6◇悪夢の始まり

 驚いたことに、工場見学の案内役は社長のフォークス氏本人だった。

 直にマーガレットと話したいのだろう。よほど新部署の計画に力を入れていると見える。

 それに彼自身も人形師であるから、なにか質問があったときでも答えるのに不足はないらしい。


 フォークス氏はアーサーから聞いていたとおり若い人で、しかもなかなかの美丈夫だった。

 流行やファッションにも敏感な人らしく、スーツは最新の高級ツイード仕立て。その若さでは衣装に着られている感の出そうな代物を、嫌味もなくぴったり着こなしているあたり、センスと器量の良さが窺える。


 アーサーは自分の仕事があるためそこで別れ、マーガレットはフォークス氏に社内じゅうを連れまわされることになった。



「――どうでしょう、わが社は気に入っていただけましたか?」


 午前中いっぱいあちこち見回って、すっかりくたびれたところで昼食まで呼ばれる。

 社員用の食堂もあるそうだが、フォークス氏はいつも社長室でひとりで食べるそうで、だから今はふたりきりだ。むろんちょくちょくメイドがやってきてお茶のおかわりなんかをくれるのだが。


 そうして食べ終えたころを見計らって、フォークス氏が前述のように切り出したのだ。


「ええ、本日はお招きありがとうございました。人形師として学ばせていただくことがたくさんあって……とくにあの、新しい人形の案がずらりと並んだ企画部の棚なんて、一日中見ていられそうでしたわ」

「それはよかった! ならこのあとの話もよい返事を聞かせてもらえそうだ」

「とおっしゃいますと……」

「最初ローンソンくんに持たせた書類にも書いてあったでしょう? 新しい部署を立ち上げようと思ってるんですよ。女性の目線で、女性が必要とする商品を、女性が中心になって作る。

 ミス・ホームズ、あなたが部長だ」


 もはや断言に近い口調でそう告げたフォークス氏は、にっこりと人好きのする笑顔を浮かべている。

 断られることなど微塵も考えていないらしい。


 実際、とてもいい話には違いなかった。


 マーガレットの今の収入では、リチャードとふたりでなんとか暮らしていくので精一杯。そのうえ人形作りにかける予算を極力削りたくないために、家計がきついときのしわ寄せが向かうのは生活のほうで、だからリチャードも毎日路上で小銭を稼がなくてはならないのだ。

 このままではいつまでたっても甥を学校に行かせてやれないことを、マーガレットだって心苦しく思っていた。


 だが、今は少し事情が違う。

 まだ公表はしていないが、アーサーとの未来が現実のものになりつつあるのだ。シャーロット人形が完成したら、そして彼の両親がマーガレットを認めてくれたら、彼と四人での新しい生活が始まる。

 アーサーの安定した収入があればリチャードを学校に入れられる。マーガレットも今まで以上に人形作りに専念できるだろう。


 それに。

 たしかに面白い眼のつけどころだと思うし、新事業には成功してほしい。けれど、マーガレットのやりたい仕事、作りたい人形は、それではないのだ。


「……とても魅力的なお誘い、ありがとうございます。それに素晴らしい発案だと思いますわ」

「でしょう! それじゃあさっそく――」

「……ごめんなさい。私には街の人形師という立場が相応しいのです。人の上に立つだなんてとても……」


 そのあとも引き留めるようなことをあれこれ言われたものの、マーガレットは当たり障りのない言葉を重ねて断った。

 フォークス氏は納得いかなさげだ。彼からすれば断る理由がないはずだったのだから、こちらが何を言おうと屁理屈にしか聞こえなかっただろうし、――実際それらはほんとうの理由かと言えば少し違う。

 嘘は言っていないけれど、公式なものではない婚約のことを持ち出すのは気が引けたので、どうしてもそこだけはぼかしてしまったのだ。


 その日はなんとか断りきって、グラン・ギニョール社を後にした。

 けれども、思えばこれがすべての始まりだった。マーガレットの乗った馬車が出る直前、見送りに出ていたフォークス氏が――いやフォークスが言い捨てた言葉は、辛うじてマーガレットの耳にも届いていたのだ。


「……諦めないよ……」


 それまでの好青年ぶりが嘘のように、その声はひどく冷たく凍っていた。



 ・・・・・+



 それからというもの、フォークスがちょくちょく訪ねてくるようになった。

 自宅兼工房の場所を教えたわけではないのだが、仕事柄伏せたり隠しているわけではないし、彼の権力と人脈があれば探すのは容易だろう。あるいはアーサーに聞いたとも考えられる。


「人形劇のチケットが手に入ったんですよ、ご一緒にどうですか? ほら、広場で大きなテントを張っている有名な興業団の!」

「ああ、とても人気だそうですね。でもあの、私は……」

「なにかお疲れかな? そういうときこそ息抜きが必要ですよ。さあ、お手をどうぞ、マーガレット!」


 気付けばフォークスはマーガレットを名前で呼ぶようになっていた。許可した覚えはないし、こちらはあくまで「フォークスさん」で通しているのに、明らかに距離感が互いに異なっている。

 アーサーも言っていたようにとにかく押しが強く、マーガレットはいつも激流に呑まれるような気持ちで彼に振り回された。

 その歳で実業家として成功するには必要な性質なのかもしれない。


 ともに出掛けると、必ず食事や買い物にも付き合わされる。社長だけあって彼の行きつけはいずれも高級店ばかりで、ひとつとしてマーガレットが今まで訪れたことのある場所はなかったが、それを素直に楽しんだり満喫する余裕などない。

 これではまるでデートのようで、アーサーに申し訳なかった。


 それに時間がとられる。シャーロットの制作は明らかにフォークスのせいで滞っていた。


 あるいはそれが目的かもしれない、と気付いたのは少し経ってからだった。

 恐らく向こうはマーガレットの生活についても調べ上げている。写し人形と小物制作、そのいずれにもまとまった時間が必要なのに、日中連れまわされては作業ができない。

 とくに小物制作は短期間で収入に直接影響する。経済的に困窮すればグラン・ギニョールへの入社を断れないと踏んだのだろう。


 しかしそうなると矛盾する行動もあった。フォークスは出かけた先で、何かにつけてマーガレットに贈りものをしたがったのである。

 自分の買い物のついで、というふうに振る舞ってはいたが、恐らくマーガレットの気を引くためだろう。

 むろん行先が行先なので示されるものも高価な装飾品などが主だった。当然こちらに受け取る理由などひとつもないが、かといって店員の目の前で無下に断るのも彼の立場がないものだから、マーガレットは受け取らないで済む穏やかな言い訳を苦心してひねり出さねばならなかった。


 何度言おうと思ったか。自分はアーサーと将来を誓っている、他の男性と出歩くわけにはいかないと。

 ただそれを伝えたところで無駄だろう。フォークスに手段を択ぶ気はなく、最終的にマーガレットを頷かせるためなら、……この男はどんなことだってするのだ。


 そう、どんなことだって。



 マーガレットがフォークスに振り回されることで、リチャードとアーサーにも少しずつ影響が出ていた。


 甥はとくに日毎に疲弊していく伯母を間近に見続けていたから、さぞ心配したことだろう。

 そのうえ家計が傾いてきたのに気付いた彼は路上での仕事を増やしたらしい。それはつまり、これまで勉学に充てていた時間を削ることを意味する。

 だというのにそれにすぐ気づけなかったほどマーガレットも精神的に逼迫していた。たったふたりの家族なのに、マーガレットは彼を守る立場なのに、これほど情けないことはない。


 アーサーにもなかなか会えなくなった。その極めつけが、ある日またフォークスに連れまわされて帰ってきたマーガレットにリチャードが放った言葉だ。


「おかえり。もうアーサーさん帰っちゃったけど」


 一体どういうことなのか。

 甥から話を聞いたマーガレットは崩れ落ちた。日中アーサーが訪ねてきていたのに、フォークスに連れ出されて不在だった、ということがもう何度もあったのだそうだ。

 それを今までマーガレットが知らなかったのは、他ならぬアーサーがリチャードに口止めしていたかららしい。

 曰く、気にすることはないから、と。――そういうわけにはいかないのに。


 道理でここ最近ずっと会えなかったはずだ。

 それに……フォークスは彼の上司、アーサーの休みがいつなのかは把握できる。わざと彼が訪ねる日を狙って妨害したと考えられなくもない。

 ただ、そんなことをする必要がフォークスにあるとも、思えないけれど。


 ともかくマーガレットは決意した。次こそははっきり断る。

 たとえ婚約を公表できなくとも、心に誓った男性がいることくらいは表明してもいいだろう。



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