11. 男の子
「あの頃は人間に詳しくなかったから、君と一緒に過ごせればそれでいいと思ってね。それがどういうことになるか知らなかったんだ。透に教わってからは、素直に待ってたんだよ。数年なんて僕にとっては大したことのない時間だから」
少年は恥ずかしそうにもじもじしながらも、僕に微笑んで見せた。
「子供の人間は魂が世界に馴染んでいないから、こっちに長い間連れ込むと簡単に還ってしまうんだってね。君と会えないのは嫌だったけど、還ってしまうのはもっと嫌だったから、我慢してずっと待ってたんだよ」
偉いでしょう、と言うかのようににっこりとしながら、少年はわずかに首をかしげて僕の反応を見ているようだった。
「そうだったんだね。ごめん、まだそこら辺のこと、ちゃんとは分かってないんだ。今日はちょっと急ぎの別の用事があって。子供がここに」
「瞭が分かっていないことも、子供のことも僕は分かっているから大丈夫。ついてきて」
瞭、と呼ばれたときに不意に記憶の中の子猫の声と重なった。
昔は、叔父さんにもイキモノ達にも、瞭、と呼ばれていた。いや、小さい僕が自分のことをりょう、と言っていた気がする。
少年は素早い動きで社にあがり、作り立てのようなまっさらな木の廊下を小走りで走り抜けた。いつの間にか僕の胸から伸びていた糸は意識を集中しなければ見えもせず感じもしない状態になっている。一体どういう物なのかと首をひねりながらも僕が慌ててついていくと、少年はさも嬉しそうに笑い声をあげる。はためく裾から紐がひらひらとなびいている。
そしてしばらくあちこち曲がりながら走ってから、たどりついた床の近くにある小さな入り口に軽く手を触れた。
「そろそろ水に魅かれている頃だから、この躙り口の先の泉に先回りしよう。入って」
わけもわからず小さな入り口をくぐると、そこは室内ではなく森の中の泉だった。
振り向くと、すでにそこに社はない。でも、その泉を僕はよく知っていた。あの頃は湖の様に大きく感じたが、今は大きめの池だか泉だと分かる。
「ここ、知ってる」
「瞭はここが好きで、何度も夢渡りしてきていたよね」
少年はおかしそうに笑うと、泉の反対側を指さした。物音が近づいてくる。
「あの子には水を飲ませないほうがいいよ。急ごう」
そう言うと、少年は四つん這いになったと思いきや、するすると鹿のような姿に変わりながら、恐ろしい速さで泉の反対側に駆け抜けて行ってしまった。あわてて追いかけると、子供の悲鳴が聞こえた。
その声には聞き覚えがあった。
僕を化け物扱いした、三人組の真ん中の子だ。
「こっちに来るな、化け物っ」
今回は正解だな、と思いながら急いで悲鳴のほうに駆けつけると、腰を抜かしたたっちゃんと呼ばれていた男の子の前に奇妙なイキモノがいた。
全体的には青い鹿のような体をしているが、狐のような太くやわらかそうなしっぽがある。かなり立派な角や淡い青の華奢な胴体はまさに立派な鹿。鹿のような白い四本の細く長い脚の先はよく見ると濃紺の、蹄と言うにはとがっていて、爪と言うには丈夫そうなものがついている。だが顔のあざを見れば、その正体は僕の友達に違いなかった。
「僕ってわりと綺麗な部類に入るんだけど」
僕を振り向いた友達は、その整った鹿の顔に明らかに戸惑いを浮かべている。
「話さないで。人間の常識では動物は人間の言葉を話せないんだ」
「でも人と話す鳥がいるって、ヤグルマは言ってたよ」
「話してはいないよ、真似がうまいだけ。話すなら、さっきの格好の方がいいよ。それかせめて昔してたような子猫ならまだましかな」
「そういえば、瞭も僕のこの姿を見たことないんだったっけね。これでもしっぽとか角とか控えめにしているんだけど」
腰を抜かした男の子はぽかんと僕を見上げていたが、すぐに僕を思い出したようだった。そして、不安に震えていた顔からさらに血の気が引いた。
「やっぱり化け物だったんだ」
「僕は人間です。そして信じられないかもしれないけど、君と同じぐらい状況が分かってない」
「化け物ってひどいなぁ。僕って結構綺麗で、この辺りではすごい存在なのに」
「仕方ないよ、君は確かにきれいだけどその、発している存在感がすごいし。生命力って言うのかな」
「まぁね。強いから。君も強いんだよ?」
話が脱線し始めた。僕が咳払いすると、友達はああ、とすぐに気がついてまた男の子のほうに注意を向けた。
「ところで君、ものすごくお腹空いてるはずだよ。早く戻って美味しい物でもどうかな」
話すなと言ったのに、四つ足の姿でそう言った。僕はまだ固まっている男の子にフォローするようにしゃがんで声をかけた。
「ええっと、たっちゃん、だったかな」
「それは僕の友達と家族が呼ぶ名前だよ」
おびえていた様子の少年は途端にむっとした顔で立ち上がった。苛立ちが彼を奮い立たせたらしい。
「じゃあ、何て呼んだらいい?」
「たつひこ君」
「そう、じゃあ、たつひこ君。お腹すいてるんじゃない?」
まだ信用するか迷うように、目を左右に動かして僕らを見比べていたが、小さくうなずいた。
「こっちから良い匂いがするから、ここまで来たんだ」
「でも、こっちに食べ物はないよ。猫屋敷で食べさせてあげるから帰ろうよ」
疑わしそうに僕を見て、名残惜しそうに泉のあるほうを見つめた。
「でも、この水、とってもきれいだしおいしいかも」
「この泉はね、イキモノみんなが求める力があるからね。でも、人の子は飲まないほうがいい。この泉の力は強いからね。力に負けて、還ってしまうよ」
友達は小声で僕に説明してくれた。気づかれないように僕は口を動かさないようにしながら、思わず質問してしまった。
「そういえば、還るってつまり」
「そっちの言い方だと、サンズとかヨミとか言ってた」
サンズ?
三途の川のことじゃないだろうか。
それでいくと、ヨミは黄泉の国?
つまり死ぬってこと?
「僕、ここで遊んだことあるよね。水も飲んだし」
「君は大丈夫。子供のころから強かったし、人間なのが不思議なぐらいだもの」
よく分からないが、よくなさそうなのは確かだ。僕は恐怖から立ち直りつつあるたつひこ君の手を取って顔をのぞき込み、泉に未練を感じさせる視線を遮った。
「ほら、友達が心配してるんじゃないかな。たつひこ君がいないと、あの二人はびびって泣き出しちゃうかもよ」
友達、という言葉を聞いてうつろだった目に何かが戻ったように見えた。
「あいつら、弱っちいからな。俺が守ってやんないといけないし、今日は黙って来ちゃったし」
もう一度だけ泉の方に目をやったが、僕の目を見てうなずくと僕の手を握り返してきた。僕はその小さな手の感触がどことなく頼りないことに動揺したけれど、それを押し隠した。たつひこ君に微笑みかけてから、四つ足姿の友達を見つめた。
「それで、帰り道はどっちなの?」
帰りは容易ではなかった。
森の中、草木をかき分けて道なき道を歩かされた。草木は僕には無害だったが、なぜかたつひこ君は柔らかな葉が一枚かすっただけでも切り傷を作った。我慢強く口を固く結んで歩いていたが、傷だらけになっていくのを見ていられなくて、僕が背負うことにした。
「その子の魂が弱ってきてるんだと思う。でももうすぐそこだから」
突き出した木の枝に腕を強くひっかかれて小さくうめいたたつひこ君を見ながら、友達はそう言った。わずかに歩く速度が上がった。
周囲がだんだんと明るくなり、いつの間にかぽかりと空いた空き地に出た。僕が強く魅かれた泉の匂いは薄まり、古い屋敷の匂いが強い。
友達は振り返ると、残念そうな顔をした。
「僕はまだこれ以上先には行けないんだ。あまり向こうに居てはいけないらしいんだ。君が僕と契約できるようになったら別だけど」
「でも、結界を補強したし入り口も広げたから挨拶ぐらい大丈夫だって、透が言ってるわ」
気取った声に振り向くと、ヤグルマが上品に座っていた。
「本当?」
「子供を助けてくれたお礼をしたいし、お礼にはそれが一番だろうって。今回のことは透の手落ちでもあるでしょ。瞭一の保護者としても、当主としても挨拶したいって」
友達は体を震わせると、少年の格好に変化した。
「向こうではこの格好の方が動きやすいかな」
ヤグルマは気に入らなそうに上から下まで眺めている。
「私みたいな恰好に合わせてくれた方がいいんだけど」
「それもできるけど、ちゃんと招待を受けるならこっちの方がふさわしい気がする。本当は元のままが良いんだけど、そっちの子があまり好きじゃないみたいだから」
僕はたつひこ君が気になった。明らかにさっきよりぐったりとしている。
「君たちの姿問題よりも、この子のために急ぐんじゃなかった? 出口に連れてって」
ヤグルマは明らかにはっとして、少し恥ずかしそうに腰を上げた。
「透の相棒失格ね。ごめんなさい、行きましょう」
そう言って、広場の奥へ小走りでかけていった。僕は後を追いながら奇妙なめまいを感じたが、少年をゆすり上げてしっかりと背負い、大地の感覚に集中して駆け抜けた。
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