第3話 隣家

翌朝、ニュース番組では昨日の大雨のニュースが取り上げられていた。タイヤの半分以上が沈み、大きな水しぶきをあげながら走る車の様子や、床上まで浸水してしまった家や、土砂崩れが起きた場所が映っている。その話題を、人気の女子アナが険しい顔つきで話していた。


「また、昨日の大雨によって氾濫した○○川で、5歳の女の子が溺れて亡くなったとのことです」


 年に何度かはこの手の話題は耳にする。それを倫也は見るたびに、かわいそうだなと思った。それが小さな子供だろうと、お年寄りだろうと、関係なくそう思った。だが、それ以外の感情が湧くことはなかった。未来永劫、自分とは全く関係ない話だと感じていたからだ。

 別にこれは倫也がおかしいというわけではないし、ほとんどの人間がきっと同じ考え方だろう。朝起きて、朝食を食べ、学校や仕事に行く。友人や同僚、恋人と過ごし家に帰って風呂やご飯を済ませて、各々の時間を過ごす。そして、その日がどんな一日になろうと、布団に入って寝てしまえば、また昨日と変わらない日常が始まる。誰もがそう信じて疑わない。

だから、突然、自分の周りの人間(あるいは自分自身)に、何か思いもよらない不幸が襲ってくるなどとは思わない。それが当たり前なのだ。乱暴な言い方だが、ただ他の人に比べて運が悪かっただけ、そう納得するしかないのである。

倫也は焦点の合わない目で、テレビの方を見ている。先ほどまで険しかった女子アナはすっかりいつもの人懐っこい笑顔に戻り、調子はずれの音楽とともに芸能ニュースを読み上げていた。


世間なんてそんなもんだ。


そう思い、倫也はテレビを消した。


 ◇


あれから六年。二人は住み慣れていた街を離れ、千夏を失った悲しみから逃れるように、地方に移住することを決めた。空を覆い尽くすようなビル群は青々とした山になり、昼夜問わず続いていた喧噪は、鳥のさえずりに変わった。

倫也は仕事を辞め、退職金と貯金を使って古民家を購入した。築二十年の木造の平屋には、南向きの日当たりのいい居間と、八畳ほどの部屋が三つ。そして、なにより二人がお気に入りだったのが、家の裏に庭があるところだった。今は荒れてはいるが、二人で家庭菜園を始めるには十分すぎる広さだ。これから季節ごとに色んな野菜を育てていくのが、今の二人のささやかな目標となっていた。


「スーパーまでどれくらいかかるっけ?」


倫也が尋ねる。


「一番近いところで三、四十分くらいかな?」


「やっぱり遠いな。そこさえよければ完ぺきだったのに」


「こんなに良い所なかなかないわよ。買い物くらい我慢我慢」


「そうだな。部屋も少しずつリフォームしていけばいいしな」


そう言って倫也は大きく伸びをした。これから始まる新生活に期待を感じながら、再びゆっくり目を閉じた。


 翌日、倫也は引っ越し作業でべたついた体をさっぱりさせるため、まずシャワーを浴びた。昨日はあれからまた眠り込んでしまったようだ。慣れない力作業が思ったよりも体にこたえていたのだろう。

 佳菜子の姿はすでになく、机の上に朝食と『スーパーに行ってきます』というメモ書きが置いてあった。倫也は髪をタオルで拭きながらトーストをかじる。少し時間がたっていたせいか、パサついて固くなっていたそれを、牛乳で一気に流し込んだ。


(さて、今日はどこから手を付けようか)


そう思った矢先、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。


「はーい!」


「すいませーん。向かいの家の高岡というものですがー」


「あ、今行きますー!」


そう言って倫也は玄関に向かった。

 扉を開けると、そこには小柄な男性が一人立っていた。見た目は六十代後半だろうか。こぎれいに整えられた短髪には白髪がぽつぽつとみえており、顔に深く刻まれたしわは、厳格というよりも穏やかな雰囲気を感じさせた。薄緑のポロシャツに、色褪せた紺のスラックス。そしてサンダルという、いかにも地元民らしい格好だった。


「あぁ、すいません。お休み中でしたか?」


高岡と名乗った男が少し申し訳なさそうに頭をかいた。それを見て倫也ははっとした。乾いていないぼさぼさの髪と、くたびれたグレーのスウェット。髭もまだ剃っていない。初対面の人間と会うにはおおよそ適さない格好であった。


「昨日引っ越してきました、西島です。あ、こんな格好ですいません」


「いえいえ、こちらこそ突然押しかけてしまって」


 そう言って高岡は小さな紙袋を手渡した。中には紙が数枚と、みかんが入っていた。


「私はこの地区の町内会長もやってましてね。ゴミの分別の仕方や、年間の行事の紙

を入れておいたので。あ、あとみかんはうちの庭でとれたものなんですが、よければ召し上がってください」


 おっとりした声だが、とても丁寧な口調で高岡は言った。にっこりと笑った顔のしわが一層深くなる。それだけで性格の良さを感じさせるには十分だった。


「わざわざすいません。本来ならこちらから伺わないといけないのに」


「そんなにかしこまらないでください。引越しの作業もお忙しそうですし、私も新し

いご近所さんを早めに知っておかないといけない立場ですので」


「近いうちにまたご挨拶に伺いますね」


 いい人そうで良かった、と倫也は思った。正直、新生活を始めるにあたって、近所づきあいというものが一番の問題だと思っていたからだ。特にこういう田舎の近所づきあいは何かとルールが多いというのは心得ていたので、幸先の良いスタートが切れたなと倫也は思った。


「最近はここら辺も都会に出ていく人ばっかりで、空き家が増えてきましてね。西島さんのような若い方が来てくださって、嬉しいですよ」


「色々事情がありまして、田舎の落ち着いた所で暮らしたいなと思いまして。妻と空き家の登録サイトを見てここに決めたんです。最後は妻のゴリ押しでしたけど」


「そうなんですね。そういえば、西島さんのお隣の家も空き家登録サイトでここを見つけて引っ越してきた方ですよ」


 高岡はそう言うと、ほら、というように家の外を指さした。その先には倫也の隣の家が示されていた。倫也の家の庭と、細い道路を挟んだ所にあるその家は、二階建ての小さな木造の古い家で、その周りを石造りの塀でぐるっと囲っている。入り口には鉄製の門があるが、所々が錆びたり、塗装が剥げかかっていた。何も知らなければ、誰かが住んでいるとは毛頭思わないたたずまいであった。

もちろん倫也はその家の存在を知ってはいたが、そこに人が住んでいるなど思ってはいなかった。それほどまでに、その家から生活の痕跡が感じ取れなかったのだ。


「あそこ、人が住んでたんですね……」


「ええ。つい最近……といっても二年位前ですがね」


 高岡は「たしか……」と言って頭をポリポリ掻きながら何かを思い出そうとしている。


「そうそう、結構若い感じの男の人でした」


「若い方があの家に?」


「ええ、こんな田舎にわざわざ一人で引っ越してこられて、珍しいなぁと思ってたんですよ」


そういうと高岡は右手首にはめた腕時計をちらりと見た。


「おっと、少ししゃべりすぎましたかね。年をとるとつい余計な話ばかりしてしまって、困ったものですな」


「すいません、いろいろ教えていただいて」


「何か困ったことがあったら、いつでもおっしゃってください」


 帰っていく高岡の背中に倫也は一礼して、部屋に戻る。その途中、さっきの家をもう一度見た。見れば見るほど、ここに誰かが住んでいるとは思えない。ボロ家、というほどでもないが、この家に人が住んでいると聞いて、倫也は少し不気味な感じを覚えた。しかし、人が住んでいるのなら、ここにも挨拶にはいかなければならない。引っ越したばかりでご近所トラブルになるのだけはごめんだ、と倫也は思った。

 部屋に戻ってほどなくして携帯電話が鳴った。佳菜子からだ。


「あ、もしもし?なにか足りない調味料とかあったっけ?」


どこかの店の中からかけているのだろう、電話の向こうで何かのBGMが流れている。


「特にないかなぁ。ご近所さんに配る手土産見つかった?」


「うん、とりあえず洗剤の詰め合わせがあったからそれにした」


「そっか。あ、さっき町内会長の高岡さんって方が来てさ、いろいろ教えてもらったよ。いい人そうだったからよかったよ」


「そうなのね。またちゃんと挨拶にいかないとね」


「そうだね。あ、あと、洗剤セットっていくつ買った?」


「え?ちょっと多めにしようと思って八セットくらい買ったけど。余っても家で使えるし。」


「そっか、じゃあ大丈夫かな。隣に古そうな家があったの覚えてる?」


「うん」


「どうやらあそこにも人が住んでるらしいんだ。若い男の人が一人暮らしで」


「え!?あそこ人住んでたんだ!」


 佳菜子も倫也と同じような反応だった。


「そう、俺もびっくりしたよ。先に聞いておいてよかった」


「そうだねー。お隣さんだからなんかトラブルになっても嫌だしね」


 そう言って佳菜子はそろそろ会計に行くから、と電話を切った。倫也は残った朝食をかきこむと、引越しの片づけを始める。片付けながら頭の中で今日の段取りを整理する。

 佳菜子が帰ってきたら昼食を食べて、それからリビングの片づけを済ませよう。夕方になったらご近所に挨拶に行かないと。こういうのは早めに済ませておくのが大事だ。全部すんだら、今日は俺が晩御飯を作ろうか。佳菜子の好きなカレーでいいかな——。

 そんなことを考えながら、黙々と段ボールの中を片付けていった。

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隣人A @aenZZ

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