27◆ゴーイング・アンダー

 首を絞め上げていたマーガレットの手の力が、ふいに緩んだ。

 ストローはその場に転げ落ちる。拘束からは逃れられたものの、衝撃で床に積もっていた埃が舞い上がって、視界が砂色に曇った。人間なら肺を病みそうな量だ。


 埃が収まるのを待ちながら、ほんの少しだけ期待してしまっているストローがいた。


 もしかしたらストローの言葉がマーガレットに届いたのではないか。人形にされたマーガレットのどこかに彼女の心が残っていて、それが息を吹き返してくれたのではないか。

 殺そうとしていた相手が、かつて自分が作り上げた人形だと気付いて、それで手を止めてくれたのではないか、と。


「……、ええ。そんなはずはないものね」


 それが愚かで無謀な望みだということはストロー自身よくわかっていた。


 だから埃の晴れた室内にその人影を見ても驚かなかったし、わずかに胸底に澱んだ失望感についても、それ以上は言及しないことにした。期待するほうが間違っている。


 のっぺりとしたその顔は、恐らく表面に人工皮膚が張られている。眼窩の周りだけわずかに剥がれて元の色が覗いているのがその証拠だ。

 その土気色の瞼の下から洋燈色ランプブラックの虚ろな瞳がストローをねめつけている。


「私たちの……娘はどこだ……?」


 扉の前に立っていたフォークスは、ストローを見とめるとふらふらした足取りで近づいてきた。

 恐らく彼もかつては立派な姿をしていたのだろう。リチャードほどではないが背も充分に高く、服や靴も社長らしく質の良いものを着ているようだと、そういうことには疎いストローですら感じることができた。

 しかし今はどれも家と同じくらいぼろぼろの埃だらけで見る影もない。マーガレットと同じように服が穴だらけで、恐らく虫や鼠に食い荒らされたのだ。


 マーガレットの視線は彼に注がれていた。彼が来たから、ストローは離されたのだ。

 やがてフォークスがストローの前に立ち、マーガレットは彼の邪魔にならないよう無言でうしろに下がった。


「私たちのかわいい娘ラブリー・パペットじゃない……じゃあないんだ……あの子はどこにいった?」


 独り言じみたその言葉にストローは眉を顰める。

 恐らく昨日も同じことを言っていたような気がするが、あのときはストロー自身があまりにも冷静さを欠いていたため、正直まともに聞いていなかった。それにしても今この男は何と言った?


 ――人形パペットが『私たちの娘』?


 言われてみれば、マーガレットの容姿は明るいキャラメル色の髪に、清々しいヘブンリー・ブルーの丸い瞳。

 あのパペットもまったく同じだ。わざとマーガレットに似せて作ったというのだろうか。

 それに、私たち、という言葉が表すのはつまり……。


 しかしそこでストローの思考を遮るように、フォークスの腕がしなりをつけて飛んできた。


 ストローはとくに防御もせず、敢えて避けようともしないでその平手打ちを受ける。

 軽い身体は勢いよく吹き飛ばされ、近くのテーブルにぶつかって派手に倒した。

 卓上の食器が残らず落ちて、耳障りな音とともに無残に割れる。白い陶器の欠片に混ざったぼろぼろの黒っぽい物体は、カビだらけのうえ腐って変色しているが、元はパウンドケーキだろうか。


 破片のせいで顔の人工皮膚が少し裂けた。けれど人形だから痛みは感じないし、血も流れない。

 そこから内側の麻藁が覗いてしまったのにも構わず、ストローは立ち上がった。


「パペットは、もうここには帰らない。あなたのような……」


 言いながらその瞬間思い出したのは、前庭に放置された煙出人形のことだった。直されるどころか、省みられることすらない哀れな執事の亡骸は、今もそこで風に慰められている。


「……無責任な人形師に、人形の主である資格はない……少なくともこの街ペープサートはきっと認めない。

 ましてやマーガレットはあなたの妻ではないはず。

 随分遅くなってしまったけれど、私の主人を返してもらう。そのために私はここに来た」


 そのために、作られた。


 ストローは力強くフォークスを睨んだ。いつの間にか彼の頬にも一筋、鋭利なナイフで入れたような細長い切り込みが生じている。

 人工皮膚の下の肉体は乾ききっているのか、フォークスからも血は流れなかった。


「誘拐犯め」


 裂傷を気にも留めず、フォークスは言う。


「貴様が娘を拐ったんだな。……娘? 息子だったかな?

 まあいい……とにかく次の狙いが我が妻だというなら、彼女を護衛の元に連れていかねば。あれは優秀だが足が遅い……」


 途中からは独り言らしく、彼の視線はストローから外れてあちこちを彷徨った。そのままくるりと背を向けた彼に、マーガレットが従うように続く。


 もちろんストローはそれを追いかけようとした。

 けれど悪いことに、この部屋には扉がひとつしかないし、彼らのほうがドアに近かった。そしてふたりと入れ替わりに、恐らくはこちらの足止めのために錫の兵隊が顔を出す。


 ほとんどはクワイエットが相手をしてくれているはずなのに、まだいるのか。


 折れ曲がった剣は廊下に捨ててきてしまった。かといって素手でやりあうには、彼らのブリキの身体は少しばかり硬い。

 呪具を使うには反動がある。煙出執事と戦ったときのように靴下人形敵の仲間に肩代わりさせる方法もあるが、柔らかい靴下と違って金属に五寸釘を刺すのは容易ではない。

 だいたいこの数にいちいち呪術を使っていたら呪具が足りなくなってしまう。


 ストローはとって返し、窓辺に向かった。

 最初にこの部屋に入ったときに引き剥がしたカーテンを拾いあげる。この場にクワイエットがいたらきっと「だいたい窓はぜんぶ板で塞がれてるんだから要らないわよね」とでも言うだろう。

 そうして手に入れた大きくて多少は丈夫な布を、群がってきた兵隊たちに向かって広げるように投げつけた。


 さすがに全員は包みきれないが、一個小隊くらいなら充分だ。

 もともと視力が悪いうえに最低限の明かりを奪われて、ついでに密集した状態でこうされたら、かなり身動きが取りづらくなったことだろう。これで大幅に戦闘能力を下げられたはずだ。


 それに、そもそも戦う気などない。

 兵士たちが中でもがいている布の上を、ストローは軽やかに踏み越えていく。


 カーテンの呪縛を逃れた数体がこちらに剣を向けるけれど、生憎彼ら自身の仲間が壁になって切っ先が届かない。たまに触れそうなことがあっても釘の爪でいなすのは容易い。


 やがてカーテンの道が終わると、その先に待ち構えていた一体の肩を、飛び降りる際に勢いをつけて思い切り殴った。

 留めの甘い継ぎ目が外れて銀色の腕が宙を舞い、その手が取り零した剣を素早く拾う。

 そして続いて襲ってきた二体目三体目はそれを使って対処した。あっという間に刃毀れした脆い剣をそのままそいつの足にくれてやり、代わりの剣をもらい受ける。


 廊下の端にフォークスたちが消えるのが見える。

 元来た階段と同じ方向のようだが、どうも行先がおかしい。彼らが向かっているのは玄関ではないらしい。


 見失うわけにはいかない。兵士の相手など最小限に留めて、今は走ることが最優先だ。


「哀れな木偶たち、私の道を塞がないで」


 こちらを追えなくすれば充分だろうと、姿勢を低くして脚だけを狙う。そうして数体振り切ったとき、ちょうど階段の前に着いた。

 想像どおり、来たときは暗いせいで気づかなかったが、階段は複数あった。


 玄関のほうは妙に静まり返っている。ここまで物音が聞こえてこないだけかもしれないが、この静かさでそれは少し考えにくい。

 もしかしてクワイエットに何か、と一瞬考えたものの、ストローは頭を振った。


「……キューなら大丈夫。彼女はとても強いもの」


 そしてその強さがストローをここまで導いてくれた。

 ストローひとりだったら、昨日ここで壊されて終わっていた。フォークスを討てず、マーガレットを救えずに、存在意義も物質としての形もすべて失うところだった。

 リチャード――ディックと再会していたことにすら、気付けないままだったのだ。


 彼は一緒に暮らそうと言ってくれた。この呪物でできた身体を直して、呪術師でもないのに受け入れようとしてくれた。

 ペープサートの人形師であるというだけでは、ふつうそこまでできないだろう。


 実のところ、まだ戸惑いはある。

 けれど。


「使命を果たすのに迷いは要らない。……ディックのためにも、マーガレットを助けるの」


 ストローは玄関に続く階段への未練を振り切り、向かいにあるもう一つのそれに眼を向けた。

 その先にも塞がれた窓しかないのか、真っ暗で何も見えない。まるで巨大な怪物が口を開いてこちらを誘っているようだ。

 悩む暇はない。背後から金属音が近づいてくる。


 意を決して一歩踏み出すと、ばきりと嫌な音がした。


「――あ」


 ぐらりと重心が崩れ、身体が不自然に沈み込む。手すりに向かって咄嗟に伸ばした手は、しかし何も掴めずに宙を掻いて、それでやっとあるはずのものがないことに気が付いた。

 腐敗が進みすぎて、この階段はもうまともな形をしていない。


 ストローはそのまま、怪物の胃袋へと転がり落ちていった。



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