9. 祠

 走りこんできた猫は、そのまま屋敷の裏手のほうに再び走り去っていく。ヤグルマは焦点の合わない遠い目をしながらも、話し続ける。


「何匹かは門や塀を見張って、残りは裏手に」


 すぐに猫たちが方々へ走り去っていく。どうやらあの猫たちもただならぬ猫らしい。


「この感じだと、魂の定着前の幼子ね。多分、さっき暸一に絡んできたあの子たちの誰かじゃないかしら。ここのところよく屋敷の周りで騒いでたから」


 僕を化け物扱いしていた、あの子たちの誰かがいたずらでも仕掛けに来たんだろうか。それだけのことに何を慌てているんだろうと思っていると、叔父は鋭い視線をヤグルマに向けた。


「その子はいま裏にいるのかい?」

「まっすぐ祠のほうに向かってる」


 祠、と聞いた途端、体の芯からひんやりとする。

 僕が固まっていると、叔父は靴も履かずに縁側から庭に飛び降りた。


「あとでまた話しましょう。君はここでゆっくりとしていてください」


 叔父はそう言いながら着物がはだけるのも気にせず、猫並みの素早さで走り去ってしまった。

 何が何やら分からぬまま気が付くとヤグルマもいなくなっていて、僕一人、縁側で湯呑をもって座っていた。

 話から察するにさっきの子供たちの誰かが屋敷に忍び込んだのだ。叔父は靴も履かずに子供をとっつかまえに行ったんだろうか。穏やかそうな顔をしているが、子供が嫌いなのかもしれない。だから小さい僕に、あんな怖い顔をしたのだろうか。

 とにかく、猫含めみんなが必死な様子で走り去ったのに、僕だけぽつねんと座ってお茶を飲んでいるのも気が引ける。何せ、僕は叔父にお世話になっている身である。

 とりあえず靴を持っていくぐらいはできる。僕は玄関に回り、叔父の草履を手にして屋敷の裏に向かった。



 屋敷の裏に向かうにつれて、どこか懐かしい匂いが強くなる。さわやかでほんのり甘い、何かの花のような匂いだ。その匂いの懐かしさとともに恐怖も増してくる。どうしてこんなに怖いのか分からない。理由の分からない恐怖に、手足の震えが抑えられない。

 だがじりじりと進むにつれて、怖さよりもその匂いに惹かれる気持ちがわずかに競り勝ってくる。

 小さい頃は祠の方に行くにはロの字の渡り廊下の下をくぐってショートカットできたのだが、大きくなった今ではそれも難しい。僕は急ぎ足で大きく屋敷を迂回して裏手に急いだ。

 じわじわと嫌な汗が背中を流れる。

 気を抜くと足を止めそうになる。

 それでもなんとか足を動かしているのは、匂いが強くなるとともにじっとしていられないぐらいに懐かしい気持ちになっていたからだ。体が震えるほどの恐怖と、泣きたくなるほど懐かしい匂い。本能が、この先に進めば何かがわかると、告げていた。

 屋敷の角を曲がり、祠が見えてきた。

 今度は恐怖がじわじわと強くなる。

 祠の方から、物理的に押し返されているような威圧感が押し寄せてくる。

 その威圧感と一緒に僕を包み込むように誘う匂いも強くなる。

 僕の中で二つの強い気持ちがぶつかり合っても尚、僕の足はゆっくりと祠へ近づいていく。止まらずに歩いていられるのは意地のようなものだった。


「君、どうしてここに」


 ついに一歩も動けなくなったところで叔父が僕に気が付いた。祠まであと五十メートルほどというところだ。

 自分でもひどい顔をしているのが分かる。きっと僕は青ざめて見えるはずだ。脂汗もかいている。頭も尋常ではない痛みを感じるし、耳もおかしい。耳鳴りというよりは周波数の合わないラジオのようなノイズの中にいるような状態だ。どんどんと血の気が下がっている感じがする。


「あ、その、何も履かずに飛び出していったから草履ぐらい持っていこうかと思ったんだけど」


 僕は手に持った草履を、叔父から五十メートル離れたところから差し出す。

 叔父は僕の様子を見て、ヤグルマに声をかけている。


「ヤグルマ、封印は?」

「十年前から反対はしているけど、黙って何かしたりしないわ」

「じゃあどうしてここに」

「もうあの子、十五歳でしょう。期限も近いし、もともとの力も強い。しかもかけた封印は見様見真似。ここまで解けなかったのが不思議なくらいじゃない。私と話ができるんだから、すでに封印は解けかけてるのよ」


 叔父はヤグルマの話に少し考える素振りを見せた後、僕に歩み寄り、草履を受け取ると足の裏をはたいている。


「草履ありがとうございます。かなり具合が悪そうですよ。こっちは大丈夫ですから部屋で休んでいてください」

「でもこの匂いが気になって」

「匂い?」


 叔父には匂いは気にならないらしい。屋敷の裏手に来てからは、むせかえるほどに強くなっている。普通、どんなにいい匂いでもここまで強くなれば息苦しく感じるだろう。でも僕には息苦しさよりも呼ばれているような気がするほどに、僕を惹きつけてしまっている。


「透、この子にお願いしない?」


 ヤグルマが叔父に歩み寄りながらそうささやいた。叔父は途端に厳しい顔をしてヤグルマを睨みつけている。


「ヤグルマ、それはあり得ない」

「でも、あなたが今から準備して手続きして向こうに行ったんじゃ間に合わないかもしれないわよ。それは分かってるでしょ」

「それでもです」

「門番をつかさどる秦家のお役目として、なんとしても防がないと」

「ヤグルマ」


 鋭い声で叔父がヤグルマを遮った。僕も思わずびくりと体を震わせてしまう。

 記憶の中の叔父がちらつく。

 祠、怖い叔父。

 僕がちらつく記憶を捕まえようと、崩れ落ちそうな足を奮い立たせつつ記憶をさぐっていると、急にヤグルマが踵を返して祠に向かって走り出した。


「ヤグルマっ」


 叔父が怒鳴り声をあげてあとを追うが、猫にかなうはずもない。ヤグルマは祠周辺にいた猫に何やら指示している。それに対して叔父が阻止しようと声を張り上げているがすでに遅い。四匹が祠の周りに散り、なにかに爪を立てて引き裂いた。

 その瞬間、体が軽くなり、祠の方から感じていた威圧感が減った。

 それと同時に、不思議と手足が震えるような恐怖がなくなったわけではないが随分とましになっている。

 これなら、もっと近づくことができる。

 匂いに引き寄せられるように、体に任せてゆっくりと祠の方に向かった。

 祠の前ではヤグルマと叔父が敵対するようににらみ合っており、その周りをどちらにつこうか迷う猫たちが囲っている。


「どうやら、私に決定権はないようです。当主は私なのに」


 叔父はヤグルマを睨みつけたままそう言った。


「私はあなたのためにこうしたの」


 ヤグルマも同様に叔父から目を逸らさずにそう言う。

 二人ともかなり苛立っていることだけはわかる。僕は二人の間に立つようにして祠の正面に立った。

 たまに道端で見かけるような、神社の隅にあるような小さな社だ。木製で古いものだが、ところどころ新しい木も使われていて丁寧に補修されてきたことが分かる。祠の前には榊と、神酒だろうか白い徳利と盃も置いてある。先ほど猫が引き裂いたものはどうやらお札のようなものらしい。祠の前の鳥居の根元に引き裂かれた細長い紙が落ちていて、不思議な文様が書かれている。紙自体変色して古さがよくわかる。


「これ以上時間をかけられません。君にお願いがあります」


 ついに根負けしたらしい叔父が、深々とため息をついてヤグルマから僕に視線を向けた。


「向こう側に子供が入り込んでしまったみたいなんです」


 叔父はそう言いながら、手で祠を示した。

 向こう側?


「幼い子供の場合、魂がまだこちら側になじんでいませんので、向こう側に行くとそのまま還ってしまう可能性が高いんです。とにかく急いで連れ戻さないと行けません」


 叔父はそう言いながら、祠に近づき、鍵を開けて戸を開ける。小さな祠のなかには曇り一つない丸い鏡が置かれていた。


「君は向こう側になじんでいるから、なんの手続きもせずに飛び込めるはずです」


 僕が質問しようとすると、叔父は遮って僕を手招きした。


「説明はあとです。とにかくこの鏡をのぞき込めば理解できます」


 ヤグルマが僕の横を歩きながら補足した。


「向こうについたら、周りをよく見て。温かい光を感じたらそれを追うの。その先に子供がいるはず」

「光を追う前に、まずは自分の体から伸びる糸を辿ってください。君と言えど、一人は危険です」


 叔父が慌てたよう付け足す。二人の様子を見ると、かなり切羽詰まっていることだけは理解できた。


「そうだったわ。絆の先にいるモノと再会すれば、暸一を助けてくれるわよ」


 ヤグルマはそう言って力強くうなずいた。


「会えば分かるわ」


 僕はもう理解するのは諦めて、二人にうなずき返すと祠に歩み寄った。

 この匂いは鏡の中からするらしい。

 匂いを胸いっぱいに吸い込んで、僕はそっと鏡をのぞき込んだ。



*   *   *   *   *   *   *   *



 暸一が鏡をのぞき込むと同時に、その姿が煙の様に掻き消えた。


「瞭が無事戻ってこなかったら、兄さんに顔向けできない」

「大丈夫。暸一の気配を感じたらすぐに会いに来るわよ」

「でもアレには常識がない」

「十年前に透が最低限教え込んだじゃない。きっと大丈夫よ」


 ヤグルマはお行儀よく祠の前に腰を落ち着けて、じっと祠から目を離さない透を見上げた。透は、今すぐ自分も鏡の向こうの常世に飛び込みたいという気持ちを抑え込むように手を固く握りしめている。

 ヤグルマの行動に腹が立つ。でも、それもすべては自分の力不足ゆえだ。透の奥歯がギリッっと音を立てた。


「還って来やすいように、少し入り口を広げましょうか。それと暸一と子供をちゃんと守ってくれたなら、なにか報いてあげては」


 ヤグルマは透の歯ぎしりを聞いて、励ますようにそっと透の方に歩み寄った。


「報いる? そもそもはアレがこちらに干渉したのが悪いのに」

「恩讎分明とまでは言わないけど、恩には報わないと。あんな強いイキモノだもの、ちゃんとしておかないとどう返ってくるか分からないわ。しかも暸一が後を継ぐかは別にしても、パートナーなのは間違いないでしょ? 暸一のことを考えたら、このまま世間知らずではまずいし」

「……考えておく。とりあえず入り口を広げる準備をしよう」


 透がそう言うと、周囲にいた猫たちが一目散に屋敷のあちこちに走り去った。


「みんな、何を取ってきてとも言ってないのに」

「透を慕ってるのよ」

「私には知識も力もないのに」

「知識や力だけが私たちを結んでるんじゃないのよ」


 ヤグルマの言葉に、透が詰めていた息を吐きだしてそっとヤグルマの頭を撫でた。


「ありがとう」


 透はもう一度祠の方を見つめてから、準備に取り掛かった。



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