(向坂 茜)ある日の朝食
「――おはよう」
わたしはそう声をかけた。いつもと同じように、いつもと変わりなく。
食卓では父親が新聞を読みながらテーブルの前に座り、台所では母親が果物を切っている。弟はまだ眠っていた。
わたしはすっかり身支度の整った格好で、テーブルのいつもの席に座った。わたしの前にはこんがり焼かれたトーストが、父親の前には鮭とみそ汁とホウレンソウのおひたしが並んでいる。こと朝食に関しては、わたしの父親はトラディショナルな人間なのだ。
でも父親はその伝統的な日本風朝食といっしょに、熱いコーヒーを飲む。それも、食べている最中に。食事のあとならまだわかるけど、みそ汁を飲みながらコーヒーを飲んだりもする。そのことを訊くと、父親は必ずこう言う。「和洋折衷だ」。そして、そんな父親の娘であるわたしは、トーストに緑茶という組みあわせ。
まずお茶をゆっくりとすすってから、わたしはトーストにマーガリンを塗って齧りつく。トーストはトースト的にさくさくという音を立てながら、わたしに食べられていく。
「学校はどんな具合だ?」
父親は新聞を脇に置きながら訊いた。わたしはトーストを咀嚼して、飲みくだしてから答える。
「来てるのは、全体の五分の一くらいかな」
うちの高校は一学年で十クラスほどあるけど、今は二クラスで授業をしている。まあ、無理のない話だ。世界が終わるまでの貴重な時間をどう使おうと、それは個人の自由というものだったから。
「それだと先生があまるだろう?」
父親は余計な心配をした。
「大丈夫、先生も来てるのは五分の一くらいだから」
まあ、これも無理のない話である。
「……仕方のない話だな」
と、父親も同意見のようだった。それから、つけ加えて言う。
「茜も、別に無理をして学校に行く必要はないんだぞ。友達と遊ぶなり、どこか出かけるなり、好きにすればいいんだ。こんな時にまで、世界に義理立てする必要はないんだぞ」
「そういうお父さんだって、仕事に行くんでしょ?」
わたしはまたトーストを齧った。
「そりゃ、そうだが……」
父親はワイシャツにネクタイという格好で、わたしと同じようにすっかり身支度は整っている。
「お前はまだ、高校生なんだし」
「子供も大人も関係ないって」
すぐに言い返した。
「わたしは行きたいと思うから学校に行く、それだけだよ」
「うむ」
父親が言葉につまっていると、母親がリンゴの乗った皿を持って、笑いながらやって来た。
「お父さんが何を言ったって無駄ですよ。この子は昔からそうなんだもの。ほら、いつだったかこの子が風邪をひいて、病院に行こうって話になったでしょ。でもこの子、そんなところには絶対行かないって、いつも通り学校に行くんですよ。それで結局、風邪のほうも治っちゃって。きっと風邪のほうで諦めたんでしょうね。こいつにくっついてても仕方ないやって――」
母親はこういう話になると、いつもこのことを蒸し返すのだ。
「そうだな、そうだった」
父親も笑う。そして結局のところ、わたしも仕方なく笑う。
「でも、本当なんですかね?」
テーブルの前に座って、母親はちょっと懐疑的な様子で言った。
「世界が終わるだなんて。私にまだうまく信じられないんですけどね」
「太陽が爆発するとか、月が落ちてくるって話じゃないからな。想像しにくいのは仕方がないが」
父親はコーヒーをすすった。胃の中でごはんやみそ汁とコーヒーが混ざっている図というのは、あまり想像したくない。
「どうしようもなかったんでしょうか? 何とかして、その、時間が止まるのを防ぐっていうのは?」
「いろいろ対策はとられたらしい」
話を聞きながら、わたしは残り少なくなったトーストを齧る。
「時間を加速しなおす方法を考えたり、まだ時間の動いている場所へ避難することを考えたり。しかし時間というものについて人間が知っているのは、ごくごくわずかなことらしいんだ。時間の最小単位、いわゆるプランク秒というのがあるかどうかさえ、よくわかっていない」
わたしの父親は市役所の広報課長をやっていて、そういうことには少しだけ詳しい。
「難しい話はよくわかりませんけど」
ごく普通の専業主婦である母親は、その手の話になるとすぐに匙を投げる。
「やっぱり、どうしようもないんですかね?」
「そうだな」
父親もどうしようもなさそうに、そう言うしかない。
その頃には、わたしは朝食を食べ終わって、もう出かける準備はできていた。わたしはごちそうさまを言って立ちあがり、ソファの上に置いてあったカバンを手にとる。
「気をつけてね。ずいぶん物騒な話だって耳にするんだから」
母親が、そんなわたしに向かって声をかけた。
「うん」
わたしはちょっとだけ服のしわやらスカーフの形やらを直して、それから言う。
「――いってきます」
いつもと同じように、いつもと変わりなく。
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