26◆それぞれの苦難
軽く引き受けることを宣言してしまったが、この数は少々骨が折れそうだ。
と、……兵隊の背後からまたさらに靴下が数体湧いてきたのを見て、クワイエットは思った。
放っておいてもソルジャーが誤認して勝手にソックを潰してくれる可能性もあるが、それをあまり期待しすぎるわけにもいかない。
それに借りもののドレスをおしゃかにするのは気が引ける。リチャードには返さなくてもいいと言われているけれど、貰うにしても汚したり破いたりするのはクワイエットの流儀として好ましくなかった。
などどごちゃごちゃ考えたところで、敵の数は減りはしない。むしろ増える一方なので、一旦思考を止め、意識を指先に集中させた。
この糸繰りの技術はずっと昔にある腕利きのパペッティアから習ったものだ。
旧主人アーネストにとっては演芸の道の師匠であり、個人的な親友でもあった人物で、
ゆえにクワイエットも信頼していたのだ。ほんとうなら主を失ったとき真っ先に彼を頼りたかったが、残念ながら彼はアーネストより先に天国へ行ってしまったので、それは叶わなかった。
しかし、もし彼が今でも存命だったなら、ストローやテディと出逢うこともなかったろう。
それが良いか悪いかなんて、それこそ考えるだけ無駄だ。
「……正直あんたたちに同情してるのよ」
右中指は下、人差し指と薬指を重ねて、そのまま手首を引く。その上に運んだ左手は親指と人差し指で糸を摘んでひと捻り。
ギュッと小気味いい音を鳴らして、強化繊維は兵士を一体締め上げる。
そこから一気に両腕を振り上げる。下ろすためではない。糸同士が組み合って、錫の身体を滑車代わりに、他の兵隊を持ち上げる揚力を生むのだ。
「いい主人に恵まれないのは、人形にとっては最悪の不幸だもの」
掌を返して拳を突き出せば、一体がぐるんと回って他の個体を派手に蹴散らした。
やはり継ぎ目が弱い。何体かは哀れましく空中分解して、頭やら手足がばらばらに転がった。
がしゃがしゃと耳障りな共鳴があたりに響き渡る。
勢いあまって剣がすっぽ抜けて飛んできたのを、クワイエットはひらりとかわした。背後の壁に突き刺さったのか、わざわざ振り向いて確認はしなかったが、ずどんという鈍い音を背中で聞く。
「危ないわね、髪が切れたらどうしてくれるのよ!
なんて言ってもそのつるつる頭じゃわからないかしらね! そもそも聞いてる!?」
「……
「
「聞いてないわね! このあたしを誰だと思っ……いや知らないんでしょうけど、なんにせよ無礼だわ!」
錫の兵隊はどうやら自我がほとんどないか、あるいは感情出力が極めて低く設定されているらしい。その抑揚のない声は冷たくクワイエットを無視していた。
腹を立てても仕方がないが、同情も要らなかったかもしれないと思いながら、クワイエットは再び糸を繰る。
地道に倒すしかない。一体一体は大したことはないし、壊し続けていればいつかは終わる。
けれどできれば早めにストローに合流したい。
そう、思ったときだった。
兵士を壁に叩きつけたところで、反対側の山積みになった残骸の中からソックが数体飛び出してきた。
それだって本来なら大した脅威ではない。だが、今は糸のほとんどをティン・ソルジャーに向けていて、この二種類の敵性人形は材質だけでなく体格もまったく異なっていた。
つまり多少大きさのある兵士に合わせて糸の張りも攻撃も大ぶりになっていたから、より小さな靴下には適切に対応できなかったのだ。
かろうじて数体ははたき飛ばせたが、過半数のソック・パペットは攻撃を掻い潜ってクワイエットに飛びついてきた。
一体は弱い。小さく非力で、それこそ素手で軽く払えるほどに。
だがそれが十数体もいれば話は別だ。
どこにそれだけ隠れていたと叫びかけて、ついさっき兵士が発した言葉を反芻する――陣形は迎撃、そう言っていた。
兵隊がわざと壁になって隠していた? そんな知恵が回るようには見えないが、また執事のような司令塔が別にいる可能性はある。
しかし今のクワイエットの視界に、それらしい個体は見えない。
「ッとに……もう……!」
つまり、淑女は珍しく窮地に陥ったのだった。
・・・・+
ストローは階段を駆け上がって、一直線に最奥の社長室を目指した。フォークス以外に興味はない。
天井の穴はそのままで、お陰である程度は見渡せるほど明るい。ついでに落ちていた五寸釘の回収もする。
そして幸いなことに二階は警備も手薄になっていたようで、道中誰かに阻まれることなく、すんなり目的地に辿り着けた。
躊躇いなく扉を開け放つ。
それだけでかなり室内の埃が動いたのがわかる。それほどまでに、この屋敷内の空気は澱んでいるのだ。
なぜならここもジュディ通りの廃屋と同じで、生きた人間が住む家ではないのだから。
果たして室内には一つしか人影がなかった。
しかもどうやらここも窓は塞がれているようで、ランタンをクワイエットに預けてしまっていたストローにはほとんど何も見えない。暗がりに誰か潜んでいるのを察するので精一杯だ。
だからまず、人影を無視して中に飛び込み、手当たり次第に壁を殴った。
侵入者に気づいて寄ってくるその人を避けつつ、ようやく見つけた窓を一箇所、力ずくで解放する。つまりカーテンを引っ剥がし、板を窓枠ごと叩き割った。
躊躇はしない。こういうときは後先を考えずに思い切りやるのがいいらしいと、クワイエットを見て学んだ気がする。
ようやく差し込んだ外の光は、あたかも絶望の夜を照らす一筋の希望のごとく、ストローの前に真っ白な帯を引いた。
光源の絨毯はまっすぐ人影へ続き、そこに立つ、待ち焦がれた唯一無二の主の姿を照らし出す。
「……マーガレット……」
名前を呼んでも彼女は応えてくれない。
生身の身体に無理やりねじ込んだだけの硝子の瞳では、きっとストローの顔など見えないだろう。声も聞こえるのかどうか。
そもそも六十年前に死んだ人間の身体が、もはやどんな状態になっているかも想像がつかない。
美しかったキャラメル色の髪は萎れ、今は悲しいほど色褪せてしまっている。偽物の青い眼だけが鮮やかで、それがなおさらに空しかった。
服もストローの記憶にある、職業婦人らしい質素かつ洗練されたドレスとは違い、穴だらけの薄汚い
しかも胸元には衣装と不釣り合いに派手な首飾りがぎらぎらと輝いている。品がいいとは言い難いうえ、彼女に似合ってもいない。
「フォークス……フォークスはどこ? 彼を殺さなくては」
「……リィ」
「え?」
マーガレットの口がかすかに開いている。たしかに今、彼女は何か呟いた。六十年ぶりだが間違いなく彼女の声だった。
思わず立ち止まったストローに、マーガレットはゆっくりと近づいてくる。
「チャ……リ……」
チャーリー。
仇敵チャールズ・フォークスの愛称。
なぜあんな男を親しげにそう呼ぶのかと、ストローは問いたかった。彼を殺すために自分を作ったのではなかったのかと。
だが、そうした疑問を言葉にする暇などなかった。
マーガレットの不自然なほど美しい白い手が伸ばされる。立ち尽くしているストローを抱き寄せようとするかのように――しかしそれは、なんの躊躇いもなくストローの首を締め上げた。
人形だから、呼吸は必要ない。
けれど、……何も感じないわけでは、ないのだ。
「マ……ガレッ……離し……っ」
発声のための機関がちょうど彼女の親指に押し潰された形になっていた。それで言葉が途切れ途切れになって、まるで苦しく喘いでいるようだと、ストローは己でも自嘲気味に思った。
そのまま身体を持ち上げられる。足が床を離れ、ふらふらと空中を踊る。
両腕だって自由ではあったが、ストローはどうしても抵抗することができなかった。
五寸釘を爪のように構えた拳で殴ったら、マーガレットが傷ついてしまう。人形の膂力で蹴ったりしたら、きっと彼女の骨は簡単に砕ける。
そんなことはできない。
単なる感傷などではなく、「主を傷つけてはならない」というのは、すべての
それにたとえエニグマレルが狂っていて自由が利いたとしても、マーガレットに攻撃したくない。ストローは自らの意思でそう思う。
(私はフォークスを殺す呪具で、マーガレット、あなたを助けるための道具でもあるから)
せめてマーガレットを痛めつけずに無力化する方法があればよかった。実際にそういう使いかたのできる呪術も心得がないわけではなかったが、喉が使えなければ呪詛を唱えることができないのだ。
だからストローは、自らを絞殺しようとする主の手を――人形相手にそんなことは不可能だという思考すら持たされていない、つまり一切の自我が奪われた空っぽのマーガレットを悼むように、両手で優しく包んだ。
「大丈夫、……私がきっと……終わりにする……」
この悲劇に幕を引くまで、壊れるわけにはいかない。
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