(矢尾 茂樹)反吐

 あたりは薄暗く、空気はねっとりと澱んでいた。空調もろくに効いていないせいだ。そこは大雨のあとの小さな池みたいに、いつまでたっても泥の濁りが沈殿せず、不透明な混濁の中にあった。

「ん、う……」

 矢尾茂樹やおしげきは長い冬眠からようやく醒めたみたいな、はっきりしない意識で目が覚めた。筋肉のが抜かれたみたいに、体の隅々に力が入らない。

 そのまましばらくのあいだ、ぼんやりしていた。黒い革張りのソファに横になっているので、体勢としては楽だった。畳の上にじかに寝ていたときに比べて、体の節々が痛むということはない。

 その建物は小さな体育館くらいの広さがあって、蒼ざめた色の照明が天井からあたりを照らしていた。矢尾が今いるような、仕切りで区切られたブースがいくつかあって、ほかにダンスフロアやいくつかのテーブル席、バーカウンターといったものが設置されている。要するに、ナイトクラブというわけだった。サウンドスピーカーからは、脳髄を撹乱するようなサイケデリックな音楽が流れている。

「ふう」

 矢尾は起きあがると、体内のもやを吹き払うようにため息をついた。トリップしたときの、ぼんやりした残滓のようなものが体の中に残っている。多幸感や幻想、幻覚は、氷の溶けきったコーヒーみたいに薄まっていて、代わりに軽い疲労感や倦怠のようなものが居座っていた。

 目の前のテーブルには、ガラス製の灰皿と、パラフィン紙の上の白い粉、それに巻紙と、つい数時間前に使用されたものの残骸が置かれていた。ほかのテーブルの上にも、やはり同じものが置かれているだろう。

 ――早い話、ここはそういう場所なのだった。

 「世界滅亡宣言」のあと、その短い余生を薬の力に頼ろうと決めた人間たちの集まる場所。世界の最後を、圧倒的な幸福感の中で乗りきろうとする者たちの集まる場所。

 ありとあらゆる種類の薬物は、すべて無償で提供された。その提供者が一体どういう人物なのか、矢尾は知らない。伝え聞いたところによればその人物は、自分と同じような望みを持つ人間たちの願いを叶えたいのだ、という話だった。もちろん、世界が終わるのだから、金なんかとっても仕方がないだろう。

 とはいえ、世界が終わるのだから何をしてもいい、というわけではない。一部の地域では破壊的な活動、非人間的な犯罪行為、快楽主義的、即物的な行動などが見られたが、すべての人間が自暴自棄になっているというわけではない。警察や消防の活動は行われていて、治安維持の機能は残されていた。だからここも、見つかれば全員が逮捕されるということにもなりかねない。

 もっとも、そういった機能は病人の免疫力みたいに働きが低下していて、よほど目にあまるものでないかぎりは放置されている状態だった。警察官たちにしてもその職務を放棄する者は多く、残された者たちにしてもそこまで防犯活動に熱心なわけではない。

 そんなわけで、こうした地下組織コミュニティは存在しているのだった。世界の終わりの瀬戸際でまで、価値観の相違で争いたくはない、というわけである。

(……のどが渇いたな)

 矢尾はちょっと頭を振ってから、緩慢な動作で立ちあがった。ブースを抜けて、バーカウンターのほうに向かう。

 歩いていると、床の上に寝そべったままぴくりとも動かない男がいた。眠っているのかもしれないが、もしかしたら死んでいるのかもしれない。薬によっては、分量を間違えると危険なものもあったからだ。

 矢尾はそいつを踏んづけないように注意して歩いた。ほかのブースから、何人かの人間がけたけた笑っているのが聞こえた。そのほかにも、バッドトリップに入ったらしいのが、何かぶつぶつ言いながらのたうっているのが見える。

 バーカウンターまで来ると、矢尾は冷蔵庫を開いて中のミネラルウォーターを手にとった。ここにあるものはすべて(もちろん、棚に並んだ大量の酒類も)勝手に持っていっていいことになっている。すべて、好きにしろということだ。

「ん、ん――」

 ボトルに口をつけて、半分ほどの水を一気に流し込んだ。胃が変に冷たくなるのがわかる。薬の効果がまだ残っているのかもしれない。

 ここにいる者の大半は、元々そうした経験のある人間たちだったが、矢尾は違っていた。たまたまこの場所のことを聞きつけて、やって来たのだ。

 矢尾茂樹は歌手を目指す、二十八歳の青年だった。高校の頃からギターをやりはじめ、大学卒業後も就職はせずに音楽活動を続けた。路上で演奏をしたり、ライブハウスへの出演をしたり、そんなところだ。

 けれどレコード会社に送る自作曲は、どれもすげなく返却され、オーディションでもさしたる成果はあげられなかった。時間だけがいたずらに浪費されていくなかで、矢尾はじわじわと自分の人生の失敗を自覚しつつあったが、それでもギターの弦をつま弾くたびに、歌を作りたいという気持ちの強さと、その確かさを感じずにはいられなかった。

 決して希望にあふれているとは言いがたいそんな日々を送るうち、矢尾の努力の必然か、運命のきまぐれか、彼の夢は叶えられることになる。ある音楽会社に送ったデモテープが採用され、CD化されることが決定したのである。

 単純にそのことを喜ぶには、矢尾はいささか時期を逸していたが、それでも胸の熱くなる思いや、体が宙に浮かぶような興奮があった。矢尾はその日の夜から日記をつけることを決意し、その第一ページ目には今の自分の興奮をあますところなく書きつけた。ぎっしりと行を埋めつくしたその文章は、結局ノート五ページぶんほども続くことになる。

 話はすべて順調なように思えた。契約の細かい内容も、販売戦略やスケジュール、売り上げ目標も、それほど重要なものには思えなかった。自分の歌がCDになるというそのことが、矢尾にとってのすべてだった。

 けれど結局のところ、ようやくまわってきたそのサイコロの目は、コマを進めることなく終わる。

 矢尾が毎日を眠れぬ興奮ですごすある日、例の「世界滅亡宣言」が出されたのである。

 その事実とタイミングに矢尾はショックを受けたが、それでも悲観はしていなかった。例え世界が終わるにしても、自分の歌がCDとして存在しさえすればそれで満足だ、そんな気持ちだった。ある意味では、その後のより厄介で現実的な問題を回避できるだけ、幸運といってもよい出来事かもしれなかった。

 ところがその翌日、すでに契約を結び、CDも完成まで進められていたにもかかわらず、プロデューサーとの連絡がつかなくなった。世界の終わりについてはあれほどすんなりと受け入れられたというのに、矢尾はその事実を理解するのにひどく時間がかかった。

 そして理解したあと、どうしようもないくらいの絶望がやって来た。景色は歪んで、足元の地面はがらがらと音を立てて崩れた。あと少しで地獄から抜けだせるところで、蜘蛛の糸が切れたような気分だった。子供の頃、矢尾は犍陀多かんだたの愚かさを笑ったが、今はとても笑える気分ではなかった。

 それからの世界の混乱や変化さえ、矢尾にとってはどうでもいいものだった。バンドも自然消滅の形で解散したが、それらはすべて自分とは関係のない世界の出来事だった。

 矢尾は世界の終わりをこんなふうに迎えなくてはならない、自分のみじめさを呪った。呪って呪って呪いつくし、ついには世界のすべてを憎み、自分自身をさえ憎んだ。すべてが間違っているように思えた。自分のささやかな願いさえ叶えないこの世界が、ひどく歪んだ場所に思えた。そんな世界が終わることに対して、自分のこの苦しみを捧げることさえ許せなかった。

 そうして気づいたときには、矢尾はここにいた。どこで知りあったのかよくわからない女に勧められて、言われるままに白い粉を巻紙に包み、火をつけて肺に吸い込んだ。

 途端に、菌糸類のように全身に根をはっていた絶望は溶解し、皮膚を切り裂くようだった怒りや憎しみも、真空中に拡散するようにしてどこかへ消えてしまった。

 その代わりにやって来たのは、絵本の挿し絵に出てきそうなお花畑的幸福感と、意味不明な幻覚の連続だった。まるで夢が現実にあふれてきたみたいに、それらは矢尾の周囲の世界を彩った。束の間、夢と現実がその役目を交代したかのようだった。

 以来、矢尾はここで薬漬けの毎日を送っている。世界なんてクソ喰らえだ、と矢尾は思った。自分が世界に対して、ささやかな復讐を行っている気分だった。世界なんて、勝手になくなっちまえばいいんだ。

 水を飲んだあと、矢尾は急に気持ちが悪くなってトイレに向かった。慣れないせいか、時々そういうことがある。大抵は、二三時間吐き気が続いた。

 トイレに向かう途中、ふと見かけたポスターの文句に刺激されて、曲のフレーズを思いついた。そういう思いつきを、矢尾は普段ならどこかに書きつけて、採集した昆虫みたいにきちんと保存した。それは矢尾にとって、何より大切な行為だった。

 一瞬だけ矢尾はどうするか迷ってから、結局そのフレーズを無視することにした。そのフレーズはかつてと同じように、矢尾の中で確かな強さと光を帯びていたが、もうそれをどうすることもできなかった。どうせすべては、終わってしまったことだ。

 狭い通路を通ってトイレにまでやって来ると、そこだけは黄色い光で明るく照らされている。矢尾は奇妙に現実的な芳香剤のにおいを感じながら、トイレの便器に向かった。

 さて、胃の中のものでも拝んでやろうかと便器の前にしゃがみこんだとき、隣の個室から激しい振動と喘ぎ声が聞こえてきた。

 ちくしょう、と矢尾は思った。隣で誰かが、本番をはじめやがったというわけだ。

 同時にこらえきれない吐き気がやって来て、矢尾は便器に向かって吐瀉物をぶちまけた。その一部は便器の縁を越えて床にまで広がり、醜悪な模様をそこに描いている。

 そのあいだも隣の個室は盛大に振動し、物音を立て続け、矢尾はまるでそれにあわせるようにして吐き続けた。

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