7◇ひとでなしの恋人<ドール・メイカー>
「……ですからもう、こういったことはやめていただけませんか?」
次、は思ったより早く来た。
無遠慮に工房に押し掛けてきたフォークスに向かい、マーガレットは可能なかぎり毅然とした態度でそう言った。やっと言えた。
これでようやく何の憂いもなくシャーロットと向き合えるのだ、そう思えば胸がすっとした。
対するフォークスはなぜか微笑みながらマーガレットの宣告を聞いていた。マーガレットはそれを見て、初めてこの男を気味が悪いと思った。
笑顔はやがて溶けるように崩れ、
「わからない。
その言葉は暗にマーガレットとアーサーの関係を知っているようだった。実際に調べでもしたのか、推測で言ったのかは知らないけれど。
「
そう、あなたはもっと光のあたる場所で賞賛を受けるべきだ!
最初に会ったときから、いや、会う前からずっとそう思ってた。あの堅物が夢中になるのもわかる。あなたほど美しくて繊細で、かつ確かな腕のある人形師はいない」
急に堰を切ったようにべらべらと話し始めたフォークスの眼差しは焦点が合っていない。顔はマーガレットのほうを向いているが、彼が見ているのは自分ではないのだ。
マーガレットの上に彼の空想上の何かを被せて、それに向かって語っている――そう感じる。
口調もすっかり崩れ、そこにいるのはグラン・ギニョール社の社長ではなかった。チャールズ・フォークスという名の男、いや、その名を冠した何者か。
「……あの、何を仰っているの?」
「あなたを愛しているんだ、マーガレット。ぼくは生まれたときからあなたを探していたんだもの。ぼくの運命の
「ちょっと、わけがわからな……ッいや、離して、触らないで……!」
急に迫ってきたフォークスを思わず突き飛ばそうとした。でもそれは叶わなかった。
マーガレットは平均的な体格で、ひと回り大きな男性に簡単に捕まってしまう。それどころかフォークスの腕力は一般人のそれよりずっと強いような気がした。
無理やり抱き込まれてしまい、反射的に叩いた胸板が妙に硬い。
恐怖に全身が戦慄いた。よりよって今、この家にはマーガレットしかいない。
なぜならマーガレット自身が、何かあってもリチャードが巻き込まれないようにと彼を出掛けさせていたからだ。
――このままでは犯される。
咄嗟にそう思った。既成事実を作ってしまえばマーガレットも拒めなくなる、アーサーも汚れた女からは離れていくだろう――少なくともフォークスはそう考えるはずだ。
マーガレットは唯一自由に動かせた片腕をめちゃくちゃに振り回して抵抗したが、フォークスはびくともしなかった。
それどころかマーガレットの顎をすごい力で掴み、自分のほうを向かせる。黒い瞳が今はどろりとぬめっているように見えた。まるで底なし沼のように。
逸らしたくても固定器具を嵌められたように動かせず、そのまま青白い顔が迫ってくる。
変だ。異常だ。この男は何かがおかしい……。
「や、――ん、っ……いやッ!」
強制的にくちびるを奪われたマーガレットは、反射的に傍の作業台を探って手に触れたものを掴み、それを力いっぱいフォークスの顔に打ち付けた。
がちゅ、と妙な音がしてやっとフォークスが離れる。ようやく解放されたマーガレットは、思わずその場に尻もちをついたけれど、それは安堵のためではなかった。
……目の前の、顔が。
そっと自分の手許に眼を遣ると、手にしていたのは彫刻刀だった。
フォークスは顔を押さえて沈黙しているが、――その手許から血は一滴も流れていない。
「な……んで……何、その……顔は……」
「ああ……ひどいな、傷がついてしまったよ。どうしてぼくを拒むの?」
フォークスは心底辛そうな顔でそう言った。ともすれば涙すら流しそうな悲哀を浮かべて。
けれどその眼球は乾ききっていて、その下の頬には皮膚が裂け、ひびが入り、そこから干からびた赤茶色のものが覗いている。
惨たらしい傷に、けれど痛がるようなようすはない。ただマーガレットの拒絶を嘆いている。
まるでそう、これは。
「……あなた、人間じゃ……ないの……?」
「そう見える? 嬉しいな、がんばったんだよ。そのために努力したんだ、そうしたら会社ができた。それであなたに出逢えた。
ここまで上手くいったのに。マーガレット、どうしてぼくの
「ど……どうかしてるわ、自分の身体を……そんな……ッう……」
吐き気がした。
どう見ても元は生身の人間だ。傷口からは骨も覗いている。けれどそこから血は出ない。
この男は生きながら自分を人形に作り変えてしまったのだ、どうやってかは知らないし、知りたくもないけれど。
それをあまつさえ、嬉しいなどと表現するだなんて完全に、狂っている。
「皮膚を張り替えないといけないから、今日はもう帰るよ。……一緒に来てほしいと言っても無理そうだね、マーガレット。
だったらぼくは、あなたが自分からこちらに来たくなるように、なにか楽しい趣向を用意しよう」
――待ってるから。
ひどく歪な笑みを浮かべてそう言うとフォークスは出て行った。
マーガレットは呆然としたまましばらくその場を動けなかった。あとから急に震えが襲ってきて、思わず己の肩を抱き締める。
ただ恐ろしかった。
そして思った。これからどうなってしまうのだろう。今後も放っておいてくれるとは思えない。
自分から来るように仕向ける、というようなことを言い残していったけれど、いったい何をする気なのだろう。
己の身体を人形にするような常軌を逸した男だ。まともじゃない。何をしでかしてもおかしくない。
「警察……そうだわ、警察に……」
震える足でなんとか立ち上がり、マーガレットは警察署に出向いた。
自分ひとりでどうにかなるとは思えなかったからだ。そして結果、――警察は当てになりそうにない、という結論だけを得た。
何しろ人間が生きたまま我が身を人形とするだなんて話は、荒唐無稽すぎたのだ。いくらここが人形産業で栄えるペープサートでも過去にそんな事例はない。
だいたいどんな技術や仕組みなのかマーガレットにもさっぱりわからないし、そもそも証拠がない。いくらマーガレットが彼の乾いた傷口を見たと主張しても、頭のおかしな女が支離滅裂なことを喚いている、くらいにしか扱われなかった。
もはや訴えるほどにマーガレット自身の社会的評価だけが下がるという現実を目の当たりにし、その日はとぼとぼと家に帰るしかなかった。
帰ってきていたリチャードが出迎えて、マーガレットの顔色が悪いと心配してくれた。
けれど事情は話せない。きっと甥は信じてくれるけれど、マーガレットは彼を守る立場であってその逆ではないのだ。
それから、あまり眠れない日々が続いた。
悪夢を見るのだ。
夢の中は何もない暗闇で、そこにフォークスが立っている。彼の顔から人工皮膚が剥がれ落ちてゆき、肉や骨をさらけ出して笑いながら、マーガレットに迫ってくる。
『ぼくのドールメイカーになって、ぼくを完璧な人形にしてくれ、マーガレット!』
あまりにも恐ろしくて、何度も悲鳴を上げて飛び起きた。
落ち着いて眠れないせいで生活のすべてが次第に狂っていく。
よりによって人形作りは終盤、仕上がりにおいてもっとも重要な中身、エニグマレル設計の段階なのに。不調にふらつく指で精密機械に触れるわけにはいかず、作業は遅々として進まなくなった。
日毎にやつれていくのが自分でもわかる。これまで歳のわりに若く見られることも多かったが、最近は年齢以上に老け込んだ気がする。
そんなマーガレットを、当然ながらアーサーも心配した。
「何かあったのなら話してくれないか。……それとも、僕では頼りない?」
「まさか、……そんなわけ、ないじゃない」
「なら教えてくれ、何を悩んでいるのか……それで僕にできることがあるなら言ってほしい」
アーサーはマーガレットを抱き締めて、祈るような声音で続けた。
「互いに支え合うのが夫婦だ。……そう思ったから結婚を申し込んだんだ。僕はあなたに救われたから、今度は僕があなたの助けになりたい」
「……私には、あなたがいてくれるだけで充分よ」
無性に泣きたくなり、甘えるように彼の胸に顔を埋める。
温かくて、柔らかくて、鼓動が聞こえる。かすかに震えているそこに、生きた人間の血肉を感じられるのが今は嬉しかった。
自分は人形を作る女で、たしかに人形を愛している。人間と同じくらい愛していると言ってもいい。
けれどその垣根を超えてはいけない。理解できないし、するべきでないと思う。
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