29◆“カム”

 軽い靴下も十数体がのしかかってくればそれなりに重い。いや、恐らくもっと群がっているのだろうが、もはやクワイエットにはそれを確かめるすべがなかった。

 なんとか指を握り込んで傀儡糸の操作指輪を奪われることは防いだものの、そこから一歩も動けない。

 重圧に耐える脚部の伝熱機関ギアボックスがびりびり痙攣しているようだった。今にも悲鳴をあげそうなそこに、とどめとばかりにまた加重がかかる。


 よりによって靴下は飛び乗ってきたらしい。小さいながらも勢いのある衝撃がとどめとなって、ついにクワイエットはその場に膝を衝いてしまった。


「ッ……く……う……!」


 こんなところで、しかもこんな雑魚どもにやられて壊されるのはあまりにも屈辱的だ。

 絶対に許せない――許されない。それが新聞にでも載ろうものなら亡き主人アーネストの功績にまで泥を塗りかねない。


 しかし糸はすでに兵士の足で踏みつけにされている。それを利用して転ばせることも、立ち上がれさえすればできるのだが、それを靴下人形が阻んでいる。


 やはり両者は連携していた。ソック・パペットは妨害に徹し、ゆらゆらと近づいてくる錫の兵士の一体だけが攻撃の意思を見せている。他の個体は統一された制御機構でもあるかのようにじっとして、しかしクワイエットの動きを注視しているのがわかる。

 やはり、誰かが彼らに指示を送っているとしか思えない。どこかにきっと司令塔がいる。

 それさえ潰せれば一発逆転もありえようが、今のこの状況では、さすがにあまりにも望みが薄いというもの。


 真正面に立った兵士が、そのぺらぺらの刃をクワイエットの顔目がけて振り下ろす。


 正直、クワイエットは頭の片隅で一瞬だけ、万事休すという言葉を思い浮かべた。気の強い彼女にしてみれば絶対にありえない発想だったが、それくらい追い詰められていたのだ。


 まるでそれを嗤うように、がしゃん、と妙な音がした。


 はっとしたクワイエットの耳に、続いてもっとおかしなものが届く。

 甲高い少女の声で、歌うような節のついた、もう聞いているだけで頭が痛くなりそうな代物だ。はっきり言って助かったというよりもっと面倒なことになったのだと最初は思った。

 つまりそう、それはあの愛玩人形ラブリー・パペットの歌だったから。


 よいこはみぎ向け、明日はひだり

 ねずみはねこを追っかけろ

 おなかがすいたらケーキひときれ

 わたしのリボンはきつね色


 工場製の人形だ。同じものがここにもいて、そいつが司令塔だと考えるのが自然だろう。

 けれど敵が増えたとばかり思ったのも束の間、クワイエットを叩き斬ろうとしていたはずの兵士は、その剣先をこちらの顔に触れさせる寸前のところでぴたりと止まっていた。

 しかもだんだん身体の重みが減っていく。上に載っていた靴下たちが一体また一体と降りているのだ。


 その間も、あの耳障りな金属音は止まなかった。――その中に呼吸音が、つまりは生きた人間の気配があることに気付いて、クワイエットは眼を見開く。

 視界の悪い薄闇の中、ランタンの明かりが届くいちばん端のところで、ティン・ソルジャーが横薙ぎに打たれてひっくり返った。

 その背後にちらりと見えたもの。細長い金属の棒と、それを握り締める人の手、その腕が纏っているシャツとベスト。


 その背格好には見覚えがあるが、まさかこんなところにいるはずがない。

 でもそれならあれは誰? もしそうなら、さっきの歌は?


 ようやく身体を起こしたクワイエットの目の前に、その疑問の答えが顔を出す。


「あは♪ ぺしゃんこだったの、キューだった! 助けにきーたよ♪」


 にへらと笑うその口の中には外したはずの牙が見える。けれどそこに、血はついていない。


「……勝手に愛称で呼ぶなって言ったでしょう……」


 呆然として、それしか言えなかった。あのパペットに助けられる日が来るとはこれっぽっちも思っていなかったのだ。

 しかもそのうえそれが、その隣に、その人間は。その人は。

 驚きすぎて思考回路の歯車が上手く回らなくなってしまったクワイエットに、血の通った温かな手が差し出される。


 シナモン色の髪。青みがかった碧河色ナイルブルーの瞳。

 少し照れたような笑顔を浮かべながら、彼は言った。


「クワイエットさん、よかった、間に合って……おれも一緒に戦うよ」


 こんなところにいるはずのない、来るはずのない人間――セオドア・ウィットニーがそこにいた。

 テディはひ弱な手になぜか火掻き棒を握っている。恐らくはリチャード家の暖炉にあったものだろうが、……たしかにあの家にほかに武器になりそうなものはないかもしれない。あとは人形作りの工具くらいか。


 ともかくテディに助け起こされながら、クワイエットは大混乱に陥った。


「な、……なんでいるのよ!」


 驚きすぎて、まずそんな言葉が口を突いて出る。

 助けてもらっておいて不作法な態度だと自分でも思ったくらいだ。けれど今はそんな冷静を、他のもっと不安定で強烈な感情たちが隅に押しやってしまっていた。


 対するテディは怒りもせずに、まだ笑顔を浮かべたままだ。


「パペットに案内してもらったんだ」

「そうじゃなくて! 何しに来たって訊いてんのよ!」

「えっと、それはさっき言ったよ、おれも戦うって……」


 ちなみにふたりがそんな問答をしている横で、パペットはふんふんと鼻唄混じりに靴下を引っ張って遊んでいた。


「だからっ……あーもう!

 パペット、あんた一体どういうつもりなの!? こんな場所にテディを連れてきて!」

「あは? 違うのー、テディがついてきたんだよん。かわいいパペットはね、これをこーしてっ、ストローのお手伝いするのだ♪」

「……何それ……」


 とりあえずいろんなことがクワイエットの理解を超えていて、なんだかもう怒る気力もなくなってきた。

 テディが急に危険に飛び込む気になったことも、そのくせ怖がるどころか安心したような顔つきなのも、武器が恐らくリチャード家の暖炉にあった火掻き棒だということも、パペットに自ら同行したらしいことも。

 果てはそのパペットが、どういうわけかストローを手伝うなどとのたまっていることも。

 何もかもわけがわからない。


 困惑しすぎて回路が焼損ショートしそうになってきたので、クワイエットは一旦思考を切り上げることにした。

 自分の意思で一時遮断できるのは人形の強みかもしれない。そこでやることは人間と同じだったりするが――深く長く息を吸って、それをゆっくり吐き出す。


 しかしそうしたところで、目の前のもっとも混沌とした事実からは目を背けられなかった。

 パペットの手にした靴下人形のようすがおかしい。ついさっきまで玩具のように弄くり回されていたそれが、なぜか今は妙にシャンとした表情で姿勢を正しており、しかもパペットに向かって敬礼している。


「ひゃくさんじゅーにごう!」

「ヤィー」

「えーと、しゃちょーどこ? ストローもいっしょ?」

「ピギィー」


 そのうえ翻訳不能な会話までしているありさまだった。


「しゃちょー、工場行ったって。だからストローもそっち!」

「……つまり何、そいつはあんたの言うことを聞いてて、あんたはそいつの言葉が理解できるわけね……?」

「ああ、なんかラブリー・パペットのほうがこの……えーと何だろ、袋人形? より立場が上らしいよ。さっきもそれでクワイエットさんへの攻撃をやめさせたみたい」

「……」

「あーその……ここに来るまでの間に、そんな感じのことを言ってたって意味だよ」

「……、べつに怒ってないわよ、ただ思考回路あたまが低速になってるだけ」


 げんなりした口調なのもそのせい、ということにしておく。

 ともかく疲れたようすのクワイエットを見て、テディはちょっと意外そうな顔をしたあと、なぜか覚悟を決めたみたいな表情になった。そして「失礼します!」というよくわからない宣言とともに一瞬、ねずみ色の帽子を被った頭が上下したかと思うと。


 次の瞬間、クワイエットはテディに抱き上げられていた。


「え、な、何よ……」

「伝熱系統の負荷値が下がるまではおれが運ぶよ。そんなに時間はかからないだろうけど、――ふたりが別行動してるってことは、あんまりいい状況じゃないよね? 早くストローさんのところに行かないと」

「……そーね、好きになさい」


 判断能力が下がっているだけで手足の動作には支障ないのだが、もう面倒なのでされるがままのクワイエットだった。

 それに実際テディの言うとおりだ。早くストローと合流するに越したことはない。


「それじゃいっそげー! ふんふんふん♪」

「ヤィー!」


 妙に機嫌のいいパペットコンビに先導され、クワイエットとテディは廊下を進んだ。



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