8◇招待状

 アーサーに事情を話すのは辛かった。

 さんざん警察に哂われたけれど、実際それも仕方がないと思えるほど突飛な話だ。大人の彼がすんなり信じてくれるとは思えない。

 それにマーガレット自身、日が経つにつれて疑念が募っていた。


 人間が人形になる、なんてありえるはずがない。

 だからきっとあれは疲れて見た夢か、あるいはフォークスの手品か何かだったのではないか。


 そう思い込みたかったのかもしれない。誰よりもマーガレットが、そんなおぞましい事実を信じたくないのだ。

 このうえアーサーにまで肯定されては、もう現実として認めざるをえなくなる。


 そしてさすがにアーサーも、かなり青ざめて首を振った。信じられない、と呟いて。


「もちろんあなたのことは信じている。ただ、……あの社長が、生きた人形だなんて……」

「ええ、わかってるわ。私も何がなんだかわからないし、わかりたくもないし、嘘か妄想であるべきだと思ってるもの! ……そうよ、きっと私、からかわれたんだわ……」

「……たしかに社長は冗談や、人を驚かせることを好む人だ。でも」


 アーサーはそこでふうと溜息を吐いた。そして、マーガレットの横髪を遊ぶように撫でた指で、そのまま顎を持ち上げてキスをした。


 男女の愛情というより宥めるような気配のあるくちづけに、マーガレットはしばし没頭する。

 こういうところはかつて人の兄だったらしいと思う。マーガレットも人の姉だったから、なんとなくその気遣いの癖はわかる。

 少しして顔が離れたとき、心が静かになっているのを感じたのだ。


「……、冗談で女性のくちびるを奪うのは、紳士のすることではないと思うね」

「あなたが言うと説得力があるわ。……ふふ」

「やっと笑ってくれた」


 この人がいてくれてよかった。ほんとうに心底そう思えるから、『いてくれるだけでいい』という言葉にも偽りはない。

 彼に出会わなければフォークスとも関わることはなかったかもしれないけれど、人生とはそういうものだ。幸せだけの世界は存在しない。

 だから、苦しみと喜びのつり合いが取れていれば、問題はないだろう。


 アーサーは仕事を辞めると言った。マーガレットは止めたものかどうか悩んだけれど、他人の婚約者に手を出すような男の下では働けない、という力強い言葉には頷くしかなかった。

 それにもしほんとうにフォークスが人外の存在になり果ててしまっているのなら、彼の会社にまともな未来などあろうはずもない。


 恐ろしい可能性ならまだある。たとえば人形化しているのは果たして社長だけなのか。

 他の社員たちはちゃんとした人間だ、と確信が持てない程度には、アーサーは入社してからまだそれほど長くなかった。それに彼自身の性格もあって個人的な付き合いがある人はいないらしい。

 逆にフォークスの突飛な言動にまったく動揺しない秘書など、むしろ人間味が薄いと感じる者の心当たりならいくつかあった。


 その話を聞いてマーガレットも思った。自分が見学したときはどうだったろうと。

 食事中に何度もお茶を運んできたメイドは、思えば表情に乏しくなかったか。気のせいか疑心暗鬼か、穿ってみればいくらでも疑念は湧いてきて、何を信じたらいいかわからなくなる。


「ああでも、もしあなたが退職したあとで何か嫌がらせをしてきたら?」

「その不安がないとは言えないな。そうなったら、もうこの街を出るしかないだろう」

「街を……ならもう、人形は作れないわ。エニグマレルは組合が厳重に管理していて、ペープサートの外には出ないから……」


 人形に入った状態ならば持ち出しは可能だが、まさか解体して取り出すわけにもいかないし、その場合エニグマレルはすでにその人形用に組み上がっている。別の胴体ボディに入れても中身の同じ人形になってしまう。

 エニグマレルそのものを書き換えたり初期化するだなんて、それこそ人形を殺すような所業で、マーガレットは絶対にしたくない。


 マーガレットは深く息を吐いて、それから続けた――つまり私は廃業するしかないわね。


「……マーガレット……」

「大丈夫よ。……悲しいけど、私にはディックがいるもの、あの子を危険に晒すくらいなら潔く諦めるわ。

 それに人形そのものを作れなくても、修理とか手入れとか、あと小物とか、関わる方法ならいくらでもあるし……」


 欺瞞だ、と言いながら自分でも思った。自分で自分を騙そうとしている。諦めきれるはずがない。

 けれどリチャードを巻き込みたくないのだけは心からの本音だ。甥を守るために他に方法がないのなら、マーガレットは大人として、なんとか未練を飲み込んでしまうしかない。


「……それに。今まで作った人形はみんな依頼主に渡してたから手許にはないけど、シャーロットとはずっと一緒にいられるものね!」

「ああ、……そうだね」

「くよくよ考えたって仕方がないわ。アーサー、こうなったらすぐに新しい家を探しましょう。そもそも初めからこの家で四人で暮らすのは無理なんだし、あなたの今のおうちも工房になるスペースなんてないもの、結局家探しはどうあっても必要なのよ。私たちの未来のためにはね」


 たぶんアーサーはマーガレットの虚勢くらい見抜いていただろう。けれど彼は何も言わずにただ微笑んで頷いた。


 その後の展開は思ったよりすんなり進んだ。アーサーは辞表を提出し、さすがに彼の優秀さでは即日の退社は認められなかったが、別の人間を雇うための数週間の猶予をもってグラン・ギニョール社を離れることが決まった。

 退職日までの間のわずかな休暇は新居探しに充てられ、これが案外あっさり決まる。ペープサートから列車で四駅ほど離れた街で、なかなか雰囲気のいい貸家が見つかったのだ。近くには学校もあった。

 あとに残すはシャーロットのみで、マーガレットはフォークスのことなど忘れて作業に没頭した。


 拍子抜けするほど順調だったのは、フォークスから妨害らしいことを何もされなかったからである。

 彼はあれから一度も訪ねてこなかった。それだけが僥倖だった。



 アーサーが退職する日、マーガレットはシャーロットのエニグマレルを完成させた。けれどすぐにその身体に心臓を入れることはしない。

 最後のその作業は依頼人の手を借りなければならないのだ。


 しかし、いつまで待ってもアーサーは来ない。

 胸に嫌な陰りがかかったころ、リチャードが郵便受けの中身を持ってきた。


「これ、伯母さん宛てだけど、差出人の名前がないや。誰だろ?」

「あらほんと、書き忘れちゃったのかしらね」


 言いながらかすかに声が震えた気がした。名前がなくても誰から届いたものかわかったからだ。

 なぜならその封蝋の印は、いつかアーサーが持ってきた、会社見学の誘いが入っていた封筒のそれと同じだったから。

 消印もない。誰かが直接ポストに入れたらしい。


 中の便箋に書かれた文章はただ一言。


『ミス・ドールメイカ―を我が城にお招き申し上げます』


 思わず取り零した封筒は少し重く、床に当たってかつんと妙な音がした。リチャードが拾い上げてひっくり返すと中から銀色の小さな物体が転がり出る。

 拾って見ると、カフスボタンだった。

 思わずまじまじと眺めた。色にも形にも見覚えがある、これはアーサーのものだ。それに――その裏についた赤いものは血痕か?


「……、ディック、留守番をお願い。少し出かけてくるわ」

「え、……うん、わかった。すぐ戻る?」

「わからない。もし遅くなったら……えーと、お隣さんにも声をかけておくから、お夕飯はそっちで」

「わかった」


 マーガレットはそのまま家を飛び出した。


 今にして思えば最初から疑ってかかるべきだったのかもしれない。新進気鋭の企業が、わざわざ郊外の森の中に社屋を建てているなんて、やっぱり変だったのだ。

 道や前庭の整備は相変わらず中途半端で、まだ陽が沈む前だというのに樹影に囲まれて薄暗い。


 馬車の御者には少し待ってくれるように頼んで、マーガレットは久々にグラン・ギニョール社を訪ねた。

 受付の人形はにっこり微笑んで、前来たときと同じようにぺらぺらと歓迎の定型文を述べる。

 社長に会いたいと告げると彼女は視線を動かさずに手許でボタンを押す仕草をした。どこか遠くで鈴、いや鐘が鳴る音がして、やがて顔を出したのは社長秘書を務める初老の男性だ。


 彼に案内されながら、マーガレットはその仕草や表情をじっと観察した。見た目は間違いなく人間ではあるし、その下に骨があるのもわかる、仕草にはおかしなところがまったくない。

 けれど、瞳が妙につやつやしている。まるで硝子玉だ。


御主人様マスター、ミス・ホームズをお連れしました」



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