春風のポップスター

東美桜

跨線橋越えりゃ桃源郷?

「ねえお兄様、『陸橋』って何ですの?」

「はぁ? 杏樹あんじゅ、お前そんなことも知らねえのか」

 アンティーク調の装飾がなされた机に手をつき、杏樹と呼ばれた少女は問うた。窓から吹き込む春風に、栗色のミディアムヘアとセーラー服の襟がなびく。長いまつ毛に彩られた瞳が映すのは、呆れたように頬杖をついている青年。染色で赤みがかった髪と、黒いパーカーのフードが春風に揺れる。彼はクルトガを指先で数度回し、杏樹に視線を投げた。

「陸橋ってのは、いくつか意味があるんだが……陸の上に作られた、線路や道路の上を渡るための橋のことを指すことが多いな。駅とかにある跨線橋こせんきょうをイメージしたらわかりやすいと思うぞ」

「なるほど……! なんとなくわかりました!」

 ポンと手を鳴らし、杏樹は円い瞳をさらに大きく見開いた。心なしか、その中にスポットライトのような光が宿っているようにさえ感じられる。しかし兄は赤みがかった髪を掻き、面倒そうに言い放った。

「つか、そんなことどうでもいいんだよ。仕事の邪魔すんじゃねえ」

「なっ!? 私だって塾の宿題が……!」

「そんなもん俺に聞かなくても二分で終わるだろ。勝手にやってろ」

「……そんな離れ業、できるのはお兄様だけですわよ……」

 唇を尖らせ、半目で兄を眺める杏樹。しかしそれをものともせず、兄は大学ノートに向き直った。片耳にだけイヤフォンを装着し、音楽を流しながら何かを呟きはじめる。


「……団子……A-N-O……」

「?」

「あんこ……違う。A-N-O。暖房、繁忙期……参謀……搬送?」

「……あの、お兄様、その……とうとう頭バグりましたの……?」

 まとまりのない単語を呟きはじめた兄に、杏樹は恐る恐る問いかける。対し、彼はシャーペンの芯先を指で折り、軽く弾いた。

「杏樹お前、良家の子女のくせに頭バグるとか言うんじゃねえ。家の品位が問われるだろ」

「自分のことを棚に上げないでくださいませ。お兄様……いえ、今はこう呼ぶべきかもしれませんわね」

 ふっと息を吐き、杏樹は背筋をすっと伸ばす。長いまつ毛を軽く伏せると、薄い唇を静かに開いた。

「……MC・ポップスター」


「はっ。好きにしろ」

 言い放ち、兄はノートにシャーペンを走らせる。その耳元には蛇を思わせる金のピアスが巻きつき、黒いパーカーにはステンドグラスのような装飾が施されていた。杏樹の兄……新進気鋭のヒップホップアーティスト「MC・ポップスター」は、何冊目かの作詞用ノートと改めて向き合う。曲のメロディを口ずさみながら、ラップ詞を模索していく。

「……それで、今日の仕事は何ですの?」

「新作団子のCMだと。桃風味で爽やかかつ斬新な味付けがポイントらしい。だからって何故ラップ詞を求めたのかは知らん」

「よくわからないお仕事ですわね……」

「後半のフレーズは一応できたんだが……最初がイマイチ詰まらないっつーか。普通に詰まってるわ……」

「お兄様が作詞で詰まるのはいつものことじゃないですの……」

 やれやれ、と肩をすくめ、杏樹は机の脇の本棚に近づいた。アメコミから源氏物語、太宰治に異世界転生チーレムラノベまで、並ぶ本には一貫性がない。腕を組んでしばし考えたのち、杏樹は陶潜とうせんの漢詩集を取り出した。桃花源記のページを流し読みしつつ、つとめて軽い調子で口を開く。


「……そういえば、桃源郷と跨線橋って、響き似てますわね」

「は?」

 弾かれたように顔を上げ、兄は円い瞳を見開いた。不思議そうに首をかしげる杏樹を見つめ、兄は何かを求めるように瞬きを繰り返す。漢詩集の表紙を穴が開くほど見つめたと思うと、片耳だけ外していたイヤフォンを掴み、耳に突き刺し……もう片方の手で握ったシャーペンを、勢いよく動かしはじめた。

「キた……やっと見えてキた! もっと軽快にリズミカルに、スパークリングワインみたいなイメージで……!」

 意味不明なことをのたまいながら、狂ったようにシャーペンを走らせる兄。ぴったりまる石を投げてあげると、いつも発生する化学反応。杏樹はそんな彼を眺め、降り注ぐ春の日差しのような笑顔を浮かべるのだった。



『跨線橋越えりゃ桃源郷? いやいや近くのプチストップ!』

 駅前の巨大ディスプレイから、聞き慣れた声が響き渡る。赤信号で足を止め、杏樹は大きなモニターを見上げた。十五秒のコマーシャル時間を目一杯使って、マイクを構えた姿が韻を刻んでゆく。

『白桃&求肥のフレーバー、試せば昨日の価値観シュレッダー!』

 耳元で蛇のピアスが光り、ステンドグラスのような装飾のパーカーがひらめく。赤みがかった髪が動きに合わせて揺れ、引き締まったな腕が炭酸ジュースのようなエフェクトを溢れさせる。

『ベストバリュが送り出す、アクロバットな白桃だんご!!』

 商品が大写しになるカットを挟み、彼が商品を口にする絵が映る。駅前の大画面に映し出された彼は、まるで瑞々しいフルーツのような笑顔を浮かべていた。自然体な「うまっ!」の一言さえも、MC・POPSTARとしての華やかさに溢れていて……杏樹の胸に宿る鼓動が、高らかなファンファーレのように響いた。

(……誇らしいですわ。お兄様)

 杏樹がいなければ、丁度いい石を投げなければ、あの曲が完成することはなかっただろう。少しだけ自惚うぬぼれつつ、ローファーの爪先でアスファルトを叩く。彼女の少し後ろで、どこかの女子高生が彼を呼んだ。人波の向こうで、信号が鮮やかな緑色に光る。

(帰りにコンビニで買ってみましょうか。あの美味しそうな、白桃だんごを)

 誰かの黄色い声を聞きながら、杏樹は交差点へと一歩を踏み出した。

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