第15話

冷蔵庫にはたくさんの缶ビールが残されている。それをおいしそうに飲み干していたはずの存在を、思い出したくなくて、思い切って全部捨ててしまおうか、という気にもなる。

そこで玄関のカギを開ける音がした。

「久しぶり、元気だった?」

「え、あ――お帰りなさい」

「なに驚いてんのさ。今日夜にこっち来るって約束してたでしょ」

「そうだっけ……」

「エリ、疲れてんの?」

「まあ、ちょっとね」

ムツは部屋を見まわした。

「散らかってるね」

彼女が行ってしまってからというもの、荒れた心を表すように部屋は散らかっていた。とても、人を招ける状態ではない。

すると――驚いたことに、ムツは黙って部屋の掃除を始めたのだ。

「別人みたい」

「馬鹿にしないでよ。お父さんと一緒に過ごして、家事も忙しいんだから」

なんだか心の奥で繋がっていた絆を、一本断ち切られたような感じがして、胸がずきりと痛んだ。

「冷蔵庫になんかある?」

「……ビールだけ」

「私が今日は晩御飯作ったげるよ。疲れてるだろうし、たまには」

「たまにもなにも、ふたりで暮らしてて一度も作ってもらった覚えないけど?」

「いいから。ちょっとスーパー行ってくるね」

私はてきぱきと支度をして、使い込んでいるらしいエコバッグを手に家を出ていくムツ

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を呆然と見つめることしかできなかった。私のためを思っているなら、どうか、私に世話をさせてほしい。そんな思いに気づいた瞬間、思い知ってしまった。

ムツと住む環境に依存しているのは、私で、私だけでしかなかった。記憶は過去にさかのぼり、否が応にもさかのぼってしまい、痛感する。

初めから、そう初めから私のわがままで彼女を連れ込んで、勝手に世話をしてやっていて、ムツも私がいないと生きていけないのだと勘違いして。

お互いに、必要な存在。そう思っていたのは私だけ。


上京を勧めた時彼女を引き付けたものは、最先端のものに触れやすく、他人と交流がしやすいということ、それだけだった。住環境に関して彼女がほしかったのは、東京で快適に寝泊まりする場所であって、それがどうしても私の家である必要はなかった。

そんなこと、はじめから知っていた。一緒に住み始めた頃――まだ二人の間に恋心が芽生えてはいなかったころ、それはもちろん承知していたはずだ。そう、彼女が両性愛者であることも知っての上だったし、前の彼氏――佐藤さんと別れた時の愚痴も何度も聞いた。気道に、ざらざらとした砂のような感触があり、呼吸が浅く、苦しい。感情を発露して思うまま暴れてしまうには、残業終わりの体は、心は疲れすぎている。

さらに言えば――よせばいいのに思考は巡る――家事が得意とは言わないが、一応初めの少しの期間は一人暮らしができていたのだ。私に甘えて、家のことができないという欠点があるように見せていただけ、とすら思う。

少なくとも、家事のこなし方を見ればわかる。両親に、家事もできない、となじられてはいたが、任されれば人並みにはできるのだろう。

ムツは帰ってきて、

「エリ、ちょっと寝ててもいいよ」

確かに見かけ上は疲れているだろう。その裏にある私の悩みに、興味などないかのように私に声をかけた。優しさを素直に受け取ることができない自分も嫌になる。

思い切って、この思いを打ち明けてしまえばどんなにか楽なことだろう。泥まみれのような思考を彼女にさらけ出すことは、しかししたくなかった。


ムツは、次の日には帰ってしまう。彼女の日常に、帰っていくのだ。

私の悩みを打ち明けて、その邪魔などする資格はない。

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生活のスケッチ 綾上すみ @ayagamisumi

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