38◆灰は灰に、塵は塵に
彼は心から信じているのだ。
名がその存在のすべてを定義できる。宿命を与えることができる。
だから己が名付けることで、全能の支配者となりうるのだと。
もちろんその理屈が破綻していることなど言うまでもないが、すでに正気を失って久しい者に向かって、今さら論を垂れても致しかたあるまい。
もうとうの昔からこの男は救えないし、心をかけてやる義理もない。
自らを『王』と称したところで何の権も得られはしない。
気に入った女に『妻』と名付けても、彼女は彼を愛したりしない。
人形と違って人間は名称では縛れない。彼らは自由に職業や住まいを変えられる。
なぜならその心臓は、機械仕掛けの真四角の箱などではないから。
そして、その箱によって生きるこの無機の生命体は。
人形は。
「私の
主人でもない者に塵だの芥だのと呼ばれても、何も揺らぎはしないのだ。
「……それが理解できないあなたは人形じゃない」
そこでぴたりとフォークスの哄笑が止まった。それで初めて、この男にもちゃんとストローの言葉が届いていたのだと気付く。
まるで配電が絶たれたように笑顔のまま硬直した怪物へ、藁人形はさらに続けた。
東方には言霊という言葉がある。人間は他者の言動に容易く絡めとられる生きものだから、声や言葉はいわば形のない呪具だ。
とくにストローの喉は呪術の発動器官を兼ねている。
この声は、彼の魂を裂く凶器となりうる。
「けれどもう人間でもないのなら、どっちつかずで曖昧な存在――だから自分で名前を付けたのではないの? 誰もあなたを定義しなかったから。
仮にあなたに適した客観的な名称があったとしても、私は知らないし、どうでもいい。あなたがどこの
今度こそフォークスの膝の関節を穿つ。狙いどおり隙間に釘を打ち込むと、それを足場にして軽々と飛び上がり、奴の上半身に組み付く。
振り落とされる直前、その形だけになった笑い顔の口許にも釘を突っ込んだ。からからに乾いたミイラのような喉の奥へ。
もう二度と戯言を吐けないように、その舌を固定してやったのだ。
マーガレットは邪魔しなかった。
相変わらず言葉もない。ただ一連の動作をフォークスの背後で見守っている。
彼女への怒りと憎悪が、ストローの内側で静かに鉛色の炎を噴いている。
やっぱりマーガレットは人形師で、これは彼女の筋書きどおりなのだということを、誰より理解できるのもストローだった。
そうなるように作られている。恐らくフォークスを確実に葬るため、そしてできうるかぎり呪殺の威力を高めるために、ストローは必ず一度彼女を憎まなくてはいけなかったのだろう。
つまり、――もう主の名を知る必要もない。
むしろ知らないほうがいい。教えてくれたりしたら、きっとマーガレットを許してしまうから。
そしてその感情は、この使命には必要ない。
仕込みは終わった。
あとは数歩下がってそれを手にするだけ。そう、ここに持ってきた
これが、ストローの最後の武器だ。
「……
呪禁の真言とともに、ストローはランタンを抱き締めた。
触れてもいないのに蓋が開いて、そこから炎が蛇のように躍り出る。灼熱の舌に舐られて藁人形はあっという間に燃え上がった。
何度もクワイエットに注意されたとおり、この身体はよく燃える。
そのために藁で作られているのだ。使い終わった呪具はそこに籠った昏い思念をあとに残さないよう、炎の浄化でもって処分せねばならない。
紅蓮に包まれたストローの視界は、すべてが黄金に染まっていた。
――人を呪わば穴二つ。初めから、すべての呪術は術者を蝕むことが決まっている。
誰かを痛めつけて自分だけ無傷でいられるはずがない。だから結果が重いものほどその反動を代理で受ける者が必要になるが、これを逆手にとって、自分自身の痛みを相手に同調させられる。
それにしても眼が硝子でよかった。安価なプラスチック製ではすぐに融けてしまうから、きっと最後まで見ることができないだろう。
ストローが燃えると同時に発火したフォークスの顔を。
同じく炎上したマーガレットに背後からしがみつかれて、ついに常人の世界に引き戻されて困惑している狂人の姿を。そうだ、その表情が見たかった。
「嘘だうそだうそだ私はわたしは、ふめ、不滅、の、王だぞ! 滅ばぬ者だ、滅ぶものか、ほろ、ッば、な――あ……あつい……ぁ……あぁぁ……な、ぜだ……ど、して……」
人工皮膚が焼けただれてその下の顔が露わになる。恐らくは薬品で無理やり形だけを留めていたそれも、炎は分け隔てなく焼き尽くす。
それは木製ではない。肉と骨と神経だ。どんなに身体を作り変えても、顔の下はまだ人間の形をしている。
首から下は歯車とワイヤーと木組みの骨格が、干からびた筋肉とぐちゃぐちゃに混ざっているのが、焼け落ちた胸板の下から覗いていた。
なにもかもが中途半端な紛い物。人間であることを捨てたのに、人形にもなりきれていない。
その無様で哀れな姿を眺めることこそが、ストローの本懐だ。
何しろフォークス自身が、己のその姿にこんなにも絶望しているのだから。
その場に膝を衝いたのは脚が燃えたからではないだろう。金属で補強されていて、ストローたちよりよほど頑丈なはずなのだから。
「ああ、あ、す、
マーガレットは黙ったまま、燃えながらそんな彼を見下ろしている。
彼女は今は、穏やかな笑みを浮かべているようにも見えた。炎のちらつきが見せた幻かもしれないけれど、ストローには、マーガレットが満足そうな顔をしているような気がしてならなかった。
彼女はようやく証明したのだ。彼に誓った愛などまやかしであり、専属の人形師になどならなかったことを。
名を押し付けただけの『妻』の心は一度だって『王』に寄り添いなどしなかったのだという事実を。
だから六十年も待ち続けた――裏切りの絶望が深ければ深いほど、よりこの炎は大きく膨らみ、激しく燃え盛って奴を滅ぼすのだから。
「ぁ……ぼくは……ただ……にんぎょ……に……なりた……か……っ……」
人形には墓穴や棺は要らない。ただ火があればそれでいい。
すべて焼けて燃え尽きてしまえばいい。
ああ、遠くから叫ぶような声が聞こえる。クワイエットやラブリー・パペット、それに……よかった、あれはテディの声だ。
建物が崩れる音がする。人形の材料には木材や油脂を含むものが多いから、何かに引火したらしく小さな爆発も起きている。
クワイエットたちが無事に逃げ出せることを祈ろう。
そしてパンチ通りに帰れたら、リチャードに伝えてほしい。ストロー・ガールは使命をやり遂げたと。
――その代わり彼との約束は守れないけれど。
「ごめんなさい、ディック……」
こうするしかない。いや、こうするのがいちばんいい。
なぜなら自分の名前は『藁人形』だから。初めから、誰かに愛されるための存在などではないのだ。
崩れた天井が降ってくる。ストローはそれを浴びながら一緒に床へと沈んだ。
近くにマーガレットの腕が転がっていて、まるでそれが自分に向けて伸ばされているようだったので、ストローももはや動かぬ身体を無理やり引きずってそこに頬を寄せる。
炎に包まれた状況で言うのもおかしな話だけれど、とても温かかった。
いや、きっと、今のストローを包むのは呪炎だけではない。
呪術が――つまり人の気力や感情が他者に何らかの物理的な影響を及ぼすことが、現実に起こりうるのだから、その根源はきっと魂なるものであるはずだ。そういうものが存在すると信じてもいいだろう。
熱風に煽られてか、マーガレットの腕がかすかに動いた。
そのとき聞いた気がする。彼女と、それから知らない男の人の声が、チャーリー、と自分を呼んだのを。
妄想か、壊れる間際の
心地よい夢想に焙られながら、眼を閉じた。
燃えろ。燃えろ。
灰は灰に、塵は塵に。人形もどきは人間に。
役目を果たした藁人形もまた、灰塵となるべきなのだ。これでやっと終わりにできる。
――そうよね、マーガレット。
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