05


 季節は晩春にさしかかり、二月の終わりが近づくにつれ、ニキアスの忙しさは尋常ではないほど増しているようだ。

 自尊心の高い彼のこと、周囲には疲れた顔を見せることもなく、表面上は普段通り働いているようにしか見えない。


 しかし、数日前に顔を合わせたときの様子から、アルシノエはニキアスが多少の心労を抱えていることに気がついていた。

 アルシノエの前では取り繕った態度をとらないニキアスだが、常に飄々ひょうひょうとしている幼馴染のくたびれた姿はアルシノエにとっても珍しいものであった。


 神殿内では遠征についての情報が噂話のていでちらほらと囁かれはじめていた。

 といっても、噂のたぐいには疎いはずのアルシノエの耳にも届いている時点で、かなり話が広まっているのは明らかだ。


 そのせいか、絶えぬ灯火の家ヒュペルファロスにはここ最近、どことなく高揚した雰囲気が漂っている。



「城壁さま、ご存知ですか?」


 その日の出陣を終えたあと。報告のために神殿へ赴いたところで、アルシノエは数人の武官たちに話しかけられた。

 位階は五位から四位。年頃としてはアルシノエと同じくらいの、けれど直接的な面識はない武官たちである。


「なにを、でしょうか?」


 アルシノエは首を傾げて彼らを見た。武官たちは一様に目を輝かせて言う。


光芒こうぼうさまが一位に御成りになるそうなのです!」

「つい一昨年に二位へ昇格なさったばかりだというのに、もう一位さまだなんて」

「さすが光芒さまです。神殿長も信頼なさっているのですね」

「私たちもびっくりしてしまって! 城壁さまはこのことはご存じありませんでしたか?」

「いえ、以前に少し、聞いたことはありますが……」


 ああ、あの話が出回りはじめたのか。

 アルシノエは幼馴染と胡桃の菓子を食べたときのことを思いだした。彼らの勢いに若干腰が引けそうになりつつ答えると、武官たちは楽しそうに声をあげた。


「もしかして、ご本人からお話を?」

「はい」


 アルシノエの頷きに武官たちの目が輝く。

〝アルシノエがニキアス本人から昇進について聞いた〟という話がなぜそんなに楽しいのか。

 アルシノエにはまったく想像もつかなかったが、賑やかな彼らに水を差してしまうのも申し訳なくてアルシノエは黙って微笑んだ。




「──光芒さま、おめでとうございます」


 神殿での事務処理の最中さなか、書類を持ってきた下位神官に唐突に祝いを述べられ、ニキアスは文字を追っていた視線を彼の方へ向けた。


 ニキアスに青い目を向けられた下位神官はわずかに頬を紅潮させた。肩に力が入っている。緊張した様子の下位神官はそれでも明るい声色で言った。


「あの、神殿長からサフランの帯を頂いたと、先輩から伺いました。本当に、おめでとうございます」

「ああ、ありがとう」


 今日だけでも両手の指を使い尽くすほど繰り返された祝いの言葉に、ニキアスは微笑みを浮かべてみせた。


「だが、まだ正式に昇進したわけではないんだ。きみは耳が早いな」

「そ、そうなのですか? 申し訳ございません。先走ってしまって……」

「いや、気にしないでくれ。わざわざ声をかけてくれてありがとう。こちらの書類は確認が済んだから、次へ回してもらえるか?」

「かしこまりました。光芒さま、正式に一位になられた際には、もう一度お祝い申し上げさせてください」


 重ねて頭を下げる下位神官に、ニキアスは仕方ないなというふうに苦笑した。神官が失礼いたしましたと退室するのを見届けて卓上の茶器へと手を伸ばす。


「はぁ……」


 ぬるくなった万年露マンネンロウの茶を飲みながら、ニキアスは半ピーヒスもの厚さで積まれた書類の束を眺める。これらは八割型が巣への遠征に関するものだ。


 遠征の準備は問題なく進んでいる。

 百年以上行われていなかったことだけに資料はあまり多くなかったが、あちこちに遣いを出し、あるいはニキアス自ら赴いて相談し、計画を立て、手筈を整えた。


 被害を最小限に抑えて帰還する段取りについては、これでいい。


 ニキアスは今回の遠征について、そうそう簡単に手柄を上げられるものだとは考えていなかった。

 なにしろ前回の成果が全滅である。無事に行って帰ってくるだけでも大成功の部類であろう。大きな実績を望む者もいるだろうが、まずは情報を持ち帰ることを優先したい。


 やみ蜥蜴とかげとはいったいなんなのか。

 どのようにして生まれ、どのようにして育ち、どのような理由で人間と敵対するのか。

 あるいはそういった疑問が解決すれば……。人類は、闇蜥蜴の脅威から完全に逃れることができるようになるのかもしれない。




「──それでは。神官ニキアス・ガラニス二位、こちらへ」


 絶えぬ灯火の家ヒュペルファロス神殿の最も高い区画。

 太陽が最も高く昇る時間に、ニキアスは帯与の儀式を受けていた。


 ここは神殿の最上階──よりもまた一段上に存在する、屋上祭壇だ。

 名前の通りに屋根の上へと造られ、供物を捧げるための大理石の台座が中央に据えられている。

 屋上祭壇は南一区の中央祭祀場に次いで格の高い場だ。少なくとも一位の官でなければ儀式を主催することはできない。


 鏡のように日差しを反射するほど磨き上げられた台座には葡萄酒や蜂蜜、果物や菓子といった食物の他にも、布地や香木が捧げられていた。


 その台座を背にして立つ神殿長カルカスは、己の正面で静かにたたずむ青年ニキアスを見やった。

 この場にいるのはたった三人。

 カルカスとニキアス、そして見届け役の一位神官マカオンだ。マカオンもまた一言も発さず黙って祭壇の端へ控えている。


 この儀式の主役、サフランの帯を与えられるニキアスは、金のまつを伏せて神妙にしている。

 綺麗に晴れた空の下で、彼の髪は繊細な金細工のように輝いた。色帯をつけていない純白の法衣が昼の日光に照り映えてまばゆい。


「我らが故郷、太陽の沈む西の都イポミアにおいて、神々に加護を託されし絶えぬ灯火の家ヒュペルファロスおさ、カルカス・フロロースが承認する。光明矢とせし陽神フォイボスに恩寵を賜る加護持ち、ニキアス・ガラニスへ、我が権限をってサフランの帯を授け、一位のくらいへと任じる」


 神殿長が手に持った絹の帯を天に向けて掲げ持ち、決まった文句を唱える。

 手順に従い歩み寄ったニキアスに手ずから帯を結びつけた神殿長は一歩離れてにこりと微笑んだ。


「ニキアス。これで君は今日から一位神官だ。史上最年少での一位任命、おめでとう」


 祝福の言葉を受けて、ニキアスが穏やかに返す。


「ありがとうございます。……しかし、カルカスさまがお決めになったことではありませんか」

「私は実力のない人間を不相応な地位につけたりはしないよ。まずは今回の遠征、期待しているからね、ニキアス」

「かしこまりました。ご期待に添えるよう努めます」


 ニキアスはいつも通り、美しく整った微笑を浮かべた。

 老獪なカルカスにはこの手のごまかしは通用しないとニキアスも知っていたが、彼にとってこの表情はもはや染みついたしぐさであった。意識せずとも自然と浮かべてしまうのだ。

 じんも強ばった様子のないニキアスを見て、神殿長も安心したような息をついた。

 きっと自分の選択は間違ってはいないだろう、そう確信したかのような表情だった。




「ニキアス」


 書類仕事をいくつか片づけ、午後からの任務に備えて西門へ向かおうとしたニキアスの背に淡白な声がかかった。聞き知った声に足を止めて振り返る。


「──父さん」


 相手の顔を確認したニキアスは表情をゆるめる。


「どうしたんだ、勤務中に話しかけてくるなんて。何かあったのか?」


 そう返した先にいたのは中肉中背の壮年の男だった。

 かっちり撫でつけられた髪が白髪交じりの稲穂色で、その色彩はニキアスと揃いだ。文官の制服である濃灰色の長衣に、向日葵ひまわり色の帯を締めている。


「いや……そうではなくてな」


 ニキアスの父は少し逡巡しゅんじゅんしたあと、表情をぴくりとも動かさないままに言った。薄い青の目は真新しいサフラン色の帯に向けられている。


「今日から一位に昇進だったと思い出してな。……おめでとう」


 その生真面目で石のような雰囲気はニキアスにはあまり似ていない。

 世渡り上手というよりは、誠実さで地道に信頼を得ていく質の人柄なのだ。


「ああ、ありがとう。期待を裏切らないよう励まなくてはな」


 ぎこちない祝いの言葉にニキアスがにっこりと笑って返す。愛想の良い笑みは華やかで、そうするとますます父との共通点が薄らいだ。


「おまえがまさか、こうもはやく一位になるとは思っていなかった」


 ぽつりと言った父親にニキアスも苦笑して頷く。俺もだよと同意した声には緊張は窺えなかった。

 感心したような、心配しているようなまなざしの父親を見て、ニキアスは少し不思議な気持ちになった。

 自分はもう、このひとよりも上の地位になってしまったんだなと、思って。


 回廊の欄干に歩み寄ったニキアスは大きく開いた窓から街並みを見下ろす。神殿の周りには背の高い建物がないので、大通りの様子がよく見えた。

 今は晴天の真昼。通りには大勢の人々が行き交っている。


 それを眺めながら穏やかに振り向く。同じ碧眼であっても、息子のそれはずいぶん鮮やかな色だ、と実父は思った。

 普段はそんなことを気に留めることはないのに。


「でも、せっかくこうして取り立てていただいたんだ。やれるだけやってみるよ」


 欄干へ背中を預けたニキアスが綺麗に微笑んでみせた。


「──遠征も、あることだしな」 


 そう言ったニキアスが見上げた窓の外は。

 彼の瞳と同じ色の、雲一つない快晴だった。

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フォスフォロスの城壁 一刻ショウ @SyunSyou

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