28◆歯車はその手で回せ
人形たちが出て行ったあと、パンチ通りの家には居心地の悪い平穏が残された。
それを感じているのはテディだけではないらしい。リチャードもときどき、不安そうな眼差しを窓の外に向けている。
ストローとクワイエットが戦いに赴いてから、まだ一時間も経っていないくらいだというのに、そろそろ限界が近づいていた。
脳裏に甦るのは、裂けたスカートから覗くひび割れた脚。クワイエットらしからぬその姿が敵の強さを物語るようで、あるいはストローも、今度は主人の変わり果てた姿を見ても正気でいられるのだろうか。
心配と不安が胸の中にない交ぜになって、テディはそれを溜息とともに大きく吐き出した。
――けど、おれに何ができる?
クワイエットからはよくもやしっ子と言われたが、それを否定できない程度には貧弱だ。
人形を繰る以外に取り柄もない。もちろん武術の心得などない。
そんなテディが後を追ったって足手まといになるだけだし、そもそもグラン・ギニョール社の住所を知らない。
けれど、でも、もし……嫌な想像がテディの頭の中を駆け巡る。
ふたりが戻って来なかったら。クワイエットがもう二度と舞台に立たなかったらと思うと、考えただけで胸が張り裂けそうだった。
「――おじーちゃん、かわいいパペットのお口はどこ?」
そんなテディの思考を打ち消すように、少女の明るい声が室内に響く。
いつしか俯いていた顔を上げると、ラブリー・パペットがリチャードの膝に手を置いて、彼の顔を覗き込んでいるのが見えた。その姿だけなら甘えているようで愛らしくすらある。
だが絵面に反して、発言された内容は不穏極まりないものだった。
「口というのは、あの牙がついた顎のことかい?」
「そうだよー! ……もしかしてもしかして、捨てちゃったりしてないよね?」
「あ、ああ、保管するよう警察に言われたからね……でもどうするんだい、あんなもの」
「もちろんお口を元に戻すのー、今のお口じゃなんにも噛めないもーん」
いーっと口の中をリチャードに見せながらパペットは言った。そこにあるのは歯も歯茎も木製の、ごく一般的な人形用の顎だ。
彼女はもうただの愛玩用の人形で、あんな牙など必要ない。
もしかするとこれは暴走の予兆なのだろうか、牙と味覚を取り戻してまた殺戮人形に戻ろうとしているのかという恐ろしい疑念が、テディの内に沼のように噴き出した。どろりと濁ったその水面にいつかの怪物の顔が浮かぶ。
しかし恐怖を思い出したテディとは対照的に、パペットが浮かべたのは柔らかな笑みだった。
「かわいいパペットはねー、ストローのお手伝いするの!
つまりー、しゃちょーをやっつけ……るのはむずかしーけど、えと……あ!
えへん、と口頭で効果音をつけて胸を張るパペットに、リチャードは困惑混じりの笑みを浮かべている。
パペットの言動はいつもひどく唐突だ。突拍子も脈絡もなくて、なんていうか出来の悪い即興劇みたいだ、なんてテディは思うのだった。
けれど今は、いかに彼女を苦手とするテディでも面食らってばかりはいられない。
テディは立ち上がってふたりのところまで行った。思えば、自分からパペットに近づいたのはこれが初めてだったかもしれない。
「どういうこと? パペット、今からグラン・ギニョール社に行くの?」
「そーだよぉ」
「でもどうして……」
「社長のフォークスはきみにひどいことをしたんだろう? ストローに聞いたよ……だから戻るのを嫌がっているとね……。
パペット、きみはもうこの家の子になったんだ。フォークスのことはストローたちに任せておけばいい」
リチャードが優しい手つきでパペットの頭を撫でる。
それを心地良さそうに目を細めて受け入れたパペットだったが、やがてパカリと瞼を開けた。その真っ青な硝子玉の表面には人間たちの顔が映り込んでいる。
テディもリチャードも、それを見て自分たちがどんなに不安を露わにしていたか気がついた。
「おじーちゃん、ストローがちゃんと帰ってくるかなって、心配なんでしょー?」
その言葉にリチャードはすぐ答えなかった。
図星なのだとテディにもわかった。それにテディだって同じことを憂いていたのだ、気持ちは痛いほどにわかる。
「かわいいパペットは自由なお人形になったんだっ。それからー、それでぇ、今はおじーちゃんのお人形なのー。
だーからね、おじーちゃんのために、したいことをしちゃうんだぁ」
「パペット……」
「しゃちょーは怖いねぇ……でもね、あのね、おっきいのがストローの邪魔するんだよ。だからかわいいパペットはぎざぎざのお口が要るのっ」
迷いのないパペットの態度に、リチャードはしばし茫然として彼女を見つめていた。
もちろん躊躇いもあっただろう。あの凶器をパペットに持たせることもそうだし、それで彼女がグラン・ギニョール社に戻ったら、帰ってくるかどうかわからない。
けれど老人は、……いや、人形師は、頷いたのだ。
「わかった。テディ、手伝ってくれ」
それからふたりと一体は作業部屋に移動して、パペットの改造作業を行った。
鍵つきの保管箱から元の顎を取り出したのはテディの役目だった。ぎらりと鋭い牙に背筋がぞっとするのをなんとか堪え、できるだけ平静を装いながらリチャードに手渡す。
獣の顎は見た目から想像するよりもずしりと重い。
つけ外しも簡単ではないらしい。リチャードたちの会話によれば、パペットには痛覚のある部位がいくつかあるそうで、まずその機能自体を止めてからでないと分解ができないとのこと。
テディはそれを隣で聞きながら、ただただクワイエットのことを考えていた。
今ごろきっと銀糸を躍らせて戦っている。パペットとやりあっていたときの優雅で隙のない身のこなしを脳裏に浮かべ、果たして彼女が苦戦することなどあるだろうか、などと思う。
やはりテディが心配する必要なんてないんじゃないか。
そんなふうに考える、努めて良い方向に考えようとしている――けれど思考を回せば回すほど、なぜか身の内には焦燥と不安ばかりが募っていく。
「……よし。あとは元通りに組み直すだけだ。
ありがとうテディ、もう部屋に戻っても構わないよ」
「あ、うん……」
気を遣われたような気配に、テディは妙なもどかしさを覚えながらも頷いた。
そうだった。もうとっくに荷造りはあらかた終わっていて、あとはじっくり今後の行先について考えなければいけない身の上だ。
いい加減あの手紙に返事を出さなければ、世話をしてくれた教授に対しても失礼になってしまう。
テディはのろのろと自室に戻った。ここをそう呼べるのも、もうあとどれくらいになるだろう。
「……っと。あーもう――」
机の上に開きっぱなしの手紙を手に取ろうと思って、数歩もいかないうちに床に置かれたトランクに足を引っかけそうになった。
鞄をそこに置いたのも自分なのに小さく悪態をつく。そのとき、少し俯いたからかトランクの上に転がされた小包が視界に入り、テディは思わずそれを手に取った。
ある意味これが始まりだったと言えるかもしれない。
これを卒業式の日、学校に取りに戻らなければ、パペットに捕まることもなかった。テディさえ関わらなければクワイエットとストローも事件を調べようとはしなかったし、その背後にあるグラン・ギニョール社のことも知らないままだったろう。
ストローには悪いけれど、そうだったほうがよかったとテディは思っている。彼女が動かなければクワイエットも自ら危険に身を乗り出すことはなかっただろうから。
でもそれなら、引鉄を引いたのは他ならぬテディ自身だ。
それに、この小さな袋の中身を思うと……やはり、このままこの街を去ったら、きっとテディは一生後悔する。
『もっと腕を磨いて出直しなさい』
『足りないのはまさにそこ。……芸能の世界でやってくには気が弱すぎるのよね』
たとえ運命に拒まれても。いや、そもそもそんな都合のいい運命なんてなくたっていい。
人形繰りの神からの手助けなんて、あてにする必要は初めからなかったのだ。
そうだ――迷うことなどない。
テディが進みたい道はもともとひとつだけ。クワイエットと出逢う前から、幼い日に見たあの華々しい舞台を目指してここまできたのだ。
アーネスト・アイアンブリッジのような人形遣いになりたい。彼に認められたかった。それが叶わぬ夢になるとしても、この世にはまだ、彼の遺した人形が生きている――。
テディは立ち上がり、小包をポケットにねじ込んで自室を飛び出した。
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