10. 常世にて

 鏡をのぞき込んだ直後、僕は乳白色の靄の中にいた。靄は濃く、体に絡みつく様で僕は靄を振り切るようにして手足を動かした。何も見えないが、懐かしい匂いが周囲を満たしていて、先ほどまで感じていた恐怖はもはや微塵も感じていなかった。


 しばらくあてもなく足を動かしていると、徐々に周りの靄が晴れてきた。どうやら深い森の中にいるらしい。さわさわと葉がこすれ合うような音があたりを満たしている。木々の色は淡く、優しい。どの木も大きく太く、立派な物ばかりだ。

 目を凝らしながら周りをよく見ると、近くに立派な神社のような建物があった。ものすごい存在感を感じる建物なのに、輪郭が靄に溶け込んでいるかのようにはっきりしない。

 しばらく立ち尽くしてあたりを見ていると、徐々に周りがはっきりしてきた。相変わらず乳白色の靄があたりを包んでいるのだが、目が慣れてきたのかもしれない。ぼんやりと叔父とヤグルマの声を思い出す。


 温かい光を辿る。

 子供。


 そうだ、子供を連れ帰らないといけない。

 多分、ここが二人の言っていた『向こう側』というやつで、多分叔父が言いかけていた常世という場所だろう。

 そして、迷い込んだ子を早く連れて戻らないと戻れなくなるらしい。

 さらにじっと周囲に目を凝らしてヤグルマの言っていた温かい光を探していると、色調の違う光の帯が見えた気がした。まるでシャッター速度を落としたカメラで写真を撮ったような、光の痕跡だ。

 僕がそちらに歩き出すとすぐに、後ろで声がした。


「まずは僕を見つけて、って言われてじゃないか」


 振り向くと、すぐ近くに男の子が立っていた。

 見た瞬間に誰か分かった。

 友達だ。

 夢に出てきた、僕の友達。


 男の子は人間、と呼ぶには少し変わった様子をしていた。

 白に近い水色の狩衣のようなものを着て、血の気を感じさせない青白い肌をしているのに、瑞々しい印象を受ける。目立つのは耳の少し上辺りから生えている鹿のような立派に枝分かれした角だ。そのすぐ下の外に張り出した耳も、心なしかとがっている。よく見ると手からは青くするどい爪が生えている。大きな目は釣り気味で、青く見えるが虹彩は金茶色だ。整った顔立ちだが、向かって右の眉から頬にかけて目を閉じると本州のような形の薄いあざがある。


「君を知ってる。僕の、友達だ」


 もっとも僕が知っているのは、同じ形のあざと同じ色の目を持った黒い子猫だった。日に当たると、黒い毛並みが青みを帯びてつやつやと光っていたことをよく覚えている。

 小さい頃からよく夢に出てきた猫で、大人には見えない僕だけの友達だった。小さい子が作り出す、空想の友達。少なくとも大きくなった僕はそう思っていた。

 でもこうして目の前にいるのを見ると、たしかにあの子猫だし、たしかに存在している。


「そうだよ、ずっと待ってたんだ。君が大きく丈夫になるまで」


 少年は嬉しそうに頷いて、自分の胸から伸びている青白く光る細い糸を指ではじいた。少年がそうするまで、そんな糸に気づかなかったが、驚いたことにその糸は僕につながっていて、少年のはじいた振動が体に響いた。強くて優しいその振動は心地よく、これが叔父やヤグルマの言っていた絆がつながっているということかと不思議と納得がいった。それ以外に表現のしようのない繋がりを感じていた。

 少年は僕を上から下まで観察してつぶやいた。


「もう少し時間は必要そうだけど、たまに遊ぶくらいなら大丈夫そうだね」


 少年はうんうん、と嬉しそうに頷いて僕に微笑みかけた。


「それにしても、随分と大きくなったねぇ」


 その一言で思い出した。五歳の時の迷子の一件を。




 小さい頃、僕の世界は不思議なものにあふれていた。夢と現実の区別がつかなくなるぐらい、不思議なモノが身近で当たり前だった。

 気がつくと奇妙な場所に迷い込んでいることもよくあった。図鑑に載っていないようなイキモノはそこら中に居て、よくおしゃべりしたり、時に遊んだりもした。いつも何か不思議なイキモノがそばにいて、時に怖い思いもしたけれど助けてくれたのも同じく奇妙なイキモノ達だった。


 そんな普通に聞いたら子供の空想話でしかないことを、いつも真面目に聞いてくれるのが叔父だった。いや、叔父だけだった。小さい頃は猫屋敷から車で三十分ぐらいのところに住んでいて、まだ共働きだった両親は祖父と叔父が同居していた猫屋敷によく僕を預けた。僕は猫屋敷に来るたびに叔父にそれらの話をして、叔父はごく普通にそれらの話を受け入れ、よく分かってくれた。

 両親ももちろんちゃんと話を聞いてくれたのだが、どこか反応が的外れだった。幼稚園にあがる頃には、なんとなく二人はそういう話を信じていないか、喜んでいないのだと感じていた。だから、もっぱらそういう話ができるのは叔父だけだった。


 あの日は、猫屋敷に大人がいっぱいいて、叔父もなんだが忙しそうで僕は暇だった。

 暇と言っても、猫屋敷は広く魅力的で時間をつぶすことに困ることはなかった。たしかその頃は屋敷の裏で遊ぶのが僕のブームだった。ちょうどなんだか分からない虫の卵が裏庭にあって、遊びに行くたびに裏庭の卵を観察していたのだ。

 裏に行くと、祠の近くにほんのりと青く光る黒っぽい塊が落ちているのが目に入った。

 近づくにつれてわくわくしたのを覚えている。

 すぐに分かったからだ。

 小さい頃からよく夢の中で会っていた、目にあざのある子猫だった。


 ついに会えたことが嬉しくて、猫と遊びながらついていくと、見たことのない場所に迷い込んでいた。息苦しいぐらいに濃い植物の匂いに満ちたその森で、猫は僕にずっと一緒に遊ぼうと誘ってくれた。

 僕は大好きな猫と話せるのが嬉しくて、何もかも忘れて二日間猫と一緒に過ごした。

 森の中を駆け回り、夢に見た湖で水遊びをし、見たこともないイキモノたちと一緒に昼寝をして、随分と大きな木に登り、そこにいた人にたくさんの面白い話を聞かせてもらった。他にも、光る花が一面咲いた丘で追いかけっこをしたり、川に舟を浮かべたりととにかく思いつく限り遊んだ。

 3日目の朝、遊んでいる最中にあの優しかった叔父が怖い顔で迎えに来たのだ。


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