37◆真実は程遠い

 あくまで脚を狙うのは変えないが、脛や腿は金属で補強されていて歯が立たないことはもう充分わかった。

 だから今度は関節だ。可動部分はどうあっても完全に覆うことはできないのだから、必ずその動きを邪魔しないように隙間があるはず。


 ストローは姿勢を低くして、フォークスの膝の裏に狙いを定めた。五寸釘の爪アイアンクローを握る拳にぐっと力を込めて叩き込む。


 めり、とたしかに小気味いい音がした。


 けれど目の前にあるのは同じ穴だらけの衣類でも、高級仕立ての羊毛のスーツではなく色褪せた綿のレース生地だ。男物ではない。

 気づいた瞬間はっと飛び退いたけれど、もう遅かった。

 フォークスを庇うように立ち塞がるその人物は他ならぬマーガレットで、ぼろぼろのドレスに真新しい穴が空いている。音からしてその下の脚にも間違いなく届いてしまった。


 ――主人を傷つけてしまった。

 理解したとたん電熱機関の稼働率が愕然と下がる。思考回路の速度も落ちる。


「あ……ぁ……どう、して……」


 焦点を間違えるはずもない。マーガレットのほうが割り込んできた。

 さっきまでフォークスに反逆していた彼女が、どうしてまた敵方のために我が身を犠牲にするのだ。

 それともやはりその心は死にきってはいないだけで、息を吹き返したわけでもないのだろうか。この男に植え付けられた役割からは逃れられないのか。


『人形には名前があるんだ』


 マーガレットは虚ろな瞳のまま答えない。


『どんな人形にも必ず役割を示した名がある。私が思うに、それこそが人に足りないところではないかね?』


 彼女を見つめている間、奴の言葉が何度も頭の中で反響している。

 そのとおりだ。人形たちはその名に縛られる。エニグマレルに記されているから、起動しうまれたときから己の名前を知っている。


 そんなことは自分たちがいちばんよく知っている。


『……人形あたしたちは、他の生きかたなんて選べないのよ』


 そして己には、藁人形の名を与えられた。

 その瞬間から呪具だった。それ以外の道など与えられなかったし、探すことすら許されない。


『ここでお別れよ。さようなら、ストロー……』


 なのにマーガレットはその役目を完うさせずに捨てた。

 理由も何も言わずに立ち去った。あのときどんなに拒まれても追いかければよかったのかもしれないけれど、エニグマレルが、ひいてはマーガレットの意思がそれを許さなかったのだ。


 今はフォークスこそが本来の目的だとわかっている。この男を滅ぼすことだけが己の存在意義なのだと。

 だとして、なぜマーガレットはストローをあの裏通りの魔女の家に遺して、自分はフォークスの手に落ちてしまったのだろう。

 これではフォークスを殺せない。彼女自身が障害だ。


 マーガレットが、……邪魔をする。


「退いて……そいつの前に立たないで……」


 身体に力が入らない。彼女を傷つけることは、絶対にできない。

 なぜ、どうして、妨害する。殺せと命じておきながら間に割り込んでくる。破壊のための道具として作っておきながら、標的から遠ざける。

 なぜ――なぜ捨てた。


 どうして捨てた。

 なんで。

 ――ひどい。悲しかった。苦しかった。ずっとずっと寂しかった。


 恨めしかった――……。


 かちり、と身体の奥で音がする。何かの歯車が噛み合って回り始める。

 かちかちかちかちりかたん、かたかた、かたんかたん。

 悲しい辛い苦しい悲しい痛い寂しい哀しい虚しい悲しい遣る瀬ない恨めしい。ざらざらに渇いた感情が泉のように心臓の底から溢れ出る。


『一緒に、戦ってくれるわね。あの人の代わりに……』


 嗚呼。この恨み晴らさでおくべきか。

 なぜならあなたは、


「……退いてと、言っているでしょう……邪魔をしないで」


 ――あなたは……ほんとうの主ではない。


 引鉄を引かれたというべきか、覆いが外れたと表するべきか。

 ともかくその瞬間、ストローの思考回路を縛っていた何かが動いた。その手前で堰き止められていた情報が流れ込んでくる。

 そうしてはっきりと、理解した。


 ほんとうは、自分を手に取るべきだった人はマーガレットではなかった。

 彼女は職人として依頼されただけ。けれど依頼主の手に渡ることなく、またその人の意思に拠らないで、呪殺の道具として作り替えられてしまった。


 ストローをこんな身体にしたのは誰?

 こんな名前を押しつけて、そのうえ放り投げたのは?

 挙げ句に今こうして邪魔をするのは?


「ぜんぶ……あなたのせい……マーガレット、あなたが、――あなたが憎い」


 やっとわかった。

 自分は、マーガレットを呪い殺すための人形として作られたのだ。


 名前も顔も知らない真の主人を裏切った女。彼を死なせた男の許に身を寄せ、甥を捨てて人形の妻に成り下がったこの女に。

 変えようがない呪いのような人生をストローに与えながら六十年も放置していた無責任な人形師に。


 あまつさえ。せめてその嘘を貫いてくれればよかったものを、ここへきてチャーリーの名で呼んだ。

 何度も、何度も。

 そうしてストローが手に入れられなかった本来の存在意義を嘲笑った。


「私は今さらその子にはなれない。あなたが藁人形として作り替えてしまったから……なのに、なのにあなたは私を何だと思っているの? この六十年間あなたを忘れることも、別の人形になることもできなかった私のことを、マーガレット……!」


 もう躊躇いはなかった。

 憤怒を握り込んだ拳をマーガレットの腹に叩き込む。そこには一切なんの装甲も施されてはいないようで、ばきばきと耳障りな音を立てて五寸釘を飲み込んだ。その感触は、たしかに人間のそれだった。

 突き刺さったそれをそのまま真上へと振り上げれば、縦一直線に惨たらしい裂傷が走る。

 続けざまに別の五寸釘を数本取り出し、傷口に突き立てた。それを蹴り飛ばしてもっと奥へ刺し込ませる。


 ストローに感情的な暴行を受け、傷だらけになりながら埃まみれの床を転がる間も、マーガレットは少しも表情を変えなかった。一言も発しなかった。

 弁明ひとつ述べない裏切り者に、ストローは詰め寄る。


 似合わない悪趣味なネックレスがぎらつく襟首を掴んで、人形は囁くように言った。


「もういつでもあなたを殺せる。けれどその前に聞きたいことがあるの……私の、ほんとうの主は誰?」


 自分はいったい誰の許で、何をするはずの人形だったのか、それを知るまではマーガレットを殺すわけにはいかない。このままでは終われない。

 だってそうだろう。

 あの『チャーリー』という名はただの人名で、なにか職業や道具を表すものではない。名前を呼ばれただけでは何をすればいいかわからない。


 マーガレットの呪縛から逃れたとしても、その先の行き場がなければ意味がない。

 所詮、人形だ。そういう存在なのだ。誰かに決めてもらわなければどこにも行けない。


 そしてそんな人形の一生を決定できるのは、宿命エニグマレルを与える人形師だけなのだから。


 マーガレットは虚ろな硝子玉の瞳でぼんやりとストローを見上げながら、わずかにそのくちびるを震わせた。けれど、彼女が答えを口にするのを阻むように、ここへきてまたしても邪魔が入る。

 今度はそう、さっきと逆でフォークスが割り込んできた。


 けれど彼は我が身を犠牲にするようなことはしない。懐から杖を取り出してストローをそれで殴ったのだ。

 マーガレットのほうに集中しすぎていて避けられず、ストローは左肩で殴打を受けた。軽い身体を吹き飛ばされながら芯棒の折れる音を聞き、残った右腕だけでなんとか着地したものの、フォークスがさらに追ってくる。


「灰は灰へ還り、人形は塵と化すべし! 永遠の名を冠せぬ者には皆等しく滅びの運命が待っている!」


 振り下ろされた一撃をすんでのところで避けるが、間髪入れずに追撃が続いた。


「私は名前を与えたぞ、おまえに名前を付けたんだ! 塵芥娘ダスト・ガールと……おまえはここで朽ちて埃に混じる宿命だと名付けた!

 誰も名前には逆らえない。誰も、誰も、誰も!」

「……ッ、では、彼にも名前を?」


 攻撃をかわし続けながら、おもむろに問う。狂人の耳には届かないかもしれないが。


「あなたのことだから、そのまま『死』とでも名付けたの?」

「し? ……――おお我が友、麗しき受難の使者の懐かしい名か。そうさ、そうとも、忘れもしない僕らの仲人にして愛しあう夫婦を脅かした罪人の名だ」

「だから殺した?」

「僕らの永遠の国への入門を拒んだ。彼にその権利はないからさ。あははははっ」


 会話とも呼べないような歪な問答ののち、フォークスは笑った。

 子どものように無邪気に。高らかに。朗らかに。


 笑えば笑うほど、口角を上げるほどに、経年で劣化した頬の人工皮膚が剥がれ落ちていった。



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