2◇紳士の涙
「ちょうど私が家を出る一カ月前が、妹の十歳の誕生日でした。それで記念写真を撮ることになったんです。両親と私たちが揃ったものと、それぞれの個別の
「それがこの写真ですね」
「はい。……撮ってから半年も経たないうちに……ちょうど学校が休暇に入る少し前……シャーロットが死んだことを、私は両親からの手紙で知りました」
震える声でそう語るローンソン氏の目頭には、透明な光が灯っている。
もう十年以上前の話だけれど、彼はまだ、その当時の後悔に決着をつけられていないのだろう。だからマーガレットを訪ねてきた。
「ひどい発作を起こして……妹は死の床で、私の名前を呼んだそうです。けれど人を遣る暇もないまま逝ってしまったのだと……。
ああ……私はそのとき、何も知らずに学友と笑っていたんだ……」
――アーサー、お兄ちゃん。帰ってきて。会いたい……。
それからというもの、ローンソン氏は妹が泣いている夢を何度も見るようになった。
時を経るごとに頻度は下がっていったものの、命日が近くなると思い出して、やはり悪夢に
自らの罪悪感に押し潰されて歪むのか、夢の内容はむしろだんだんとひどくなっていった。
夢の中で、口から血を流した妹に首を絞められたこともある。シャーロットがそんなことをするはずがないのに。
わかっている、妹の顔を借りて、自分で自分を罵っているだけだということは。
「私は妹に謝りたいんです。十四年前のあの日……引き留めるのを無視して家を出て、その挙句に最期に傍にいてやれなかったことを。
……それを写し人形で叶えることが、果たして正しいのかどうかわからない。もはや自分では判断がつかなくなってしまった。だからミス・ホームズ、私が間違っているようなら、どうかこの依頼は断っていただきたい……」
そう言って彼は項垂れた。
マーガレットはそんな彼をじっと見つめた。シャーロットの写真にしたのと同じように。
目の前の彼は生きているけれど、その心は十五歳の悔恨に囚われたまま、そこで時が止まってしまったようだった。
だから、どちらかというと背は高いほうなのに、彼がとても小さく見える。十五歳の少年がそこにうずくまって泣いている。
「では、依頼をお受けします」
静かに答えると、ローンソン氏がはっと顔を上げた。その眦はたしかに濡れている。
「い……いいんですか?」
「あなたには人形が必要なようですから」
迷いのないマーガレットの言葉に、ローンソン氏はしばし呆然としていた。どうやら彼は断られるつもりでここに来たらしい。
つまり、自分で判断がつかないというのは嘘なのだ。
むしろ彼自身は己の願望を過ちだと考えている。死んだ妹の代わりに人形に謝ったところで何にもならないと思っている。
それでも十四年間つのり続けた自責の念に耐えかねて突発的に手紙を出した。苦しみゆえに自分から依頼を取り消すとも言えなくて、だからマーガレットの側から断ってほしかったのだろう。
それがわかるから、依頼を受ける。
何より彼の人生は彼のものだ。すでに死んだ妹が支配し続けているべきではない。
そう考えるのは、なにも赤の他人であるマーガレットだけではないはず。
「ローンソンさん。私は、あなたのような人のために人形を作るんです」
金持ちの道楽や、人の苦痛の代替品ではなく。独り善がりな欲望を叶えるための道具でもない。
マーガレットの人形は、ローンソンのような生真面目で思いやりの深い人間が、その利他心と自省で潰れてしまわないように、傍で支えるためにある。
「あ……あ、……ッあり、がとう……ありがとう……!」
「まあ。お礼は人形を仕上げてからにしてくださいな。それと、
ローンソン氏は頷き、ポケットから自分のハンカチを出しながら、子どものように声を上げて泣いた。
こういうことがあるからリチャードを同席させていない。
紳士の涙なんて、あまり大勢に見られていいものではないのだから。
・・・・・+
それからというもの、ローンソン氏は仕事の合間をぬってホームズ家を訪れた。
人形、それも故人にそっくり似せたものを作るためには、情報は写真一枚では到底足りない。それで週末になるとお茶を飲みながらシャーロットの話を聞いたのだ。
ときには実践することもあった。たとえばシャーロットの好物は母親であるローンソン夫人の手作りのクッキーだというので、マーガレットは試行錯誤してそれと同じものを作ろうと試みた。
肝心のローンソン氏がレシピを知らないので、かなり困難なことではあったが。
むろんそれ自体は重要ではない。大事なのは故人がどのような環境ですごしていたかをマーガレットが知ることなのだ。
読んだ本。食べたお菓子。好んで着ていたワンピースの柄。
そういったものを集めて、マーガレットの中にシャーロットの人生を再現していく。
資料を得るためにふたりで街に出かけることも、しばしばあった。
「あらマーガレット、素敵な紳士をお連れしているのね。どちらの方?」
「やだ、そんなんじゃないわ、お客さまよ」
マーガレットが未婚であることはみんな知っていたし、ローンソン氏と歳が近かったこともあって、顔見知りに会うたびそんなふうに冷やかされる。
まったく世の人ときたら、ちょうどいい年齢の男女が揃えばすぐにくっつけたがるのはなぜだろう? マーガレットは何か言われるたびに、苦笑いしながら否定した。
たしかに結婚したほうが生活は楽になるかもしれない。それはマーガレット自身、何度か思ってきたたことだ。女がひとりで生きていくのはあまりに足枷が多すぎる。
とはいえマーガレットは人形作りを辞める気など毛頭ないので、少なくともそれを受け入れてくれる男性が現れなければ結婚はできない。
そしてもうわがままを言える歳でもない。世間からすれば立派な行き遅れで、だからそんなマーガレットが男性と一緒に歩いているのを見て、周りが騒ぎ立てるのも無理はないだろう。
ただ、あまりにあれこれ言われると、変に意識してしまうのが困る。
「ああもう、しばらくあの生地屋には顔を出さないことにするわ!」
噂好きの女性に少ししつこくからかわれたせいで、その日マーガレットは機嫌を損ねていた。
ぷりぷりしながら帰ってきた伯母と、彼女の隣で苦笑しているローンソン氏を見て、留守番していた甥もつられて半笑いになる。
「生地ってミセス・モリス? 今日は何言われたの?」
「シャーロットのドレス用の生地を見てたのよ、そしたら子どもができたことにされたわ!」
「あはは、そりゃひどいね」
「ただでさえあの奥さんったら口が軽いんだから、危うく根も葉もない嘘を通りじゅうに広められるところだったわよ!」
鼻息荒いマーガレットだが、最大の刺客はじつは家の中にいた。
リチャードはすっかり慣れたようすでローンソン氏の上着と帽子を受け取り、帽子掛けにそれをひっかけながら、いたずらっぽく笑ってこう言ったのだ。
「でもさ、そろそろ名前で呼びあってもいいんじゃない?」
「……ちょ、ちょっとディック、あなたまで何言い出すの……ッ」
「だっていつまでも『ローンソンさん』『ホームズさん』って他人行儀じゃないか。もう十回以上デートしてるってのに」
「で、デートじゃないったら!」
よその誰に何を言われても呆れるか腹が立つだけで済んだのに、身近な甥の言葉はなぜかマーガレットの胸に刺さった。
なぜなら彼は知っている。この家で、ふたりきりでお茶をしている伯母と顧客がどんな雰囲気なのか、他の誰より近くでマーガレットたちの変化を感じているのだから。
つまりはそう、マーガレットはすでに、アーサー・ローンソンという男性に惹かれつつあった。
名門校の出だけあって頭がいい。そしてなおかつ、マーガレットのことを女というだけで差別せず、ひとりの人形師として尊重してくれる。
物腰柔らかく、真面目で心優しい紳士だ。むしろ惹かれないはずがなかった。
しかし甥とふたりきりのときならまだしも、彼の目の前でそんなことを言われるなんて、もう今すでにどんな顔をして彼を見たらいいかわからない。
顔が熱くなったのを感じたマーガレットは思わず俯いた。きっと赤くなってきたであろうそれを隠すように、そっと手を頬にあてる。
「……あの。……僕もその……良ければ、アーサーと呼んでもらえると嬉しい」
ずっと黙っていたローンソン氏が口を開いたと思ったら、いきなりそんなことを言う。
マーガレットはびっくりしたやらなんやらで大げさに肩をびくつかせてしまった。それでますます恥ずかしくなって、縮こまりながらもそっと彼を窺う。
ローンソン氏……いや、アーサーもまた、頬の中心を桃色に染めていた。
「わ……私も……その……」
「名前で呼んでも?」
「え、ええ、どうぞ……ア……アーサー」
たかだか名前を呼ぶだけで、なぜこんなに声が震えてしまうのだろう。これではまるで小娘のようではないか。
なんて自嘲してみたところで、結局。
「それじゃあ、……これからもよろしく、マーガレット」
差し出された手の、マーガレットのそれを包むような大きさと温かさに、たしかに胸が高鳴るのを感じた。
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