10◇彼女の名前は藁人形

 この前は帰ってしまってごめんなさい。急なことで、とても驚いたものだから。

 それで……あれから、自分なりに考えてみたの。


 私は無力。弱くて貧しくて、ローンソンを失った今、とてもひとりでは生きられない。

 あなたのような立派な人が手を差し伸べてくださるなら、それは喜ぶべきことなのだと理解したわ。

 従って求愛を受け入れます。どうか私をあなたの部下でも妻でも、望むようにしてください。


 新しい生活の前に、女にはいろいろ準備があるの。だからもう少し待っていただけるかしら。

 次の新月の夜、伺います。あなたの花嫁として。


 ――マーガレット・ホームズ




 ・・・・*




 やれるだけのことはすべてやった。


 マーガレットの手元には、かつてシャーロットだった人形がある。

 木製の外殻はすべて取り外し、代わりにより燃えやすい麻藁を、肉の代わりに巻き付けた。その芯地には自らの手で呪詛を記した紐を使っている。

 魔女バーバラとその仲間から学び受けた呪術をすべて何らかの形で活用し、身体の構成物から心臓エニグマレルの記述に至るまで、人形は全身がくまなく怨敵呪殺のための道具となり果てている。


 胸が痛まないわけではない。けれど、それよりもっと大きな苦痛がマーガレットの良心を先に殺してしまった。

 まだ塞がらない生乾きの傷口から、じわじわと溢れ続けている怨嗟の血が。


「こりゃあ見事だ。アタシに譲ってもらいたいくらいだねぇ」

「……ちょうどよかった、それならこの子の世話をしばらく頼めるかしら。私はひと足先に向こうへ行かなくてはいけないから」

「ああ、いいとも。……ところで甥っ子はどうしたえ。あの子はパンチ通りに置き去りかい」

「そうなるわね……」


 元シャーロットの髪をふたつに結わえながら、マーガレットはリチャードの顔を思い浮かべた。

 あてになるかどうかは置いておいて、思いつくすべての相手に連絡をしてある。自分がいなくなったあと甥の面倒を見てもらえないか、と。

 むろんマーガレットのわずかな蓄えもすべてあの家に、リチャードへの書置きとともに残してきた。


 彼を守るためにはこうするしかない。

 マーガレットが手に入らなければ、フォークスは必ず彼を手にかける。アーサーにしたように、何の躊躇いも罪の意識もなく、残虐な方法で。


 ――人を呪わば穴二つ。この手段を選んだ時点で、自分も一緒に墓穴に転がり落ちることは決まっている。


「悪魔というのは何かを失くした者を好むんだ。心に空いた穴に棲みつくのさ。そのフォークスとかいう怪物もきっと何かでっかい穴を拵えて、そこに悪魔が憑りついたんだろうよ」

「ええ、そうね。だからこそただ殺すだけでは意味がないわ」


 頷きを返しながら、シャーロットの髪にリボンを結び終えた。

 この数週間ですっかり呪術に傾倒してしまったが、マーガレットは非科学的なことを頭から信じているわけではない。


 ただ考えてきた。アーサーを惨たらしい死に追いやったあの化け物をどう葬ってやるかを。

 ひいてはこの絶望と心痛を、同じ重さであいつに思い知らせてやりたかった。


 フォークスの側にどんな事情があったかはわからない。人形になることを望むようになった原因が何だったのかなんて、正直いって知りたくもない。

 けれども確かなのは彼がもう正常ではなく、直に恨みつらみをぶちまけたところでまともに受け止めるはずがないということだけだ。

 そして魔女曰く、呪いがもっとも効果的に働くのは、相手が『自分は呪われている』と理解した瞬間なのだという。こちらの怨恨の強さではなく、向こうが感じる恐怖の深さが肝要なのだ。


 それなら同じ土俵に上がってやろうじゃないか。正気のままで狂人の花嫁にだってなってやる。

 彼に受け皿がないのなら、自分がその代わりになる。


 次第に窓の外が暗くなっていく。今日は太陽が沈んでも、月は出ない。

 約束していた新月の夜が来た。

 マーガレットはそれを確かめてから、シャーロットの腹部を開いた。


 エニグマレルはもう入っているけれど、今は導線は繋がれていない。

 すでに何度も起動はしていた。ただし、それはいつでもパンチ通りの家にある工房の中でだけだ。

 このジュディ通りの魔女の家に連れてくるときは、いつも配線を外して意識のない状態にしてから運ぶ。


 そうしなければいけないのだ。あの家がどこかなんて、この子は知らなくていい。

 帰り道を覚えさせてはいけない。


 それも今日が最後だ。今夜を限りにシャーロットの意識が途切れることはない。

 本来この作業をするべきだった手はここにないけれど、マーガレットの眼には自分のそれより一回り大きな影が見えたような気がした。


 ――これからどこへ行って何をしても、私が愛しているのはあなた。

 だから見届けて。そしてもし挫けそうになったら、そのときは助けてちょうだい。


「……おはよう、麻藁娘ストロー・ガール


 呼びかけに応じるように、ゆっくりと少女は瞬きをした。


「マーガレット……ここは、どこ?」


 彼女をシャーロットとは呼ばない。これほど何もかも作り替えてしまっては、もはやシャーロットではない。

 顔は、頭部だけはアーサーとふたりで作った彼女のままだけれど、それ以外のすべてが別物になってしまった――マーガレットがこの手で捻じ曲げてしまった。

 だから相応しい呼称を与えた。その正体をそのまま現した名前を。


 どうか……どうか恨んでほしい。

 こんな宿命をその小さな身体に押し付けようとしている、この身勝手な女人形師のことを。


「ストロー。それは大した問題ではないわ。ここがどこかなんてどうだっていい」


 本来の主のことをひとつも教えず、嘘で塗り固めた時間をこれから与えようとしている、この非道なマーガレットのことを。


 恨んでほしい。憎んでほしい。

 彼女が自分を怨んで、それでやっとすべてが完成する。

 誰のためにでもなく彼女自身のために。呪術には、それを行う当人の怒りと憎悪を込めなければいけない。


 だから、マーガレットの持ちうる憎しみと憤怒はもうすでに彼女に持たせておいた。


「ここでお別れよ」

「……え?」

「さようなら、ストロー」


 背を向ける。後ろでストロー・ガールが、いや、シャーロットが狼狽しているのが聞こえても、決して振り向いてはいけない。心を冷たく凍らせて、動じないふりをしなければ。

 呼び止める声も名前を叫ばれているのもすべて無視して、歩き続ける。


「待って、マーガレット、どういうこと? 私はこれからどうしたらいいの?」


 振り向いては、いけないのだ。涙に気付かれてしまうから。


「ねえ、ここはどこ? ディックはどうしたの? あなたはどこへ行くの? ……私は一緒に行ってはいけないの?」

「……」

「マーガレット!」


 すがるように肘に触れた手を、叩くようにして振り払う。

 あとは魔女に任せた。


 マーガレットは何も言わずに歩き続ける。

 まっすぐに、地獄グラン・ギニョールへ続くその道を。悪魔の花嫁になるために。


 そこでシャーロットが現れるのを待つ。今すぐには追って来なくても、いつか必ず彼女はここにやってくることになる。

 何年後、もしくは何十年後だろうとも、最後は必ずそうなるようにエニグマレルに記されている。

 人形は人形師の描いた脚本シナリオからは逃れられない。



 ・・・・×



 老いた魔女は数年後に死んだ。いくつかの貴重品が持ち去られたあと、バーバラの家は空き家になった。

 残された藁人形はひとり、その軒先に立ち続ける。


 何かが足りない。マーガレットを探したくても行先がわからない。

 何かが足りない。主の代わりに現れた人間たちのために、顔も知らぬ相手を何人も呪い殺したけれど、役目を果たしたという実感がない。

 何かが足りない。……何が足りないのかわからない。


 とにかくここから先に進むためには、何かが、決定的に足りないのだ。

 大事なことがあるはずなのに。やらなければいけない、大切な使命があったはずなのに。


 ――私の名前は藁人形。それが意味するのは仇を呪い殺すための道具。


 でも、それは誰?

 どうしてマーガレットは自分を使わずに捨てた?


 わからないまま何十年も経った。


 雨風と工場からの排気ガスに晒され続けたストローはすっかり薄汚くなった。けれど何もかもがどうでもよかった。

 自分が何のために存在しているのか。つまり何をすれば虚しい人生を終わりにできるのか、知りたいのはそれだけだ。


 そんなとき、彼女が現れた。


「……あんたが噂の藁人形? 思ってたのとなんか違うわね」


 旅行者風の、大きな鞄を手にした少女だった。これまで依頼人は成人ばかりだったし、それ以外の者が訪ねてくることなどなかったので、ストローはその若い外見を少し珍しく思った。

 よく手入れされた艶やかな黒髪と、若葉色の瞳が美しい。

 ただその外見的特徴からすると、マーガレットの縁者である可能性は低い。その点については正直がっかりした。


「あなたは誰?」

「このあたしを知らないですって? ……ま、こんな生活してたら当然ね。

 あたしは静黙の淑女レディ・クワイエット、世間じゃ相当名の知れた腹話術人形なのよ。今は訳あって放浪の身フリーだけどね」

「……人形の依頼人は初めて。それで……誰を殺せばいい?」


 クワイエットはちょっと面食らうような顔をして、それから言った。


「そうね、まずその顔の真っ黒いのをどうにかしてほしいわ。それから服!」



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