(向坂 茜)バスと友達
ブザーが鳴って、ドアが開いた。
わたしはバスに乗って、中ほどの席に座る。通学時間だけど、席はがらがらだった。元々そんなに人の多く乗る路線じゃなかったけど、今ではほとんど誰も乗ってこない。
バスの本数自体も、ずいぶん減っていた。ダイヤもいいかげんで、あまりあてにはならない。でもバスが走っているだけでも、ありがたいことだった。何というか、善意の世界なのだ。世界の終わりにバスを走らせたって仕方がないけれど、きちんとそうする人だっているのだ。
走りだしたバスから見える景色は、どこか虚ろな感じがした。あまり人の姿も見かけないし、車も走っていない。いつもなら学校に向かう小学生や、職場に向かう自動車の列があるけれど、今はそれもなかった。何だか、日曜日的な静かさだった。
といっても、「世界滅亡宣言」が出されたあとは、世の中はけっこう騒がしかった。いろんな混乱や、誤解や、行き違いがあって、血が流れたり、怖いこともいくつか起こった。
今は一応落ち着いているけど、それでも街の一部には危ないところや、絶対に近づいちゃいけないところもある。すべてが今まで通りというわけにはいかない。
停留所を三つほど行きすぎてから、バスはゆっくりと停まった。後ろのドアが開いて、人がひとり乗ってくる。
ドアが閉まってバスが走りだすと、その乗ってきた一人はわたしのところまでやって来た。そうして二人がけのその席の、わたしの隣に座る。
「席ならほかにもたくさん空いてますよ、お嬢さん。ざっと一ダースばかりはね」
わたしがちょっとシリアスにそう言ってみると、彼女は念のためという感じでバスの中を確認してから言った。
「それは気づきませんでしたわ。でも私、困ってるんです。さっきから悪漢につけられていて。身長三メートルくらいの。私、あなたならきっとなんとかしてくださる気がして――って、何なの、これ?」
「ハードボイルド探偵ごっこ」
わたしはにこにこして答えた。
「あー、はいはい。それはようございました。で、もう満足した?」
「九割くらいは」
「姫様のご機嫌は今日も麗しいようで、じいは恐悦至極に存じまするよ」
スプーンで大さじ一杯はすくいとれそうな皮肉を込めて、彼女は言う。
――彼女の名前は、
いかにも活動的なポニーテールの髪に、猫みたいなくりっとした目。すらっとした体型で、わたしより頭半分は背が高い。そこには背筋のしっかりした、いかにもスポーツマンらしい姿勢のよさがあった。彼女は短距離走者なのだ。中学の時には、県の代表に選ばれたこともある。
「朝っぱらからこうやって茜のボケにつきあってると、平和の尊さを実感するよ」
と、優ちゃんはわかりやすく肩をすくめてみせる。それに対して、わたしは言う。
「お役に立てて光栄です、王女様」
「うむうむ、苦しゅうないぞえ」
わたしたちはけたけたと、他愛なく笑った。
「ほんと、こうしてると世界が終わるだなんて信じられなくなるよ」
「うん、そうだね……」
「ていうか、私まだよくわかんないんだけどさ、時間が止まるって、どういうことなわけ?」
「つまり」
わたしは、わたしにわかっている範囲で説明しようとする。
「例えば今この瞬間、時間が少しのあいだだけ止まったとするでしょ? 一時間か、二時間くらい」
「止まってる時間を一時間てのも変な話だけどね」
「まあそうなんだけど、とにかく便宜的に、それくらいの時間が止まっていたとする。ちょうどわたしが『つまり』の『り』と、『例えば』の『た』を言ったあいだにね」
「ふむ」
「でもその止まった時間を、わたしたちは認識できない。そのあいだに、早く時間が動かないかな、とかそんなふうに思うことはないわけ。時間が止まるってことは、わたしたちの意識がまったく働かなくなることだから。例えばそれが一時間であろうと、一万年であろうと、時間が再び動きだしたときには、わたしたちは時間が止まっていたことにさえ気づかない」
「一万年もたってるのに?」
「理屈としては」
「うーん」
「わたしもよくはわからないけど、時間が遅くなってるのは本当なんだって。元々、重力や速度によって時間の流れが変わることは観測されてて、時間というのは絶対的なものじゃないってことはわかってたの」
「飛行機に乗ってると、時間がゆっくりになるってやつでしょ。原子時計で計ると」
「うん」
「でも、こうしてるあいだにも時間が遅くなってるっていったって、何も変わらないじゃない? ゆっくりしか動けなくなるとか、物を落としてもなかなか地面につかないとか……」
「時間の流れは相対的にしか計れないから」
わたしは慎重に言葉を選んで言った。
「本人にはその違いを自覚することはできないの。光速に近づくと、物体の時間はほとんど止まってるんだけど、例えばそういう宇宙船があっても、中にいる人はそのことの影響は受けないし、実感もできないわけ」
「変な話」
「一年前と、今だと、時間の流れは確実に変わってるんだって。同じ一秒でも、実際には今の一秒のほうがずっと長くなってる」
「でも、私たちにはそのことはわからない、と」
「うん」
「世界の時間が止まっても、私たちはそのことにさえ気づかないわけだ。何だか、嫌な感じの話だなあ」
「――うん」
わたしたちはそれからしばらくのあいだ、黙っていた。バスの振動だけが、シートを通して感じられる。少なくとも今はまだ、時間は動いていた。おじいさんの古時計みたいに、それはやがてとまってしまうのだけれど。
「――優ちゃんは、最近夢を見る?」
ふと気づいたとき、わたしはそんな言葉を口にしていた。
「夢?」
優ちゃんは急にそんなことを言われて、びっくりしたような顔をする。
「うん、知らない男の子の出てくる夢」
「何それ?」
わたしは水中に漂う海藻みたいに、力なく首を振った。
「見ないなら、別にいいの」
優ちゃんは怪訝そうな顔でわたしのことをうかがっている。
でも説明を求められたって、わたしも困ってしまうのだ。どうしてそんなことを訊いたりしたのか、自分にだってわからないのだから――
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