(小林 美羽・久島 紗奈)拒絶
その建物は人里離れた山中に存在していた。古い時代の山荘か、木造のサナトリウムといった外観をしている。舗装もされていない、車一台がようやく通れるくらいの道が、森の中から一本だけ通じていた。
建物の一室ではちょうど、二人の少女が目を覚ましたところだった。部屋の中には鉄の骨組で作られた簡素なベッドが二つ、小さな書き物机、何かの液体が入った小さなガラス瓶が二つ、百合と薔薇の活けられた素焼きの花瓶、そんなものが置かれている。白い壁には汚点一つなく、レースのカーテンはついさっきかけられたばかりのような清潔さを保っていた。
二人の少女は窓をいっぱいに開け、ちょうど巡ってきたばかりの新鮮な朝の空気を吸い込んだ。そうすると、昨日までの自分が細胞レベルですっかり入れ替わって、今日の自分になるのがわかる。夜の闇はもうその余韻さえ残さず、朝の瑞々しい光が全身を満たしていた。
「今日もすごくいい朝だね、紗奈ちゃん」
少女のうちの一人が、にっこりと声をかけた。その日の朝の太陽、そのままといった感じで。
「そうね――うん、すごくそう……」
もう一人の少女が、軽くうなずき返す。まるで、彼女の言葉を正確に、きちんと検証するかのように。
少女たちの名前は、
「私はね、こんな朝にはいつも何かを祈りたくなるんだ。神様か何か、そんなみたいなものに」
と、美羽はにこにこした笑顔のままで言う。
「美羽らしいわね」
そう言って、紗奈は微笑んだ。けれど、
「……子供っぽいということ?」
美羽は少しふくれたような顔をする。
「まさか、詩人ということよ。あなたにはそういう心の働きがある。私にはないものを、あなたは持っている――」
二人がここにやって来たのは、「世界滅亡宣言」が出されたすぐあとのことだった。あるサイトの応募を見て、ここにやって来たのだ。それは二人の目的と完璧に合致するものだった。
もちろん、危険はあった。そのサイトが本物かどうかもわからないし、犯罪に巻き込まれる可能性も十分にあった。けれどいかがわしい目的にしては、そのサイトの内容はいささか込みいっていたし、まじめすぎた。そして、それ以外に二人の目的を叶えてくれそうなものもなかったのである。
二人は家族にも友達にも告げず(そんなことをすれば止められるのは目に見えている)、この場所にやって来た。電車を何本かと、バスを一つ乗り継ぎ、あとは山道を歩いて。
結果的には、サイトに書かれていたことはすべて真実だった。人里離れた山の中にあって、空気は澄んで、緑は濃く、そこには美しい建物と清潔な環境、そして何より深い静寂があった。
そこにやって来たのは、全部で二十人ほどの人間たちだった。年齢、性別、出身地、来歴も様々で、二人が一番若く、最高では七十歳のおばあさんがいた。
二人はその時まで互いの存在さえ知らなかったが、出会って一目見た瞬間からお互いを好きになった。二人は相手の瞳の中に、同じものを見たのである。同じ魂の形を。
各人は一人一部屋をあてがわれたが、二人は同じ部屋で暮らすことを選んだ。それは二人にとって、満ち足りた生活だった。ほとんどすべての時間を、二人はいっしょに過ごし、そのことに何の不満も持たなかった。互いのまわりを回る連星のように、二人はそのことを当然に感じた。
二人がここにやって来た理由は、まったく同じものだった。ほかの十八人にしても、それは同じだったろう。その理由とは簡単に言えば、がん患者や不治の病に冒された人間たちと同じものだった。本当に怖いのは、痛みそのものではなく、見えない痛みを想像することにある。
「もうすぐこの時間が終わってしまうなんて、信じられないよね」
美羽はぼんやりと窓の外を眺めながら、どこか遠くの国のことでも話すように言った。
「そうね――」
紗奈も同じように窓の外を眺めた。緑の梢が揺れ、森の中からは鳥の声が聞こえる。
「きっと神様にだって、どうしようもないんでしょうね」
世界滅亡宣言後、しばらくの時間を二人はここで過ごした。とはいえ、集まった二十人のあいだでその間に何か交流があったわけではない。食事はほとんどが用意された保存食で、二人はそれを自分たちの部屋で食べた。
二人にしろほかの十八人にしろ、ここには仲間を求めて集まってきたわけではなかった。だからお互いのことについては、まったく何も知りはしないし、知る必要もない。同じ目的で集まったとはいえ、それぞれの動機がどのようなものかは不明だった。
それだけに、二人はお互いの出会いを貴重なものに思っていた。世界の最後に起きた、それは奇跡なのだ。二人は恋人が自然とよりそうようにして、自分たちのことを話した。どこで生まれ、どんな家族がいて、学校はどうだったが、初恋はいつだったか、好きな音楽、趣味、嗜好、世界の終わりに対する自分たちの考え――
その大半はほとんど意味のないおしゃべりだったが、二人は自分たちの魂を交換しあっているような、そんな興奮を覚えていた。二人はすべてのものを曝けだし、互いの内奥を見つめあった。
「紗奈ちゃんはさ、天国ってあると思う?」
「ん……」
急にそんなことを訊かれて、紗奈は美羽のほうを見つめる。美羽は自分の言う天国がそこに見えてでもいるかのように、窓の外に顔を向けたままだった。そのまま、美羽は言葉を続ける。
「そこではね、すべての人は永遠に幸せでいられるの。幸せすぎて、ちょっと悲しくなってしまうくらいに。……別に私は、不幸ってわけじゃないよ。天国なんてなくったって、全然平気なくらい。でももしも天国ってものがあるんなら、そこには幸せしかないっていうんなら、そこはどんな場所なんだろう?」
「さあ」
と、紗奈はそっけなく言った。
「私はそういうの、信じてないから」
「――紗奈ちゃんらしいよね」
美羽は振りむいて、ちょっとだけ笑った。すると、
「夢がない、ということかしら?」
いたずらっぽく、からかうように紗奈は言う。
「まさか……だって、私も同じだもの。天国なんて信じてない。そんなものあったって、なくったって、同じことだもの。私はただ、自分というものをまっとうしたいだけ」
「そうね。私たちには、私たちをまっとうするだけの権利がある」
二人はしばらくのあいだ、お互いを見つめあった。鏡を見つめるその瞳が、正確に互いを見つめあうように。そうして、その時が来たのだということを了解しあう。
机の上にあったガラス瓶を、二人はそれぞれ手に取った。手のひらに収まるくらいの、無色透明の液体が入った瓶である。中に何が入っているかを示す表示もなく、コルクの栓で蓋をしてあった。
二人は栓を抜くと、その液体を一気にあおった。相当にがいと聞いていたので、息もせず、できるだけ何も考えずに飲みほしてしまう。確かに、ひどい味だった。覚悟していなければ飲めたものではない。
それから二人は手を結びあって、互いのベッドの上に眠るように横になった。
「これできちんと、終われるんだね」
すでに薄まりかけた意識の中で、美羽は言った。
「ええ、そう。これで私たちの魂は、停止した時間の中に囚われるようなことはない」
そう答える紗奈の意識も、すでに暗くなりはじめていた。
二人は目を閉じ、意識の深い闇へと落ちていった。やがて二人の呼吸はロウソクを吹きけすように消え、その心臓はもう二度と音を立てることはなかった。
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