(久保 康晴・沢井 みちる)幸福
草原は見渡すかぎり一面の芝生に覆われ、時折思い出したように風が吹きすぎた。澄んだ青空に雲がいくつか流れ、太陽は午睡の穏やかさで空に浮かんでいる。遠くには、海原の中に取り残された無人島みたいな格好で、いくつかの木立のかたまりがあった。
草原の真ん中には一台のピアノが置かれていた。スタインウェイの、黒いグランドピアノ。ピアノはまるで、夢から抜けだしてきたように、そこにあった。
ピアノのそばには、二人の人間がいた。一人は若い男で、ピアノの前に座っていた。洒落た帽子に、さっぱりとはしているが趣味のよさそうな格好をしている。好青年という感じだった。よく澄んだ目をして、歳のわりには落ち着いた表情をしている。彼の名前は、
もう一人は若い女で、ピアノによりそって立っている。簡素な、白いワンピースを身にまとって、風に流れるくらいの長い髪をしていた。その表情は康晴とは対照的な、いたずらっぽい少女のようなそれだった。彼女の名前は、
ピアノを康晴が弾いて、みちるはそばでそれを聞いている。ピアノの音は空気を優しく震わせて、溶けるようにして消えていった。
二人は数日前に、結婚したばかりだった。結婚といっても、役所に婚姻届を提出しただけのことである。結婚式も何もなく、両親には電話で報告しただけだった。友人同士の集まりも、ハネムーンも、はめを外した贅沢もない。もうすぐ世界が終わろうとしているときに、それは難しいことだった。
その代わりに二人がやったのは、こうして何もない草原にピアノを運んでくることだった。康晴は音大のピアノ科の生徒で、みちるは四年制大学の教育学部の学生だった。二人は隣同士の家で育った幼なじみだった。康晴は昔からピアノがうまく、みちるはよくそれを聞いていた。
今も、二人はその頃と同じことをしている。康晴が弾いて、みちるがそれを聞く。
草原にピアノを持ってくるのは、みちるの思いつきだった。何もない原っぱで、ピアノを聞いてみたい、とみちるは言ったのだ。康晴はいろいろと苦労して、それを実現した。ピアノを運んでくれる業者を見つけ、すぐに作業を行ってもらえるよう説得し、輸送費用を捻出し、実際にこうしてピアノを持ってきた。
二人の関係は、いつでも大体そんなふうだった。みちるが何かを言いだして、康晴が実際にそれを段取りする。
けれど、康晴がそれを不満に思うようなことはなかった。みちるはいつも真剣に、それがどんな思いつきであろうと実現されることを願った。そうやって真剣に何かを求めることは、康晴にはどこか欠けているものだった。
みちるも、そのことは知っていた。賢くて、落ち着いていても、康晴にはどこか冒険心というものが足りない――だから、そんな康晴が結婚しようと言ってきたとき、みちるはすごく驚いたし、それ以上に嬉しかった。
彼女がピアノのことを言いだしたのは、その時だった。ほかには何もいらないから、草原で康晴のピアノが聞きたい、と。
もちろん、ピアノは草原で弾くようにはできていない。野ざらしでは調律も狂うし、第一音が反響しない。それでも、幸いにも天気はずっと晴れていたし、コンサートで演奏しているわけでもない。それにもうすぐ世界が終わろうとするときに、そんなことは気にしても仕方のないことだった。
康晴はありったけの楽譜を集めてきて、知っている曲も、知らない曲も、手あたり次第に演奏した。みちるのリクエストに応えて、うろ覚えの曲を弾いたりもする。即興で、ただ指の動きに任せて演奏することもあった。
二人はとても幸せだった。この、世界の果てのような誰もいない草原で、二人はたった二人だけでいて、そのことに満足だった。そこにはピアノがあって、音楽があふれていた。これ以上、望むものはない。
「リクエストは、何かあるかな?」
一曲弾き終わったところで、康晴は言った。
「じゃあ、あれ。子供の頃によく聞いてた――」
「バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』」
康晴は鍵盤にそっと手を乗せて、その祈るような曲を弾きはじめた。その曲を弾いていると、康晴は自然と子供の時間に帰っていくような気がした。カーテンが風に揺れて、午後の眠ったような時間が流れていて、みちるは今と同じようにそれを横で聞いている。
最後の音がゆっくりと宙に消えてから、康晴は訊いた。
「みちるは、怖くないかい? 後悔や憤りや虚しさを感じることは?」
その問いに、みちるはすぐに答えた。光が鏡に反射するよりも早く。
「――ないよ。本当に、少しだってそんなことはない」
みちるは真心からの笑顔を浮かべて言った。
「だって私は今、すごく幸せなんだから」
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