3◇幸せな夜
シャーロット人形が少しずつ形になっていく。
それは同時に、このくすぐったくて温かな時間が終わりに近づいていることを意味していた。さすがにその先まで期待するほどマーガレットは若くない。
今日も今日とて人形師は彫刻刀を握る。
写し人形の制作においてとくに重要な点は三つあるのだが、そのうちのひとつが顔の基板だ。
何しろ実在した人間に似せて作るもの。それも顔というのは人間が本能的にもっとも注目する場所なので、ここが何より忠実に再現されていなければならない。
単にその形状だけでなく、表情にも違和感が残らないように。
シャーロットの写真は正面から撮った一枚しかないというので、横顔の情報はアーサーに直接監督してもらう必要がある。
それも充分な時間を確保するため、わざわざ仕事を休んでくれた。
彼が職場においてどのような立場なのかマーガレットは知らない。
急に休暇をとることで雇い主から悪く思われたりしないか不安だ。アーサーは何も言わなかったけれど。
きっと真面目な人だから信頼されているのだろうと無理やり己を納得させて、マーガレットもあまり気にしすぎないように意識した。
そう、そんなことを軽く訊くのも躊躇われるほど、ふたりの関係は進展していなかった。
互いを名前で呼ぶと決めたときの甘酸っぱい空気はどこへやら。いや、あれだってリチャードの節介があってのことで、甥が何も言わなければ今も変わらず姓で呼び合っていただろう。
そのあたりはリチャードも伯母の性格をよく理解していると言わざるを得ない。
人形作りでは女だてらに一人前で身を立て、その点では先進的と言えるマーガレットだが、こと恋愛に関しては奥手だった。
この歳まで未婚なのもひとえにそのせいだ。
もう少し若いころは見合いの話もいくつか来たが、どれも家庭に入ることを求められたり、リチャードの処遇について曖昧な回答しか得られなかったりしたので断ってきた。
ただ、今思えばそれだけではなかったような気がする。
相手に魅力を感じなかったのだ。もうすっかり諦めていた気でいたくせに、じつはそれは結婚に関してであって、恋への渇望はまだかすかにでも残っていたらしい。
誰かを好きになりたかった。少女のころ夢中になって読んだ恋愛小説のような幻想を、一度も我が身で体験しないまま終わるのは寂しい。
「とりあえず手持ちの
部品棚から引き出しごと抜いて机上に置く。色とりどりの硝子製の人形用の眼は、懇意にしている職人から買い付けているものだ。
安価な
アーサーは引き出しを一瞥して、静かに首を振った。
「大事なことを話していなかった。シャーロットは生まれつき色素が薄くて、僕とはまったく違っていたんだ」
「ええ、髪は明るいブロンドだったのよね」
「そうだが、それだけじゃない。眼は赤に近いオレンジ色だった。医者が言うには血管が透けてそう見えるらしい。だから光に弱くて外にも出られなかったんだが……何より、本人がひどく気にしていてね。
あの肖像を撮るときも、写真は白黒だから眼の色なんかわからないって小一時間説得しなきゃいけなかったくらいだよ」
「そうなの……それは特注しなくちゃいけないわね。大丈夫、とてもいい職人を知っているから、完璧なのを作ってもらいましょう」
そう言ってマーガレットが微笑むと、アーサーも頬を緩める。彼はあまり表情が豊かなほうではなくて、それがわかってきた今からすると、最初に話を聞いたときの号泣ぶりが貴重に思えた。
これほど控えめな人を相手に、胸が躍るようなロマンスなど期待しようもない。
――それに私のほうが歳上だし。
雑念を振り払い、傍に置いていた箱を開ける。そこから粗彫りした顔を取り出した。
写真を基に大まかに彫り起こしただけで、まだ表面は刃の跡で凸凹だ。
「鼻の高さはどうかしら?」
ここから、ひたすら調整が続いた。
まずアーサーの意見を何十枚ものスケッチに落とし込んでいく。基本的な顔立ちはもちろん、笑った顔やその他の表情――喜怒哀楽のすべてをひとつの基板で再現しなければならない。
マーガレットは彼を質問責めにしたが、アーサーも根気よくそれに付き合ってくれた。
熱中するあまり夕食を忘れそうになったほどで、呼びに来たリチャードからは呆れられたが、逆にアーサーには関心された。
「いつもそうなのかい?」
「わりとね。でもまぁ、でも今日はまた一段と
「ちょっとディック、変なこと言うとあなたのお夕飯減らすわよ!」
「冗談だってば。……半分くらいは」
夕食を作る背後では、すっかり仲良くなった彼と甥が何やら楽しそうに雑談している。
リチャードも人形師志望だから、製造会社の話はいい土産だ。
アーサーの勤めるグラン・ギニョール社はまだ歴史の浅い新興企業だが、それゆえ古い観念にあまり囚われない社風であるらしく、何ごとにおいても革新的だ。マーガレットにとっても興味深かった。
なんと社長に至ってはアーサーよりも若い人らしい。
時代はつねに移ろい、常識や価値観もそれに伴って変化していく。そのうち女の職人も当たり前の存在になるのかもしれない。
……とても想像がつかないけれど。
「――ゆくゆくはすべての工程を機械化して、大量生産した人形を海外で売ろうと考えているらしい」
「へー。すごいけど、それだと職人の立場がないね」
「いや、工場製より手作りの品が欲しいという人は必ずいるよ。やっぱり機械で作ったら質はどうしたって劣るだろうからね」
「だよね。なんていうか温かみがなさそう。でも、そのぶん安くて手に入れやすいってことだろ?」
そんなとりとめもない会話を背中で聞きながら、マーガレットは静かに息を吐いた。
これが、今のこの状況が、マーガレットの理想そのものだ。素敵な男性と、愛する甥っ子が揃って食卓にいる――彼らが人形の話をしている。
思わず、もしアーサーと結婚したら毎日こうなのかしら、なんて考えてしまったものだから、また頬が熱くなった。
こんなことは初めてだ。
いろんな客に人形を依頼されて、その誰もに対してマーガレットは全力で応えてきたつもりだったし、彼らも心から感謝してくれた。それで充分だった。
アーサーにも他の客と同じ対応をしているはずなのに、その先に、今までとは違う結果を求めそうになってしまっている気がする。褒められたことではないのは確かだ。
けれど、思ってしまうのだ。
人形師としてのマーガレットを認めてくれた人に、人間として、女としても受け入れられたい。
……それが他ならぬアーサー・ローンソンであったら怖くないのに、と。
自分でも行き過ぎていると感じたマーガレットは、かぶりを振って思考を打ち消した。そのあとは努めてほかのことを考えようとして、けれどその試みはたぶんあまりうまくいかず、どうも食事中はずっと上の空だったらしい。
食後、居間に残ったのはマーガレットとアーサーだけだった。リチャードは毎日早く起きて勉強をするのが日課のため、夕食のあとはすぐ就寝の準備に入るのだ。
マーガレットが食器を片づけていると、なぜか台所にアーサーが入ってきた。
「あの、……大丈夫かい?」
「えっ?」
しかも何か心配されているようで、第一声がこれである。まったく身に覚えのなかったマーガレットは皿を持ったまま小首を傾げた。
「食事の間、ぼんやりしていたから……昼間あれほど熱心にシャーロットを作ってくれたのだし、疲れているんじゃないかと」
「え、あ、えと、大丈夫よ? ディックも言ってたとおり、のめりこむのは私の癖なの。もう慣れてるから、あれくらいで疲れたりしないわ。
アーサーも丸一日付き合ってくれてありがとう。……あの、あなたこそ、お仕事は大丈夫?」
「こちらから依頼したんだから当然だ。あとその心配は無用……と言いたいところだが、実は社長にあなたのことを話してしまった。女流人形師は珍しいって興味を持っていたよ」
「あー、そう、それは……悪く思われていないならいいのよ」
水を張った盥で皿をゆすぎながら、なんでもないふうに答えるものの、内心はそれほど穏やかでもなかった。
興味を持たれることも、そこに悪意がなければたしかに問題はない。ただ、女だからという理由で近づいてくる人間の中には、ときどき好ましくない者がいることをマーガレットは身をもって知っていた。
今まで何度そうした連中に嘲られ、軽んじられ、もしくは無遠慮に好色な眼差しを向けられたことか。
だから結婚に踏み切れなかった。職人としての自分と、女としての自分、両方を認めてくれる男性に今まで出会えなかったから。
「あの、……マーガレット」
「なに?」
初めて条件を満たした人物が現れて、変に期待してしまっていることは認める。けれど、あまり高い夢を見すぎると、眼を醒ましたあとが辛いのもわかっている。
だから敢えてアーサーの顔を見ず、思っていることをぜんぶ胸の奥にしまい込んで、今のささやかな幸せを平穏の中に紛れさせようとしていた。
余計な感情は皿を洗う水の中に溶けて、そのまま下水に流れてしまえばいい。
そう思っていた矢先に、アーサーはこう言った。
「僕の妻になってもらえないか」
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