6. 新しい生活と新しいルール
「陽子さんも無事出発しましたか」
インターホンを鳴らすと、すぐに叔父が出てきてそう言った。僕が来る頃だと縁側で待っていたらしい。今日は若緑色の着物だが、足元は足袋タイプの靴下だ。
僕を見る目は優し気に細められていた。
だがすぐに逸らされて、視線はふわふわと泳いでいく。焦点が合っていない、というのとも違うが、時折何もない場所を見ているような妙な感じだ。
「父さんが今日になって追加の荷物をあれこれ言ってきて、飛行機にぎりぎりの時間になりましたけど。あ、お世話になるのに出発前に顔も見せられずにすみません、と言ってました」
気にしなくていいのに、と言いながら叔父は僕と一緒に玄関に向かった。
「そういえば、夕方の五時頃に父から連絡が来るんですけど、時間が大丈夫なら」
「分かりました。今日は予定を空けてあるので、僕も電話に出ましょう」
「電話じゃなくて、スカイプなんですけど」
「良いですよ。スカイプなんて初めてですね。テレビ電話のようなものですよね? ところで兄さんは君に対しても過保護なのかな」
「ええ、かなり」
叔父はかすかに笑ったようだった。そして玄関に入ると唐突に説明が始まった。三回の訪問の時とは違い、居候としてさらに細かく説明するつもりらしい。
「ここに私は上着とかマフラーとかをかけてます。君もそうしたければ使ってください」
玄関の框を上がってすぐのところにコート掛けのポールが立っていて、ハンガーがいくつかかかっている。
「その隣の扉の奥は収納スペースで、そこにも服をかけられるスペースがあります。それからこの家は大きいのですが、空調は主要な部屋にしかありません。屋敷内の移動だけでも足が冷えますから、これからもスリッパなど使ってください。今履いているゲスト用をそのまま使ってもらって構いません。でも畳の上では履かないように。畳の張替はお金がかかりますから、畳が傷まないように気を付けてください。昔ながらの造りだからか風通しが良いので、夏はあちこち開け放つだけでも割と涼しく過ごせると思います。畳と同じく、これだけの広さですので、電気代もできるだけ節約しています。とはいっても、君の部屋や居間みたいに主要な部屋にはクーラーがありますから普通に使ってもらって構いません。屋敷全体の空調を全部つけるような贅沢はできない、というだけですから」
僕は相槌を打ちながら、叔父の後に続いた。
前に来たときに聞いた話もあったので、速足で屋敷内を進みつつ、淡々と話している。これだけの広さなので、速足でちょうどいい。
説明は止まらない。僕も比較的いろいろときちんとしておきたいタイプだが、叔父も中々に几帳面らしい。几帳面さは父方の血筋なのかもしれない。
玄関に靴を出しっぱなしにするのは一足まで。必ず向きはそろえて端に置くこと。
外から帰ってきたときは足が汚れているから、靴下を履き替えるか寒くなくても足を洗うまでスリッパを使うこと。
同じ理由で、外から帰ってきたら手洗いうがいをして、着替えること。
洗濯は大事にしたい服は自分で洗うこと。
お風呂は掃除が面倒なので、使用後は全体をシャワーで流し、水切りを使って水気を切っておくこと。
それ以外の場所も、大きい屋敷なだけに掃除は大変面倒なので、綺麗に使うこと。
望月さん以外にも来客はそれなりにあるから、私物はできる限り自分の部屋に置くこと。荷物が多いようなら部屋はいくらでもあるから相談すること。
食事は朝六時半、十二時、夜七時にするから、できる限り一緒にとること。
「もちろん、人にはそれぞれスタイルや習慣がありますからこれを強要するつもりは全くありません。ただ、私は規則正しい生活が好きなので、私の生活に不都合がありそうな日は教えてください。もちろん、これで暮らしてみて厳しいようなら相談してください。これからは僕一人の生活ではありませんから、僕の方でも君に不都合がないように変えるべきところは変えていくつもりです。お互いの落としどころを探りましょう。食事は単に一緒に済ませたほうが手間が少なくて済むので、出来る限り一緒にと思っています」
そのほかにも細々と気を付けてほしいことがあるらしいが、生活の中で教えていくという。これだけ大きい屋敷で人件費をかけずに清潔さを維持するには、日々の行動で気を付けていくしかないんです、とため息をつきながら叔父はこぼした。お屋敷で生活する、というのも大変らしい。
渡された紙には叔父の基本的な生活習慣が時間と曜日ごとに書かれている。
「それから金銭面ですが、基本的には君の分は毎月振り込まれることになっています。お小遣いですね。文房具、洋服、交際費などはそこから使ってください。あとで通帳も渡します。足りなければ都度、相談には応じます。もちろん、用途や金額によりますが。食費や学費のような、最低限必要なお金に関しては私と兄さんたちで話はついてますので心配なく。何か質問は?」
「門限とかありますか?」
「そうですね、門限と言いますか、夕食を七時に取りたいのでそれまでにできるだけ帰ってきてください。もちろん、常識の範囲内で遅くなる場合は連絡をくれれば構いません。学校が始まったら部活とか、友達とのお付き合いもあるでしょうからまた考えましょう。いずれにしろ、遅くなる時は連絡してください。君を預かっている以上、君を守るためにも」
ひどく真面目な顔で自分の言葉に何度かうなずきながら、叔父はそう言った。叔父も父に負けずに過保護なのかもしれない。
「バイトはしてもいいですか」
「それは兄さんたちと相談してください。校則にもよるでしょうし、入学してから考えてはいかがですか。私はどちらでも構いませんし、君と二人分の生活費ぐらいなら困らないので、生活費を気にしてのことならしなくて大丈夫ですよ。ああ、大きい屋敷に住んでいますが、収入も貯金も人並みなので、お金持ちのような豪華な生活は期待しないでくださいね」
ほかにも色々と注意事項を言われたが、もう容量オーバーだ。どうせならすべて紙に書いておいてくれればいいのに。
「まぁ、その都度聞いてください。疑問に思ったことも相談してください」
「分かりました」
「あ、それと猫に食べ物を与えないでくださいね。必要ありませんし、匂いますから」
ということは、この屋敷内の猫は全て野良なのだろうか。猫の数をこれ以上増やしたくないのかもしれない。
叔父と一緒に部屋に行くと、空っぽだった部屋には新たに棚や、机が増えていた。
「この前泊まった時に選んでもらった家具を入れておきました。配置を直すのでしたら手伝いますから言ってください。布団は昨日干しておきましたし、カバーとかも洗い立てですが、何せいろいろと古いし、しばらく使っていなかった家具とかなので困ったことがあれば言ってください。買い替えるか、ほかの布団に交換します」
「すみません、面倒をかけて」
「大した手間ではありませんし、こういうことも案外面白かったです。家事分担などは明日以降話し合いましょう。どうやら疲れているようですから、昼ご飯までゆっくりしてください。できたら呼びに来ますから」
僕はざわざわとした耳鳴りがし始めたせいで、段々と叔父の話に集中できなくなっていた。ずっと体調不良では困るが、その分叔父への緊張に気がいかなくなるので助かってもいる。
「あ、お昼はちらし寿司です。その、君の進学や新生活を祝おうかと思ったので」
驚いて顔を上げると、叔父は困ったような恥ずかしそうな微笑を浮かべつつも、僕から目を逸らしていた。
叔父が部屋から出ていくと、ざわめきも遠のき体調も元通りになった。
起きていても叔父のことを考え続けてしまいそうだったので、寝てしまおう。昨夜は緊張でなかなか寝付けず、今朝は母が騒がしくて早くに目覚めたため、寝不足だった。
僕はどうして叔父を怖がるようになったんだろう。
いつ叔父は、あの怖い顔をしたのだろう。
小さい頃猫屋敷で迷子になった時だと思うが、そのこと自体はよく覚えていない。
でも、僕は視点がずれたような目で話す叔父のことをよく知っている気がする。
何か大切なことがある。
それが思い出せない。
何を思い出せないのかも、思い出せない。
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