9◇死<パッション>
案内されたのは見学時には連れて行かれなかった部屋だった。だだっ広い空間の真ん中にやたら豪奢な三人掛けのソファーがあり、その真ん中にフォークスがゆったりと腰かけている。
彼の背後にはビロードのカーテンが美しく波打ち、左右に配された優美な燭台の明かりを反射してきらめいていた。
しかし、それ以外は何もない。
床は一面つるりと磨き上げられた板材が広がっていて、ソファーと一対の背の高い燭台のほかには一切の調度品がない、生活感どころか事務的な雰囲気すら欠けた空間だった。
フォークスはマーガレットを見るなり立ち上がって、よく来たねとにっこり微笑む。
その顔に傷はもうない。
「来てくれると思ったよ。なかなか粋な手紙でしょう? あなた以外には意味がわからない、けれどあなたは絶対に無視できないおまけ付きだ」
「……やっぱりあれはアーサーのカフスなのね。彼はどこなの? いるんでしょう?」
「もちろん。いろいろ考えてみたんだけど、恋敵である前に、僕らを引き合わせてくれたのは彼なんだから。
妙な言動をマーガレットが問いただすより先に、フォークスはカーテンの脇に垂れていた紐を引いた。
しゅるしゅると幕が引いていく。まるでここで今から人形劇でも始まるかのように。
けれどそこにあったのは――観客を待っていたものは。
「ッ……」
だらりと垂れ下がった両足。塑像のように固まった胴。拡げられた上着の裾は端をピンで留められていて、その姿はさながら蝶の標本。
原罪を負った神の子のように広げられた両腕もまた、釘と縄で固定されている。
項垂れた表情は見えない。ダークブロンドの髪はすっかり濡れて、ぽたぽたとひっきりなしに雫が落ち続けていた。
声が、出せない。後ずさることすらできなかった。なぜなら、なぜならそれはもう、
「……ぁ……あ……あ……」
それは間違いなくアーサー・ローンソンだった。
けれどいつもきっちり閉じていたシャツの前が今はすっかり開いていて、そこから中身が
どう見ても死んでいる。アーサーはもう、生きてはいない。
こんな状態で生きているはずがない。胴を裂かれ骨を開かれ臓物が晒されて、ああ、しかもよく見れば手足も一度切断されてから金具で繋げられている。
まるで製造中の人形のような恰好で、中途半端に解体された死体がぶら下がっている――。
「い……いやぁぁぁぁあああああああッ!」
どこからともなく女の絶叫が聞こえた。マーガレットは最初、それが自分の声だとは気づかなかった。
フォークスが近づいてきて手を延ばしたのを渾身の力で振り払う。
この男がやったのか。この人間、いや、人形が。
異常だとは思っていたがまさかここまでするとは考えてもみなかった。考えたくなかった。そんなことが人間や人形の所業としてありうるだなどとは思いたくなかった。
けれどいくら否定の言葉を並べても、目の前に広がった凄惨な現実からは逃れられない。
「マーガレット、式を挙げよう。僕らの恩人の前で愛を誓おう。そして戴冠してここに僕らの王国が築かれる」
「近寄らないで! こ、この、ひ……人殺し……!」
「大丈夫だよ、僕らの国ではこれは罪には当たらないんだ。ほんとうはきちんと解体して人形に生まれ変わってもらうんだけど、やっぱりこの男があなたの傍をうろつくのは嫌だなぁと思ってさ」
「やめて喋らないで! 近寄らないで! 触らないで! あ……ああ……アーサー……あぁぁぁ……ッ」
返事などあるはずがないけれど名前を呼ばずにはいられなかった。
そしてそのたび、耳をつんざくような冷たい沈黙だけが何度も返される。それがなおさらにマーガレットを嘲笑う。
目の前が真っ暗になった。
そのあとどうしたのか、記憶がない。
恐らく燭台を掴んで振り回したりして、どうにかマーガレットはその場から逃げられたのだと思う。
気づけば馬車に揺られていた。降りるとき、御者になにか心配されたように思うが、ろくに返事もしないままよろよろと門扉に向かう。
ようやく帰り着いた家では、リチャードが何か恐ろしいものでも見たような顔で出迎えた。
どこに行ってたの、何かあったの――控えめな口調でそう尋ねられても、マーガレットはただ甥を抱き締めるしかなかった。
誰か、嘘だと言ってくれたらいいのに。すべては質の悪い冗談で、あの死体はよくできた作りもので、アーサーは明日になれば何食わぬ顔で帰ってくるのだと。
マーガレットを驚かせるための、いささか悪趣味でやりすぎな悪戯だったのだと……。
その夜、とてもではないが眠れなかったマーガレットは、ひとり月明りの差し込む工房で呆然としていた。
目の前にはシャーロットがいる。まだエニグマレルを入れていないから、彼女は動かない。
我ながら完璧な出来栄えだ。アーサーに早く会わせてあげたかった。
けれどもうシャーロット人形が請負うはずだった痛みはこの世に存在しない。その持ち主ごと惨たらしく奪われてしまった。
マーガレットが手にするはずだった幸せな未来も。
恋しい人と、愛する甥と、かわいい
月光にさらされた少女を見つめ、マーガレットはひとり涙を流す。
何時間くらいそうしていただろう。永遠のように長かったのに、それでもマーガレットが再び立ち上がったときには、まだ陽は昇っていなかった。
窓辺にはナイフのように尖った月が、冷たい光を垂れ流している。
「……ディックが危ない……」
気付けばそう呟いていた。
これからのことを考えなければいけなかった。アーサー亡き今、マーガレットには頼れる相手などほぼいないと言っていい。
もともと生まれ育ちはこの街で、外部に親戚などいない。いたとして数十年単位で連絡を取っていない。それほど疎遠な相手をあてには、ましてやこの異常事態に巻き込むわけにはいかないだろう。
そのうえ相手は社会的に高い信頼を持つうえ、経済的にも余裕のあるいち企業の社長である。それがまともな神経をしていないのだから、どこへどう逃げたとしてもきっと見つけられる。
警察も、きっと無駄だろう。ただでさえマーガレットの話は信じてもらえない。
アーサーの死体を見せるにしても、フォークスにはあれを片づける時間と場所がたっぷりある。社屋は人気のない森の奥だ。
そしてこのままマーガレットが彼を拒み続けたら、次に狙われるのは甥のリチャードをおいて他にいない。
でも、アーサーを殺した男の許になど、大人しく行きたくない。
それにマーガレットがいなくなったらリチャードとシャーロットはどうなる。子どもと人形だけで生きていけるほど易しい世ではない。
「……フォークスを殺すしかない」
それは、正しい方法ではないかもしれない。マーガレット自身、あんなものを見せられて、もはや正気とは言えないかもしれない。
狂ったような月光に照らされたマーガレットの影には、くっきりと殺意の形が浮かんでいた。
相手は人形。人を殺すようには殺せない。殺すと同時に壊さねばならない。
マーガレットは、目前のシャーロットの頬を撫でた。
「……チャーリー……一緒に戦ってちょうだい……あなたにしか頼めない」
ここには他に人形はない。作ったものはすべて依頼主に渡している。
シャーロットだけが主を失ってここにいる。だからこれは、彼女にとっても敵討ち。そして、新しいきょうだいになるはずだった男の子を、護るための戦いでもある。
――私は人形師。人形を作る女。
ならば私の戦いは、人形殺しの人形を作ること。
昼間でも薄暗く、黴と埃に覆われた不気味なジュディ通りには、年老いた魔女が住んでいる。
邸の外観はただのぼろ家だったが、一歩中に踏み入ればそこらじゅうに怪しげな呪術の道具がひしめいていた。その中央に腰掛けた魔女は、風貌どおりの胡散臭い口を開く。
「おやァ、マーガレット。やっとアタシの人形を作ってくれる気になったんかえ」
「少し違うわ。けれど似たようなことかもしれない。あなたと取り引きがしたいの、バーバラ」
「ほォ……」
魔女の骨だらけの指が、マーガレットの頬に触れる。
「いい面になったねェ。愛を失った女の顔だ。……アンタはいい魔女になるよ、才能がある」
同じことは、初めて彼女に会ったときにも言われている。
この魔女には以前、黒魔術の儀式に使う人形を注文されたことがあった。そういうものと関わる気はなかったマーガレットは丁重に断り、バーバラもまた、マーガレットの信念を理解して大人しく諦めた。
それで終わるはずだった。こんなことにならなければ。
バーバラはこの一帯の魔女の中では最年長らしく、しばしば他の魔女がジュディ通りを尋ねてくるという。
いわばこの家は魔女の集会場で、マーガレットが求める技術を学ぶには最適だった。
つまり――呪術を。
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