった。不思議だ。毒素を抜かれたのだろうか。どうやらこのアリナは毒を吐かず、毒を吸い取る治癒能力を持っているらしい。今なら左腕で砲丸を月まで飛ばせる。


「仕事に戻りましょう、アリナさん」

「はーい」


 再び歩き始めた。

 もう優しいアリナさんについていけない。テンションが違う。波長が違いすぎる。

 2人が同時に存在したらお互いどんな話をするんだろう。相当面白い絵になるに違いない。


「ねえ。彗くんって私をどうしたいの?」


 不意の問いに俺は戸惑った。

 独り言のようにさらっと言ったアリナは薄く微笑んでいたが、すぐに真剣な質問だとすぐわかった。


「正直、わからなくなった」

「わからなくなった」

「毒舌を治すことから始まった。そして二重人格と知り、疑問を持ちつつも、今のお前を取り戻すことに切り替えた。すると次は『日羽アリナ』の姓名を授かったのは毒舌アリナだとお前は言い張る。もう何をすればいいのかわからないというのが本心だな」


 アリナは「ふぅん」と鼻を鳴らした。

 そして天使なアリナは言った。


「もう、私たちに構わなくてもいいんだよ?」


 その何気ない一言は俺の魂を揺さぶった。

 初めて日羽アリナと出会ったとき、本当に面倒なことに巻き込まれたと後悔した。妹にも愚痴ったし、どうすればいいのかわからず困惑していた。

 一方的に罵倒される日々ではあったが、たまに見せる彼女の微笑みが悪くないと思わせ、つい口元が緩んでしまう日々でもあった。

 アリナとの会話が楽しかった。我ながら尻に敷かれていると自嘲した。

 この感情は嘘でも冗談でもない。


 だからアリナのその言葉は深く突き刺さった。


「彗くんにこれ以上迷惑かけられないから。ずっと私たちのために尽くしてくれたんでしょ?」

「それなりに頑張ってはきた」

「もう大丈夫だよ。私がなんとかするから」

「……お前が望んでいる結末はなんだ?」

「私が綺麗さっぱり消えるよ」


 恐ろしいことを平然とアリナは言った。ある意味――死だ。死と同義だ。

 そして問題なのは2人共消えたがっていること。自殺の裏腹とも捉えられる。


 俺は絶句のまま、アリナと校内を回った。

 時々アリナは「ここ寄っていこーよ」と誘うのでなんなりと付き合ったが、俺はうわの空だった。心ここに在らず、ぼんやりと霧の中でさまよっているような感覚だ。

 アリナの傍にいられなくなるという可能性に恐怖を覚える。日々彼女の存在が肥大化していたことは自覚していたが、箱を開けてみると想像以上に膨らんでいた。

 

 不意に背中をどつかれた。

 皮膚も筋肉も突き破って心臓が出てくる勢いでドガンと衝撃が来たため咳き込んだ。


「ごめんなさい、背中に虫が止まっていたから」


 暴力の正体は日羽アリナだった。

 こんなことをするやつを俺は1人しか知らない。


「どうやらお目覚めのようだな」

「そうね。目覚めた直後があんたの背中だなんて最悪の目覚めだわ。気持ち悪くなってきた。吐きそう」

「チェンジ」

「はい?」

「人格チェンジ」

「そう簡単に切り替わるようなら苦労しないわ」


 毒舌薔薇だ。この故郷に帰ってきた感覚はなんだろう。


「で、私と何を喋ったわけ?」

「色々とまあ……」

「次言葉を濁したらインド洋に沈めるわよ」

「……お2人のご関係と過去を少々。あとノートのことも」


 アリナは目を点にして呆けた顔になった。

 ポカーンと口を丸にして無限遠方の彼方に焦点を当てている。


「ど、どうした」


 すぐにキッとした表情に切り替わった。お前は3Dキャラクターのテクスチャか。

 慌てながらアリナは先程のノートを取り出して何かを殴り書きしている。

 書き終わるとすぐにしまいこんだ。


「今度これ読んだら懲役800年」

「外国の受刑者かよ」

「もう……なんてことをしてくれんのよバカバカ」

「見ちまったもんはしょうがない」

「うるさい殺すわよ。あんた眼球を舌で転がすとどんな味するか知らないでしょ」

「俺の中でお前のステータスがどんどん更新されてくな。カニバリズム追加だ」

「うるさい、変質者」


 アリナはそっぽを向いて拗ねた。ツンデレキャラになりつつある。しかし一考の余地がある。アリナにデレの部分はあるのだろうか。あくまでツンデレっぽく見えるだけでデレ要素が備わっているかは正直なところ微妙だ。


「アリナ。ツンデレって知ってるか」

「知ってるけど」

「お前ツンデレだろ」

「はあ? 話逸らすんじゃないわよ。次ノート見たら命は無いわ」

「どんなこと言ったらデレるんだ? 教えてくれよ」

「あんたの制服に火つけるわよ」

「可愛いなぁ!! 可愛いなぁ!!」


 俺は頭の上で猿みたいに手を叩きながら連呼した。

 アリナは俺のバカさ加減に呆れたらしく、腕を組んで目をつむった。だがその表情は悔しさと恥ずかしさが混じっていて尿意を我慢しているような顔でもあった。多分トイレに行きたいんだな。


「トイレなら行ってこいよ」

「違うわよ! あんたバカでしょ。ホントバカなクソガキ!」


 平手打ちをくらったが、その痛みは安堵感をもたらしてくれた。

 またアリナと言い合える。

 本当に俺はバカなのかもしれない。

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