(向坂 茜)月夜のボタン
「――中原中也の詩に、『月夜の浜辺』というのがあります」
教壇で、
山村先生は現代国語の教師だ。三十代の半ばで、ひっつめ髪、丸い眼鏡をかけている。どちらかというと歳よりも老けて見えるけど、本人はそんなこと気にしていなかった。飾りけのない性格で、ごく自然な温かみと落ち着きのある先生である。
学校にはもうほとんど人は来ていなくて、授業はクラスに関係なく人数を集めて行われていた。教室も適当で、決まった場所でやるというよりは、人の集まっているところにみんなも集まってくる、という感じだった。場合によっては、違う学年同士でも授業をしたりする。
もちろん、もう授業なんて受ける必要はないし、そんなことをしたって何の意味もない。でもどういうわけか、わたしたちはこうして学校に集まって、先生たちも授業を開いたりしている。
授業内容は、適当だ。もう受験勉強だとか、単位だとか、カリキュラムなんかに意味はないし、先生たちは自分たちのやりたいようにやっている。本当に教えたいこと、教えるべきこと、教えられること、そんなことをやっている。
今も、わたしたちが見ているのは教科書じゃなくて、山村先生の配ったプリントだった。そこには、いくつかの詩が書かれている。教室は、二年の生徒だけが半分くらいの席を埋めていた。
「六枚目のプリントに書かれているのが、それです。中也はこの詩を、『在りし日の歌』という詩集に収めました。これは、愛児を失った頃に編まれたものです。そしてその出版を待つことなく、中也自身も亡くなってしまいます。じゃあ、誰か読んでみて――と言いたいところだけど、せっかくなので私が読ませてもらわね。詩を朗読するのはいいものよ。カラオケで好きな歌をうたうのと同じくらいにね」
先生がそう言うと、何人かがくすくす笑い、賛成の意味で小さく拍手が起きたりする。先生はありがとう、と微笑んでから、その詩を読みはじめた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。……
先生の声はよく澄んで、教室中がしんとしてその声を聞いていた。教室中というより、何だか世界全部がしんと静かになったような感じだった。
……月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
詩が読み終えられてからも、その言葉はしばらくそのままの形であたりを漂っていた。まるで、ヴァイオリンの弦がかすかな震えを続けるみたいに。
先生はその余韻に耳を澄ますみたいに、長いこと目をつむっていた。そして不意に、顔を上げる。
「ところで、みなさんはもし願いが一つ叶うとしたら、どんなお願いをしますか?」
何だか唐突な質問で、みんなが戸惑った。でも一人が、「おいしいケーキを心ゆくまで食べる」と言うと、ほかにも何人かが発言した。「ディズニーランドを貸し切って遊ぶ」「太平洋の真ん中で空を見上げる」「好きな服を好きなだけ着る」エトセトラ、エトセトラ。
大体のところを聞き終わると、山村先生は言った。
「私は、宇宙から地球を眺めてみたいと思います」
先生はとても静かに、とても大切なことを話すように言った。
「――もしもそれができたら、もしも宇宙の暗闇の片隅にぽっかりと浮かぶ、青い星の姿をこの目で見ることができたら、私はどうしてそんなものがこの世界にあるのか、理解できるかもしれない。もしもそれができたら、私は月夜の晩に波打ち際で拾ったボタンみたいに、それを感じられるかもしれない。その光景は何の役に立つわけでもないけれど、それでもそれは、月夜の晩に拾ったボタンみたいに、私の心に沁みるのかもしれない」
そう言ってから、先生はにっこり笑った。
「たぶん私たちは、月夜の晩に拾ったボタンを、もう胸の中に持っている。それがどんな形のボタンかはわからないけれど、必ず。それはどうするものでもないけれど、決して捨てられはしないものなのよ――」
先生が言い終わってしばらくしてから、チャイムが鳴った。時計の針が動く、かしゃんという音が聞こえる。今日の授業はもう終わりだった。
そこだけは不思議なほどいつも通りな感じのする放課後の中で、わたしは帰り支度をはじめる。
「――私、部活行くけど、茜はどうするの?」
横から、優ちゃんが話しかけてきた。
「わたしは美術室にちょっと用があるから」
少しごまかすように、わたしは言った。「ちょっと」ではなく、わたしはそこに大切な用事がある。
「そっか」
優ちゃんは何か勘づいたように、でもわざとそっけなく言った。わたしは知らないうちに顔を赤くしていた。
「じゃあ私、運動場のほうにいるから。帰るときには声かけてね。今日はいいタイムが出そうな気がするんだ」
そう言って笑顔を浮かべると、優ちゃんは手を振って教室を出ていった。まるで遠くに旅立つ船からそうするみたいに。わたしも小さく手を振って、それを見送る。
ノートやら筆記用具やらを鞄にしまうと、わたしも教室をあとにした。何しろ人がいないので、校舎には放課後の慌ただしさなんてものはない。廊下はとても静かで、まるで深い森の中にでもいるみたいに透明な光が射し込んでいる。
そうしてわたしがたった一人、階段のほうに向かって廊下を歩いていると、向こうからも一人だけ、こっちに歩いてくる人の姿があった。
その姿を目にした瞬間から、ううん、その足音が聞こえてきたときにはもう、わたしの心臓は激しく鼓動していた。
落ち着け、と言いきかせるのだけど、わたしの心臓はそんなこと承知しない。落っことしたリンゴが、勝手に坂道を転がっていくみたいに。自分がきちんと手足を動かしているのかどうかさえ、わたしはわからなくなってくる。
「…………」
その男子生徒と、わたしはすれ違う。何の言葉もなく、何の約束もなく。
わたしは少しうつむいて、たぶん真っ赤な顔をしている。変に見られてしまうのが嫌で、わたしはそのまま歩いていく。たぶんそれは、十分に変なのだけど。
――しばらくして、わたしは振り向いた。
でもそこには、もう誰もいない。誰もいない廊下に、光が柔らかな水みたいに満たされているだけ。
わたしはそして、ため息をつく。
心臓は、まだ少しだけ強く脈打っている。
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