(向坂 茜)世界の終わり
美術室には誰もいなくて、物音一つしなかった。もう、何もかもが終わってしまったあとみたいに。でも窓のところから運動場を眺めると、優ちゃんが走っているのが小さく見てとれた。わたしはしばらくそれを眺めてから、教室の中央に戻る。
そこには、イーゼルにかけられた一枚の油彩画があった。描いたのは、わたしだ。これでも一応、美術部員なのだ。もっとも、顧問の先生もほかの部員もいないのだから、美術部自体はもう存在していないのかもしれないけれど。
絵はもう完成していて、これ以上手を加えるつもりはなかった。だから本当は、ここに来る必要はない。わたしは優ちゃんのところに行ってもよかった。
でも、わたしは――
一週間かけて、わたしはその絵を完成させた。でも実のところ、どうしてそんな絵を描いたのかは自分でもよくわかっていない。ただどうしてだか、その絵を描かなくちゃ、と思ったのだ。
絵には、一人の少年が描かれている。ちょっと長めの髪をしていて、そのせいで表情ははっきりしない。少年はどこか遠くを見つめていて、手に持った青い紙ひこうきを飛ばそうとしていた。学校の制服を着て、やっぱり学校の屋上みたいなところに立っている。
この絵はわたしが描いたのだから、「みたいな」というのはおかしな話だった。でもわたしは、ほとんど何も考えずにこの絵を仕上げてしまったのだ。下書きだって、ろくにしていない。全体的なタッチもぼかしたもので、ちょっとピントのずれた写真みたいにも見える。すべてはあくまで曖昧で、この少年が誰なのかもはっきりしない。
少年には、モデルがいる。でもわたしは、その人のことについて何も知らない。制服を着ているのだって、それ以外の格好をわたしが知らないせいだ。そう、わたしは記憶だけを頼りにこの絵を描いたのだ。優しいけれど儚そうな雰囲気も、かすかに孤独の滲んだたたずまいも、すべてはわたしの記憶と印象の中での話だった。
この絵の中に、物語はない。そこには少年という登場人物がいるだけ。彼が何を考えているのか、何をしようとしているのか、何をしなくちゃならないのか、わたしは知らない。絵はわたしに、何も物語ってはくれない。
わたしはぼんやりと、その絵を眺める。
「――――」
そうしてわたしは、その少年が、夢の中に出てきたあの少年と同じ人物なのだということに気づく。ついさっき、廊下ですれ違ったあの少年と同じなのだと。
そのことに気づいて、わたしはどうしてだか泣いてしまう。
もうすぐ、世界は終わる。永遠の氷の中に閉じ込められるみたいに。存在だけはしていても、でももう動くことも考えることもできはしない。
そうしたら、わたしのこの想いはどうなってしまうのだろう?
わたしのこの想いもやはり、永遠に存在し続けることになるのだろうか。
どこにも、たどり着かず――
誰にも、伝わることなく――
ずっとわたしの中にとどまり続けるのだろうか。ブラックホールに捕らえられてしまった光みたいに。だとしたら、わたしは――
※
――その時、世界の時間は停止した。
瞬間、ビデオを〝一時停止〟にしたみたいに、すべてのものが動きを止める。鳥は宙空にぴたりと静止し、ヴァイオリンはその音を凍らせ、水面をはねた水の一滴はもう二度と元に戻ることはない。すべては一枚の写真にうつし撮られたように、永遠の一瞬を切りとられていた。
ある者は、絶望の縁で反吐をはきながら――
ある者は、永遠を拒絶した眠りにつきながら――
ある者は、幸福な時間の最後をすごしながら――
すべての想いも、すべての悲しみも凍りつかせて。
けれど、そのことに気づく者はだれもいない。そこには何の知覚もなく、痛みさえなかった。誰も、世界がもう終わってしまったことにさえ気づかない。
――気づかない、はずだった。
「…………」
けれど向坂茜のいる美術室に、彼女が何かのための涙を流したその場所に、一人の少年が姿を見せていた。
少年はもう二度と動かないはずのドアをがらがらと開けて、美術室の中へと足を入れた。そして絵を前に座ったままの彼女の隣に立って、その同じ絵を眺める。
そこには、少年自身の姿が描かれていた。
「――ぼくは君に、感謝すべきだと思うんだ」
と、少年は言った。もうその言葉を聞く者は、この世界のどこにもいないのだけれど。
「君がこの絵を残してくれたことが、ぼくに意味を与えてくれる。この世界に、宇宙に、たった一人だけの存在であることに耐える意味を」
少年はかがんで、彼女の目をのぞき込んだ。その瞳はガラス玉のように澄んで、止まった時間を映しこんでいる。そこに少年の姿が映ることはない。止まった時間は変化したりはしない。
「ぼくは可能性のために、ここにいる。いつかこの宇宙が、新しいもう一つの宇宙を誕生させる可能性のために。そこに同じように人が存在して、怒りや、苦しみや、優しさや、喜びや、そして悲しみのある世界が存在する可能性のために。――ぼくは種なんだ。この世界が死んで残った、たった一粒の種。この世界が再び実を結ぶための、わりにあわない賭け。ほんのわずかにだけこの宇宙を生きのびさせるための、ちっぽけな視点。ぼくは語り部にはなれないんだ。ぼくはただ、新しい物語がはじまるのを待つだけ。その物語が、できるだけうまくいくことを祈ることしかできない存在」
少年は身を起こして、笑顔を浮かべた。
「それでも、ぼくは満足なんだ。だって、君がこの絵を残してくれたから。君がぼくに、物語をくれたから。ぼくはその物語さえあれば、この宇宙の孤独に耐えることができる。暗い土の中で、たった一人陽の光を夢見て生きることができる」
そして、少年はそっと彼女の涙をぬぐった。
「――だから、ありがとう」
そう言って、少年は教室から姿を消した。
ドアは閉められ、あたりはまた元のように戻っている。鳥は宙空にぴたりと静止し、ヴァイオリンはその音を凍らせ、水面をはねた水の一滴はもう二度と元に戻ることはない。
静止した時間の中ではただ、一人の少女の涙だけが消えていた。
世界の終わりに見る夢は 安路 海途 @alones
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