7. ある猫と三人組
叔父と暮らして二日。僕の中には未だに叔父が怖い、猫屋敷はどこか居心地が悪い、という印象があるが、叔父は怒るどころか顔をしかめることすらない。
叔父は日中ほとんどの時間を母屋ではなく離れで過ごしている。古そうな書物と向き合っていることが多く、歴史を調べたりするのが仕事らしい。教授のようなものなのかもしれない。在宅ワークらしいし、この前の望月というおじさんの組織に属していると言っていたし、祖母もそうだったらしい。だがそこまで突っ込んだ話をできる空気ではないので、結局何をしているのか分からない。
分かっているのは、いつも伯父のそばにはうす茶の縞模様の猫がいるということ。僕に気が付くとすぐにどこかに消えてしまうのだが、どうやら屋敷内を自由に出入りしているらしかった。
僕の方はと言えば、体調不良の症状はあるものの、なんとなく屋敷で生活していく感じが想像できるようになった。私物をしまったりして部屋が自分の空間になったからかもしれない。
母によってしわくちゃにされた洋服たちも、すべて畳みなおして箪笥にしまった。必要そうな文房具は大体そろえたし、連日両親とスカイプで話をしている。一緒に住んでいるときよりもちゃんと話をしている気がする。叔父と二人きりの食事は多少緊張するが、まだまだ質問はたくさんあるし、入ったことのない部屋や場所もあるから、話題に困ることはない。
学校が始まるまではとりあえず、洗濯とトイレ掃除、買い出しと皿洗いが僕の分担になった。何かすることがあるほうが緊張から目を逸らせるし、物の場所を覚えるにもちょうどいい。
不思議なのは、叔父が掃除をしている姿を見かけたことがないが、屋敷がピカピカなことだ。これだけ広ければ、毎日どこかしら掃除していないとこの綺麗さは維持できないと思うのだが、日中は食事やインターホンが鳴ったり、というようなとき以外は離れに籠っているのだ。だが、屋敷のどこを見ても埃もなければ、くすんでもいない。恐ろしい数の窓ガラスだって全てピカピカなのだ。夜中に寝ずに一人で掃除でもしているのだろうか。
いずれにしろ、想像していたより、ずっとましな生活を送れそうな気がし始めていた。
「叔父さん」
午後二時過ぎ、ふと思い立って散策する気になった。屋敷内のこともまだすべて把握したとは言い難いが、いい加減気分転換がしたい。
一応叔父に声をかけてからと思い、離れの二階、叔父の仕事部屋の外から声をかけた。
「何か困りごとですか?」
部屋の奥の方から声がして、すぐに叔父が顔を出した。
「いえ、近所を散歩でもしてみようかと思って。昨日連れて行ってもらったスーパーの場所とか、病院とかの場所も確認しておきたいし」
「そうでしたか。夕飯までに戻れないようなら連絡ください。道に迷った場合も遠慮なく」
「ありがとうございます」
「ほかに寄りたい場所があるのでしたら、簡単に場所をお教えしますが」
「なにも決めずにぶらぶらしてみようと思って」
叔父は分かりました、とうなずいた。
「気を付けて行ってらっしゃい」
叔父は僕の中の印象とは違い、細い目をより細めて僕に微笑みかけた。小さいころ好きだった顔に僕はうなずき返して猫屋敷を後にした。
財布とスマホだけ持って、歩き出した。
まずはスーパーの場所と病院の場所を確認して、そのあとは駅前をぶらついてみよう。高校までは自転車で通うつもりだが、雨の日は電車かバスかのほうが楽そうだから時刻表も確認しておきたい。
門を出てしばらく歩いていると、不意に目がかすんだ。急に濃霧に包まれたようによく見えなくなった。ここまで目がかすむことは滅多になく、これはさすがに危ないかと、手であたりを探りながら道の端に寄ろうとした。その瞬間、自転車の急ブレーキの音とともに、鋭い猫の威嚇が聞こえた。
「あぶねぇな、この野良猫がっ」
中年男性らしきだみ声が怒鳴りつけると、猫が鳴き返した。どことなく聞いたことがある鳴き声な気がする。屋敷で毎日たくさんの猫と顔を合わせるから、猫の声を聞き分けることができるようになったのかもしれない。
そんなわけないか。
僕は目を閉じたまま、目の周りのツボを刺激しながら自転車が走り去る音に耳を澄ませた。
「全く、後継ぎがひとりでふらふら出歩くんじゃないよ」
もう一人女性がそばにいるらしい。そっと目を開くと、さっきより幾分見える。
だが、人の姿は見えない。
「ちょっと、身を挺してかばってやった上に怒鳴られたのに、何も言うことないの?」
今日は幻聴がひどいらしい。いつもは耳鳴り程度なのにはっきりと声が聞こえる。
女性の声がする先には、猫が一匹座っていた。
その猫は猫屋敷に入り浸っている猫の一匹、叔父のそばを離れないあの薄茶の縞模様の猫だった。細身で目が金茶、美人だ。確か叔父は何度か名を呼んでいたが、覚えていない。
「叔父さんの?」
「そうだよ、分かってるんじゃない。危ないところを助けてやったんだから、礼の一言ぐらいあってもいいんじゃないかしら」
「ありがとう?」
今、僕は猫としゃべり、猫に礼を言っている。
猫がしゃべった?
長年の体調不良は頭がおかしくなる予兆だったのか。
猫は塀の上に飛び乗ると、そこで僕が茫然と自分を見つめているのを眺めている。いや、猫がただ近くの人間を観察しているだけだ。しゃべるわけはない。
「いつまでもそうして突っ立ってると、後ろの子供たちにそのうちかんちょうされるわよ。男の子ってそういうの好きでしょ?」
猫がため息交じりにそう言った。
振り向くと、五メートルも離れていない電柱付近に六歳ぐらいの男の子が3人ほど固まってこちらを見ている。先頭の髪の短い男の子はなぜか僕を睨んでいて、その後ろ二人はその子に隠れるようにして僕を覗いている。
「気づかれちゃったよ、どうするたっちゃん」
「どうするって、お前がどうにかしろよ」
「でもそういうのって、リーダーの役目だし、たっちゃんがリーダーってさっき」
どうも先頭の男の子はリーダーでたっちゃんというらしい。たっちゃんは後ろ二人に押し出される形で一歩前に出た。
「おまえ、あの猫屋敷からでてきたなっ」
この距離でなぜか大声でそう言われた。細い腕を組み、僕を見下そうとするかのように仰け反って、顎を突き出した。後ろ二人は、たっちゃんの言葉に無言で小刻みにうなずいている。
「つまりは、おばけの仲間だなっ」
ビシッ、と音がしそうなぐらい勢いよく僕を指さした。
なるほど、近所の子供達にはお化け屋敷という認定がされているようだ。確かに、この辺りは古い家が少ない。きれいな高層マンションや、新しい住宅やお店も多い。
一方、手入れはされているが古くて大きい屋敷。人の出入りがなく猫ばかりが出入りしていて、住んでいるのは細くて若い和服の男一人だけ。なるほど、お化け屋敷にふさわしいかもしれない。
「えっと、君たち、ここら辺の子?」
たっちゃんは僕が話したことに驚いたように目を見開き、反対に口は堅く閉じて勢いよく仲間を振り返った。リーダーというからガキ大将的な子かと思ったが、そうでもないらしい。
「よくわかんないけど、知らない人に話しかけたらお母さんに怒られるんじゃない?」
僕が穏やかに反撃すると、子供たちは目を見合わせて、僕をちらりと見て、相談するように顔を寄せ合っている。この年頃には「お母さんに怒られる」が魔法の言葉になるようだ。可愛いものだ。
「僕引っ越してきたばかりなんだけど、ここらへんで知っておくべき場所とかあれば教えてくれる?」
「あっちに大きい神社がある」
「図書館も大きいよ」
「ばか、だまされるなよっ」
後ろで固まっていた気の良さそうなぽっちゃり少年と、少し顔色の悪い坊主頭の少年の言葉をたっちゃんが慌てたように遮った。
「優しそうなふりして、僕らに近づいてきっと食おうとしてるんだよ。おばけってそういうもんだろ?」
どういうものなのかは知らないが、発想はなかなかグロテスクだ。おばけというよりゾンビって感じだ。
三人はどうしようか決めかねているようで、僕をチラチラ見ながらも動こうとしない。
「取って食われたくないなら、さっさと逃げたらいいんじゃないかな?」
僕はそう提案してから、子供たちを放って先に進むことにした。
これが初めてのご近所付き合いか。もう少し仲良くしておくべきだったかもしれない。しかし、おばけ設定されて、それを半ば本気で信じているらしい子供との接し方なんて分からない。
「ねぇ」
努めて無視しようとしている、右上の毛玉が声をかけてきた。
僕は猫が好きだし、動物が好きだ。もちろん普段毛玉なんて表現はしたことがない。でも、あれは今のところ僕の脳内ではしゃべるし、猫扱いするわけにはいかないのだ。猫がしゃべるなんて認めるわけにはいかない。
毛玉は僕の横の塀を歩いてついてきているようだ。
「ねぇ、聞こえてるんでしょ?」
聞こえない。
聞こえるはずはない。
聞こえたら困る。
「全く、昔はこちらが嫌がってもうるさいぐらい話しかけてきたくせに。ちょっと、無視しないでよ」
その一言のあと、首がおかしくなるような衝撃が頭にぶつかってきて、柔らかいものが首周りにまとわりついた。これは無視できない。払い落とすわけにもいかない。
「子供たちが棒を握りしめて、後ついてきてるわよ」
僕が振り返ると、だるまさんが転んだのように動きを止めた子供たちと目が合った。そんな歩いている途中で固まったところで、見えなくなるとでも思っているんだろうか。試しに三歩歩いてからもう一度振り向くと、一瞬遅れて子供たちが固まった。
「一旦屋敷にでも戻ったら? あの子たち、よく屋敷の周りをうろついてるけど、中には入ってきたことないもの。放っておいてもいいけど、棒っきれ持ってるの見る限りは、面倒な感じに絡まれそうじゃない?」
ここで毛玉に返事し返したら、子供たちに百パーセント化け物扱いされるので黙ったまま大回りで屋敷へと引き返した。
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