2.ひさびさの猫屋敷
いけない、これ以上はいけない――。
息ができないような圧迫感に押し出されるように目を覚ますと、母が僕を揺り起こしていた。手には鎮痛剤をのせている。僕は額に浮かんだ嫌な汗をぬぐった。
「いやな夢を見たのか頭痛のせいか分からないけど、かなりうなされてたわよ」
「本当に大丈夫か? 今からでも引き返そうか」
「大丈夫」
そう言いながらも、気休めに薬を飲んだ。薬よりもツボ押しの方が利く。足の外くるぶしをぐりぐりと揉んでみた。これで治まってくれるといいのに。
すでに、夢の名残の息苦しさしか僕の中にはない。たまに見る定番の夢でそれが猫屋敷の夢だってことだけは分かるのに、内容は思い出せない。
「向こう着いてから少し休ませてもらおう」
父が僕の肩を優しくさすってくれる。
「何か少しでもお腹に入れたらどう? 気分も変わるかも」
そう言って母が差し出してくれたのは、お茶碗大盛一杯分ぐらいある特大のおにぎりだった。
「これは……少しとは言えないんじゃない?」
僕は思わず苦笑しながら、そのおにぎりを受け取った。食べる気はしなかったが、気遣いがありがたい。
「それは高菜の漬物ね。梅干しと昆布もあるけど?」
「いや、いいよ。ありがと」
「育ち盛りなんだから、三種類とも食べる?」
「いや、正直今は一つもいらない、というか普段でも一つで十分だと思うけど」
そうだった。母に遠慮や気遣いは無用だ。母は良く言えばおおらかで、大概のことは受け止める度量がある。過保護気味の父と豪快な母はバランスの良い両親だと思うのだが、具合が悪いときは過保護気味の父の方がありがたい。
父は僕が進路を決断してからも、日本に置いていくのを心配して、あらゆる理由を述べて一緒に渡米を勧めてきた。未成年の死亡率や、その要因。交通事故にあう確率などといったネガティブなことを熱弁した。参照や出典元まできっちり提示しながらだ。僕がアメリカの方が危なそうな印象が強いと言ったら、そこは自分たちが守るから大丈夫と、根拠のない言い分で胸を張った。また別の日はさりげなくアメリカの観光資料がテーブルに並べてあった。あれも父の仕業だと確信している。僕の体調がこんなだから、より心配なんだろうというのは分かっている。
もし母がいなければ僕には留学以外の選択肢はなかっただろう。けれど、こういう時は父に任せるのが一番だ。
「今は食べさせるなら消化に良い物の方がいいだろうから、そのおにぎりは私が食べようかな」
「三種類とも二つずつ作ってあるから、遠慮せずどうぞ」
母は父の大好きな太陽のような笑顔を浮かべ、特大おにぎりを僕の手から受け取って父の手に渡した。
「余ったら透君にあげればいいわ。透君たらいつも細いし。今も一人暮らしでしょう」
確かに僕の記憶の中の叔父もほっそりしていたが、今も細いらしい。
「あいつはやせの大食いなんだよ。食べても食べても太らないんだ」
「あなたは最近少しお腹周りが」
「言うな。気にしてるんだから」
父はそっとお腹をさすっているが、細身の父にしては膨らんで見えるが、世間一般にとってはまだまだ細いと思う。父よりも、全体的にふくよかで柔らかそうな見た目の母の方が太っているが、動きは素早いし体力もあるので家族の誰も心配していない。太りすぎず健康であればいい。
両親の会話をぼんやりと聞きながら、僕は叔父のことを思い出そうとしていた。僕の記憶の中の叔父は二十歳ごろで止まっている。昔は大好きだった。とおるくん、と呼びかけると、いつも振り返ってふわっと柔らかく微笑んでくれた。物静かで優しくて、いつも僕の話をまじめに聞いて、誰よりも理解してくれた。
なんの話をしていたのかも、もう覚えていない。あの頃は両親よりも叔父と話しているのが好きだったことは覚えている。
叔父や猫屋敷のことを思い出すと、わけもわからずじわじわと恐怖が押し寄せてくる。
ゆっくりと呼吸をしながら、なんとか気持ちを整えようとした。
猫屋敷は新幹線から私鉄に乗り換えて三十分、そこからタクシーで二十分ほど住宅街を走ったところにあった。住宅街は一方通行が多くて、父曰く歩いたほうが早いらしいのだが、今回は僕の居候のための荷物を持ってきていたのでタクシーを使った。 運転手さんは、ここも曲がれないのかと、曲がり角に来てはしょっちゅうぶつくさ言っていた。あれは迷っていたのだと思う。
やっと着いた猫屋敷は、相変わらず大きかった。
屋敷を囲んでいる古びた瓦のひさしのついた木の塀の上からは、庭木がのぞいている。随分と大きな木もあり、外観だけで歴史を感じる。門扉も木製だがどっしりとしていて、威圧感がある。よく見ると、家紋ではないと思うが、門の両扉の高い位置にそれぞれ鉄製のいかめしい猫を思わせるドアノッカーがついている。小さい頃は気がつかなかった。
運転手さんが荷物を下ろしながら母と和やかに話していたが、父はさっさと門の鍵穴にあまり見かけないサイズの大きな鍵を差し込んでいる。手のひらサイズの大きさの重そうでごつい鍵だ。
何もかも古めかしいが、もちろん表札の下にインターホンがついている。インターホンを押さなくていいのだろうか。
「いきなり入っていいの?」
「約束通りの時間についたし、何より父さんの実家でもある。しかも、あいつは大体離れの書斎にいるから、出てくるまで待たされるだろう」
「離れなんてあったっけ」
「あったけどお前が小さい頃は母さんの、お前のおばあちゃんが遺したものとかまだ片付けきれなくてそこに押し込んでたんだ。だから、近寄らないように言いつけていたし覚えてないかもな」
父はそう言いながら、がちゃりと重い音を立てて鍵を開けた。門が開いた瞬間にふわっと気持ちを揺さぶられる香りがした。夏の早朝の空気のようなさわやかさで、かすかに花のような甘みを感じる。森の中の湖のほとりをイメージさせるような、そんな匂い。
匂いを嗅いだ瞬間に、何かが脳裏をかすめたが、それをつかむ前に母に声をかけられた。
「暸一、頭痛がましなら運ぶの手伝って」
振り返ると、母の周りには大きな荷物が並べられていた。
「そもそもこれ、自分の荷物でしょ」
頭の痛みはましになっているが、代わりになんだか目がかすむ。だが荷物を運ぶぐらいわけないので、僕は大きめの荷物を両手に、せりあがってくる緊張をなんでもないことだと自分に言い聞かせながら、門をくぐった。
門を入って左手側に池のある広い庭に、右手側は芝生と玉砂利で広くスペースが空いている。そして、門から玄関までは、埋め込まれた大きい石が続いている。
記憶の通りであれば、左側の池のある庭に縁側があり、屋敷の母屋から広い庭に直接降りられるようになっていたはずだ。右側の棟はロの字の構造になっていて、客室や、遊ぶ部屋があった。ロの字の真ん中は吹き抜けの中庭で、美しく草木が植えられていた。五歳の僕にとっては不思議な音がする、面白い中庭だった。今思えば水琴窟のような仕組みが隠されていたのだと思う。
この歳になって初めて分かるが、この馬鹿でかい敷地と屋敷はどう見ても随分と古い昔からの建物だ。入館料をとれるぐらいの歴史を感じる。明治や大正時代かなんかの時代を感じるけどどうなんだろう。木造に見えるがそんな時代の建物の維持を、叔父が一人でできるわけもないから本当のところは鉄筋化されているんだろう。
というか、怖いからそうであってほしい。
これからここに住むのだから、お化け屋敷も老朽化して危険なお屋敷も遠慮したいが、高校は今更変えられないし、選択肢はない。
というか僕が選んだのだった。
僕が屋敷を外から観察していると、左手の方から猫が一匹歩いてきた。さらに奥の方から鳴き声もする。相変わらず猫が集まっているらしい。庭の方をのぞき込んだが、靄がかかったように目がかすんでよく見えなかった。たまにこういう見えにくい場所がある。どうせ七日後に引っ越してくる屋敷なのだから、今見なくてもいい。父のあとを追って玄関に向かった。
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