5. 引っ越し
卒業式から一週間、二回ほど叔父の家に行った。高校の制服を取りに行き試着したり、残りの荷物を運んだりこまごまとやることはあった。父は父で会社と海外赴任の準備に忙しかったので、二回とも母だけ付き添い、うち一回は一泊した。
この年齢で母親と一緒に泊まるとかどうかと思ったが、母は母で僕との時間を惜しんでくれているようなので気にしないでおく。何より、慣れない場所でいきなり叔父だなんて考えただけでも胃がひんやりとしてくる。こんな状態で新生活を始められるのか、我ながら心配だ。
家は売り払う訳ではないのだが、学校が始まったら交通費や時間を考えるとなかなか気軽に帰ってくるわけにもいかない。誰もいない間は、母方の大学生の親せきがバイトとして時々換気や掃除をしてくれるらしい。僕としては叔父より付き合いのある親せきだし、実家で生活してたまに母方の親せきの人が様子を見に来ればいいと思うのだが、父が断固として認めてくれなかった。
そんな父は二日前にすでにアメリカに出発している。向こうでの仕事のスケジュールがそれ以上伸ばせないらしかった。母は今日僕を叔父の家に送り届けてから、アメリカに出発する。今日になって父があれこれと追加で持ってきてほしいものを言い出したらしく、なにやら早朝から慌ただしく動いている。
「もうっ、卒業前から暸一が引っ越しの準備とか、透さんとの挨拶とか色々してくれればこんなことにはならなかったのよ」
母は僕と自分たちの引っ越しの準備でかなり忙しかったらしい。僕が猫屋敷に行くのをのらりくらりと後回しにしていたせいで、準備が滞っていたらしかった。
「僕はいざとなったら家に取りに帰ってくればいいと思ってたから」
もちろん嘘だ。ただ叔父さんとの再会を考えただけで背中を冷たい汗が流れ落ちるので、避け続けた結果、もう避けられない日まで伸びてしまっただけだ。
母はいつも以上の豪快さを見せて、大きな旅行用のトランクにばんばん荷物を放り込んでいる。母の愚痴を聞き流しながら、トランクの物を多少なりと整理する。海外に行く自分たちよりも僕の準備を優先してくれたのだ。このぐらいはする。
僕は手を動かしつつも、ぼんやりとお試しで滞在した猫屋敷でのことを思い出していた。
顔合わせの後の二回の訪問とも、体調万全で向かったのに、猫屋敷に着いた途端に何かしらの体調不良が発生した。特に庭にいるときはひどく、頭痛、目のかすみ、耳鳴りの三点セットだった。でも屋敷内にいるときは、それらが同時に来ることはなく、時折目がかすんだり、ほんの数秒の耳鳴りだったりというぐらいだった。こうあからさまに猫屋敷にいる間だけ体調が悪くなったりすると、今までの十年ぐらいの年月の体調不良も全部何かしらのストレスが原因だったような気がしてくる。
気がつくと、母が忙しいにも関わらず、僕の顔をじっと覗き込んでいた。
「聞いてた?」
「え? ああ、もちろん」
「いや、嘘すぎるでしょ」
母は苦笑しながら力強く僕の肩をこぶしで叩いた。しっかりと痛い。
「とにかく、今日の夕方五時くらいにお父さんが連絡してくると思うから」
「時差は十五時間だっけ」
「そうよ。むこうは朝の八時ぐらいかしら」
「分かった。叔父さんにも出てもらうようにするよ」
「お父さんが喜ぶわね」
母が勢いよくトランクを閉めながら、くすりと笑った。
結局荷造りのタイムロスが響き、叔父の家の最寄り駅で母と別れることになった。
母は、人目もはばからず力の限り僕を抱きしめ、体を離したと思うと僕の顔をのぞき込み力いっぱい腕をたたいた。恥ずかしさと痛さで、僕が顔をしかめ始めるとようやく勘弁してくれた。
「あなたの体調のことは透さんにも話してあるし、こちらの内科の先生にもカルテを送ってもらえるように話してあるから」
「うん、分かってる」
「夏休みには必ず、アメリカに呼ぶからパスポート無くさないでね」
「二人は帰ってこないの?」
「もちろん隙をみて帰ってくるわよ。でもあなたもアメリカに来てくれれば、少しでも多く一緒に過ごせるでしょ」
やはり、豪快で大雑把な母でも一人で日本に僕を残しておくのは不安らしい。何度も腕時計を見ながらも去ろうとしない。
「飛行機の時間、大丈夫なの?」
「あら、親を厄介払いしたいわけね。あなたもついに反抗期突入?」
「いや、そうじゃないけど」
「分かってる」
母はもう一度、きつくきつく僕を抱きしめた。
「写真いっぱい送ってよ。毎日スカイプするから出てね。透さんにもよろしくね」
母は電車の発車ベルが鳴るまで僕を離そうとしなかった。
初めて一人で猫屋敷に向かう。
今日は荷物が多くないので、駅から歩いて猫屋敷に向かった。なんとなく、自分の足で屋敷に行きたかった。これから暮らす街というのもあるが、少し感傷的になっている。
時々携帯のGPSで現在地を確認しながら、のんびりと猫屋敷に向かった。
空は突き抜けるように青く、空気は乾燥して少し冷たかったが気持ちが良かった。
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