4◇甘いまどろみ

 いつから彼女に惹かれたのだろう。

 答えは明白だ。初めて出逢った、あの日から。


 最初に女流人形師だと聞いたときは正直驚いた。

 いや、それ自体よりも、すでに写し人形の制作者として実績を持つ彼女が、未婚ながら自立した女性だと知ったときのほうが驚愕が大きかった。


 これが家庭教師や乳母といった女性ばかりの職種であればまだわかる。

 けれど人形師といえば男性が大多数を占める業界だ。そのうえエニグマレルを扱える自律人形師ともなれば、女流作家など世界じゅうでも片手で数えられる程度だろう。

 だいいち職業婦人自体がまだ少なく、なおかつその大半は既婚者か、資産と教養に恵まれた上流階級の令嬢である。


 恥ずかしながら、彼女に会うまではその腕を疑いもした。

 他に収入源がなければ食べていけるはずがない、とすれば実家が裕福で、その遺産を受け継いだか。あるいは業界の大物の愛人か。

 なんにせよ趣味や道楽の域ではないのか、と。


 今から思えばいずれも失礼極まりない考えなのだが、それくらいマーガレットの存在は異質だったのだ。


 それがまさか、ほんとうに人形作りで生計を立てているうえ、戦災孤児の甥まで養っているというのだから、にわかには信じがたかった。

 むろん写し人形の制作には時間がかかるため、繋ぎに人形用の衣類などの小物を売っているらしい。それにしたって生活が成り立つものなのか。


 そんな偉業を成し遂げている烈女は、しかし当人は至ってふつうの女性だった。

 いや、ふつうの女性以上に優しくて温かかった。仕事柄、身内を失くした人間と触れ合う機会が多いからか、マーガレットは他人の傷口の扱いをよく心得ているらしい。


 人前で涙を流したのは何年ぶりだったろう。それも初めて会った女性の前でなんて。

 思い出すと相当に恥ずかしい、紳士にあるまじき行為であったが、なぜかアーサーはそのことについて後悔を感じない。

 なぜならマーガレットは泣き喚く己を笑ったり、またシャーロットを無視して憐れんだりもしなかったからだ。ただ寄り添って、そしてアーサーが罪人であることを認め、許してくれた。


 そんな彼女に人間として惹かれ始めるのは自明の理だった。

 もうすでにいちばん弱いところを晒した相手だ。彼女と一緒にいる間、何ひとつ自分を偽ったり虚勢を張らなくてもいいのだと思うと、自然と心が安らいでいく。


 それに何度も会ううち、彼女が案外かわいらしい人だということもわかってきた。

 感情表現が豊かで、よく笑い、よく怒る。立派な大人の女性でありながら少女のように屈託がなく、なおかつ人形たちに対しては母親のように愛情深い。

 何より澄んだ青い瞳が美しくて、たまに眼が合うとそのまま魂を持っていかれそうな心地がする――そうなってもいいと思える。


 だから言った。

 少し前から、ずっと願ってきたことだった。


「僕の妻になってもらえないか」


 ――この先もずっと、彼女と一緒に生きていきたい。いつか墓に入るその日まで、あるいは、天の上の国へでも。


 マーガレットは一瞬固まり、そして手にしていた洗いかけの皿を落としかけた。それをすんでのところで持ち直してから、ぎぎぎと軋みが聞こえそうなほどのぎこちなさで振り向いたとき、その頬は満開の天竺葵ゼラニウムのように真っ赤になっていた。


「え、あ、え、えッ、な、なん、っで、きゅ、きゅ、急に、そっ、そん」

「いや、そこまで……ふっ」

「わわ笑わないでちょうだい! びっくりしたんだから! あッ……あなた、人の心が読めるんじゃないわよね!?」

「もちろん超能力なんて持っていないよ……うん?」


 マーガレットの慌てぶりが尋常でなくて、思わず笑んでしまう。ああ、なんてかわいい人なんだろう。

 それにその言い分はつまり、こういうことじゃないか。


「あなたも同じことを考えていてくれた、ととってもいいのかな、それは」

「――ッそ……れは……そのっ」

「よかった。……僕がひとりで勝手に舞い上がっているのだったらどうしようかと」


 だんだんすべてが紅一色に染まっていくマーガレットの、眼だけが変わらずに晴れ晴れと青い。

 それを見ていると幼いころシャーロットと暮らした田舎の村を思い出す。花畑が広がる丘の上に、果てしなく続いていたあの空の色。

 それは病床の妹が、最期に窓から見ていたであろう風景で、アーサーはそこに戻れなかった。


 懐かしさと罪悪感で今なお胸が痛む。その苦しみを受け止めてくれた唯一の女性ひと

 生涯をともにする相手は、もう他には考えられなかった。


 自分だって頬や手が熱いのはわかっている。恐らく情けない顔をしていることだろうが、それを見るのがマーガレットだけなら構わない。


「……それで、返事は?」

「う……今すぐじゃなきゃ、ダメかしら……」

「できれば今ここで聞かせてほしい」

「い、意外とせっかちね……」


 マーガレットはちょっと困ったような口調で言ったが、これは契約の基本だ。相手に考える時間を与えるほど決断が鈍ってしまうものだから。

 こちらの心は決まっている。だから彼女を逃したくない。もう機は熟している。

 たとえ心が通じ合ったという確証があったとしても、アーサーは眼に見える形がなければ安心できない男なのだ。


 だからじっとマーガレットの眼を見つめて、彼女を追い詰めた。

 ずるい手管と知りつつも止めなかった。絶対に頷いてほしかったから。


 そして数分も経たないうちに、マーガレットの細い顎が小さく上下したのを、たしかに見た。


「あ……――」


 それは合図だ。溜め込んできた想いを、もうこれ以上胸の内に留めておかなくてもいいのだという。


 ずっと紳士として振る舞ってきた。この国では男子はそうあるよう求められているから、アーサーもそれを正しいことと教えられて育ったし、今でも間違いだなどとは思わない。

 けれど今のマーガレットになら、その内側の野暮ったいところを見せてもいい。

 ただの男でありたい。そんな自分を、受け入れてほしい。


 アーサーはついに彼女を抱き締めて、初めてそのくちびるにキスをした。

 彼女も拒まなかった。今まで数多の奇跡を誰かのために体現してきたその細い腕が、応えるようにこちらの首筋に縋りついてきたのを、心から幸せだと思った。


 触れ合ったところから互いの体温が溶けていく。このぬくもりを完全に自分のものにしてしまえたらどんなにいいか――このとき、そう思ったのは紛れもない事実だ。

 愛する人をどこまでも欲してしまう、この浅ましさがアーサーの中の人間なのだろう。


 けれど、名残惜しいのを堪えてマーガレットを離す。涙に潤んだ瞳にどきりとしながらも、アーサーは努めて心を平穏に保とうとした。

 これ以上は彼女を、この関係を壊してしまいかねない。


「……続きは、式のあとにしよう」

「ッもう……籍を入れるだけでいいわよ。ドレスを着たい歳でもないし、恥ずかしいわ」

「申し訳ないが、そこは両親が譲らないと思う。けっこう保守的なんだ。……それに僕も見たい」

「悪趣味よ!」


 怒ったような口調ながら、マーガレットは笑っていた。




 ・・・・・+




 幸せを手にするには時間がかかる。けれど、それを失うのは一瞬で終わる。


 あくる日アーサーはいつも以上に熱心に働いていた。元から真面目で優秀な社員ではあったが、今日は見るからにその表情が明るいことを、周囲みんなが気付いているほどだ。

 一部は彼がここ最近特定の女性と何度か会っていることまで把握していたので、おおよその事情は言わずとも察されていた。


 そんな折、誰かがアーサーの肩を叩く。帳簿から顔を上げると、どこか神妙な面持ちをした上役が、他に聞こえないように潜めた声で耳打ちしてきた。


「ローンソンくん、社長がお呼びだよ」

「え? はい、わかりました」


 ふつうの会社なら、すわ辞令か解雇通告かと慄いた場面かもしれない。けれどもここグラン・ギニョール社の若き社長チャールズ・フォークスは変わり者で知られていて、前に同じように呼び出された者などは、世間話の相手を求められただけだった。

 何も身に覚えがなければ慌てる必要はない。


 しいていえば、アーサーの脳裏にはマーガレットの姿があった。

 つい先日彼女のことを話したばかりだったからだ。休暇をもらうのにその理由をしつこく尋ねられて仕方がなかった――アーサーは有能であるがゆえ、少しばかり重用されすぎていた。


 そして実際、アーサーの予想は当たった。

 二階の社長室にて、だいぶ機嫌の良さそうなフォークスから「例の女性を我が社に招こうと思う!」と開口一番に宣言されたのだ。


 この社長は思いつきをすぐ実行することでも知られている。それに振り回されるのに慣れた秘書などは、もうずっと真顔を保ったまま無言で予定帳の確認をしており、この場で驚いているのはアーサーただひとりだった。


「ど、どういうことです?」

「いいかい? これからは女性の視点というものが非常に重要なんだ。男の半分近くは戦争で死んでしまったからね、すでに女性が経済の世界に参入しつつある。そこで私は考えた、女性による女性のための人形作りを行う新部署の設立――ぜひその責任者に彼女を据えたい!」

「なるほど。さすが、非常に社長らしい着眼点ですし、素晴らしい案だと思います」

「おや、意外だね。きみは保守的っぽいからもっと反発するかと思ったよ」

「世相の変化にはさすがに気づいていますよ。ですがその……ミス・ホームズが承諾するかどうかは、わかりません」

「うむ」


 フォークスは少し考えるような仕草のあと、こう続けた。


「ならひとまず、うちを見てもらおうか!」



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