第2話 過去

 薄ぼんやりとした視界が徐々に開けていく。数秒後にはここがリビングなのだと倫也は理解した。いつのまにかソファで眠ってしまっていたらしい。体にはうすいブランケットがかけてあった。

 ゆっくりと体を起こす。軽い頭痛はしたが、頭の中は意外にもクリアだった。壁にかけてある時計は二十三時すぎを示している。


「あら、起きたのね」


不意に背後から声が聞こえた。妻の佳菜子だ。風呂上りなのだろう、濡れそぼった黒い長髪をタオルで拭いていた。


「やっぱり久しぶりにお酒飲んだからかしらね。元からそんなに強くないのに」


そう苦笑しながら、彼女はコップに水を注ぎ、倫也の目の前に差し出した。


「ありがとう」


水を一口飲み、今日のことを思い出そうとする。

確か今日は引っ越し初日で、業者を見送った後、コンビニで晩御飯を買った。そしてなぜか普段飲みもしない缶ビールも一本買い、それを飲んでそのまま眠ってしまったのだ。


「何時間くらい寝てた?」


「んー、二、三時間くらいかな。半分も飲まないうちに顔真っ赤になって寝ちゃってたわよ」


机の上の缶ビールを手に取る。中身はまだまだあったが、すっかりぬるくなってしまい、もう飲む気にはなれなかった。普段付き合いでも飲まない酒を、なぜ買ってしまったのだろう。引越しがひと段落下したことに安堵したからだろうか。よくわからなかったが、もう二度と飲むまいと思った。


「とりあえず、荷物の整理はまた明日からだな」


「そうね。か弱い女性と酔っ払い二人じゃ、段ボールの一つだってまともに整理できないものね」


佳菜子が悪戯っぽく笑って見せる。


「あと、ご近所さんに配る手土産は?」


「まだ買ってないから、明日午前中にどこかで探してくるわ。車借してくれる?」


「ああ」


佳菜子はありがとう、と言うと近くにあった段ボールを開け、写真たてを一つ取り出した。そこには女の子が一人映っている。満面の笑みをたたえ、こちらに大きく手を振っている。その写真を見つめる佳菜子からは、さっきまでの悪戯っぽい、幼さの残る面影が消え、ひどく悲しそうだった。

 


二人には子供がいた。千夏と名付けられたその子は、僕たちにとって何よりもうれしい神様からの贈り物だった。

純粋で、無邪気で、強がりで、でも泣き虫で——。日々変わっていく千夏の成長を見ていくのが、二人の楽しみだった。

そんな最愛の娘は、今から6年前に死んだ。五歳の誕生日を迎えるちょうど一週間前の出来事だった。あの日、日本列島に接近していた大型の台風は僕らの街にもその脅威をふりまこうとしていた。会社からは早めの退勤を促され、倫也はデスクで帰りの支度を整えている最中だった。突然ポケットに入れていた携帯が鳴りだした。


「あなた!あなた!」


佳菜子だった。その声は倫也も今まで聞いたこともないくらい慌てようで、何か良くないことが起こっているのだとすぐに分かった。


「一体どうしたんだ⁉」


「千夏が、千夏がいないの!どこにもいないのよ!」


「なんだって⁉」


「庭で遊んでて、そろそろ雨が降ってきそうだから呼び戻しに行ったらどこにもいなくて……。ああ、ごめんなさいあなた、ほんとにちょっと目を離しただけなの……。ねぇ私どうしたら……」


「とにかく佳菜子は警察に連絡して、周りを探して!ご近所さんにも探すの手伝ってもらって!」


佳菜子はわかったと言った。その声は震えていた。倫也は乱暴に鞄に荷物を詰め込むと、部屋を飛び出す。すれ違いざまに同僚が何か言った気がしたが、倫也の耳には何も届いてこなかった。

会社から家まで二〇分ほど車を走らせたあと、駐車場に頭から車を停める。急いで降りると、佳菜子が青ざめた顔で出迎えた。


「見つかったか⁉」


「ううん。隣の和久井さんの奥さんにも手伝ってもらってるわ」


佳菜子の声の端々が震えていた。倫也はスーツも脱がずに、千夏を探しにむかった。

佳菜子の話では、千夏は庭を囲っている木製の柵の隙間から出て行ったのではないかということだった。普段なら千夏の伸長よりも高いそれは、三日ほど前に強風で一部がはがれてしまっていたのだ。ちょうど女の子一人が入るくらいの隙間がそこにはできていた。好奇心が旺盛な千夏には、そこが魔法の世界につながる扉にでも見えたのだろうか。倫也はあの時すぐに柵を補修しなかったことを心から後悔した。

柵を抜けると西には住宅街、東には少し進んだ先に公園がある。休日には三人でよくそこに行き、友達と楽しそうに遊ぶ千夏の姿を見るのが恒例となっていた。


「公園は⁉」


「一番に探したわ。でもいなかったの。今日天気悪いし、台風も近づいてるから、人も全然いなくて」


「とにかく二手に分かれて探そう。俺はもう一回公園の方を見てくる。警察には言ったよな?」


「うん。もう動いてくれてるわ」


倫也は佳菜子の言葉を確認すると、公園方面へ駆け出した。

公園についてほどなくして、雨が降り始めた。雨は見る見るうちに勢いを増し、体と地面を強く叩いていく。


「千夏!どこだ!千夏!」


豪雨の音にかき消されまいと倫也は何度も千夏の名前を叫び続けた。着ていたスーツはたっぷりと水分を含み、体を重くさせている。顔にあたる雨粒が視界を遮るが、構わず千夏を探し続けた。

頭の中を最悪のシナリオが何度も駆け巡る。不安と比例するように叫び声は大きくなっていた。そうでもしないと、倫也は正気を保っていられなかったのだ。

ふと、携帯が鳴った。佳菜子からだった。


「もしもし」


「あなた、千夏が……」


「見つかったのか⁉」


その問いに、返事は返ってこなかった。その瞬間、倫也はすべてを察した。頭を鈍器で殴られたような重い衝撃が走る。心臓はその鼓動を早め、誰かにねじ切られるているような感覚に襲われた。


 ♢


そこから後のことを倫也は断片的にしか、覚えていない。やけにうるさい雨の音と、顔を覆い小さな嗚咽を漏らしている佳菜子と、片方だけの小さなピンクの靴、そして川岸の流木に引っかかっている千夏の死体だった。千夏は、家から数百メートル離れている河川敷で見つかった。増水した川で足を滑らせて溺れたのだろうということだ。この河川敷はたまに散歩していた場所だった。いつもと違う光景に興味を示してしまったのだろうか。今となってはわからないし、知ったところで、大切な娘を失った事実は変わらない。  

よろよろとした足取りで佳菜子の肩を抱きしめる。小刻みに震える佳菜子とは対照的に、倫也は生気のない瞳でぼーっとその光景を眺めていた。

もう二度と、あの小さな手を握ることも、大好きなアニメの歌を一緒に歌うことも、寝顔を見て一日の疲れを癒してもらうこともできない。あぁ、そういえば誕生日のために買ったプレゼントはどうしよう。いつかおいしいご飯を作ってパパとママに食べてもらうからその練習に、とねだられて買ったおままごとセット。きっと渡したらよろこんでくれただろうな。どんな料理を作ろうとしていたんだろう。まだ箱から出してないけど、返品はできるんだろうか——。今考えるべきことではないことさえ、頭の中に浮かんでくる。


「ああああああ!」


担架に乗せられ、救急隊員に運ばれていく千夏を見ながら、倫也は大きく叫んだ。それをあざ笑うかのように、雨は一層、その強さを増し、声をかき消していった。

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