20◆運命は埃にまみれている

 どうも調子が狂うな、とテディは思っていた。


 今朝がたクワイエットたちが来て、例のパペットを返却していった。

 ストローが言うには安全装置のようなものを取り付けたそうだが、見た目は以前と変わりなく、具体的に何をどうしたのかはわからない。とにかくしばらくようすを見てほしいとのことだった。

 それで安心していいものかどうかわからないまま、半日がすぎようとしている。


 今のところパペットは大人しく、……まあ、その、とりあえず暴れてはいない。ただちょっと家の中をぱたぱた動き回っていることが多いので、落ち着きはまったくないが。

 見た目と同じくらい思考回路も子どものようで、目についたものにすぐ興味を持って何かしたがる。


 かわいい人形ラブリー・パペットの名前どおり、彼女の仕草は見ている者の気分を和ませるものがあった。顔の内部はかなり精巧に作られているのだろう、くりくり動く大きな眼も相まって、その表情は活き活きとして豊かだ。

 そんな彼女を優しい瞳で見つめるリチャードがそこにいて、それだけなら微笑ましい家族の風景と呼んでも差し支えないほど。


 だが、テディの脳裏にはあのおぞましい光景が未だこびりついている。

 暗がりの地面に無造作に転がされた哀れな子どもたちと、その中で血に塗れて笑っている凶悪なパペットの姿を、とてもじゃないが忘れられそうもない。


 まさしく悪夢だった。できるなら、忘れてしまいたい。


「おじーちゃん、見て見て。お外をおっきなカバンの人が歩いてるのー」

「ああ、郵便配達だね。手紙を運んでいるんだよ」

「お手紙! ……お手紙おてがみ、だーれが出した♪ だーれに出した♪ はらぺこヤギさーんに出ーしーた♪」


 テディの気持ちなど露知らず、パペットは無邪気に歌っている。歌詞も節も聞いたことがないが、即興で作ったのだろうか。

 ちなみに催眠装置も牙のついた顎に組み込まれていたそうで、今のパペットがいくら歌っても周りには影響がない。


 しかし、そのいやに明るい節の歌を聴いていると、その平和さにかえって気分が落ち込むテディがいる。


 石を入れ替えて正常になったと言われても、それでテディの受けた精神被害トラウマがなくなるわけではないし、殺された子どもたちも帰ってはこない。彼らの親たちは今だって嘆き悲しんでいるだろう。

 もちろん、そもそも悪いのはパペットをそんなふうに作った人間だということはわかっている。

 ……頭ではわかっているのだが。


 沈みかけた思考を現実へ呼び戻すように、そこでリリンと鈴の鳴る音がした。

 郵便受けからだろう。外扉の裏に小さなベルが付けてあって、配達人が手紙を入れるために開閉すると鳴るようになっているのだ。


 そうとは知らないパペットが、ぴょこんと立ち上がってあたりをきょろきょろ見回した。


「なんか音がしたよ? きれいな音だったの」

「どうやら配達人がうちに寄ってくれたらしい。パペット、手紙を取ってきてくれるかね」

「はーい♪」


 パペットは元気よく返事をして、ぱたぱた走って玄関に向かう。

 そしてすぐに戻ってきた。手には白い封筒がひとつで、どうやら手紙はそれだけらしい。


「お手紙、テディのだったよー! はいどーぞっ」


 笑顔で差し出されたそれを、テディは一瞬、受け取るのを躊躇ってしまう。


 他意はなかった。ただ目の前に立たれた瞬間に、咄嗟に身体が強張ってしまった。

 情けない話だが彼女が恐ろしかったのだ。

 今はもう牙もなく、顎のバネも外されていて、だからたとえ襲われたとしても殺されたりしないとわかっているのに。


「あ、……ありがと」

「……テディ、かわいいパペットのこと嫌い?」

「えっ? いや……そうじゃないよ」


 言い淀みながら受け取った封筒には、人形学校の箔押しがしてあった。


 とくにリチャードからもパペットからも何も言われなかったが、その場の空気が居た堪れなくて、テディは逃げるようにして居間を出た。

 他に行き場もないのでそのまま自室に引っ込む。

 普段は片付いているが、今は部屋の真ん中に大きな旅行鞄トランクが鎮座していた。その上に小さな小包がひとつ。


 椅子はあるが、こういうときはついベッドに向かってしまう。寝転がって手紙を開封した。


 封筒の中身は学校で世話になった講師から、テディの今後について気にかけている内容の手紙だった。

 伝手のある就職先をいくつか紹介してくれている。天下の人形学校ともなればその一覧も豪華なもので、誰でも知っている大きなサーカス団や世界規模の興行師組合の名前もあった。

 いきなり独り立ちは難しいので、最初はそうした組織に所属して現場を学ぶべきだ、という旨の丁寧な注釈つきだ。


 言わんとしていることはよくわかる。

 ここ数日で思い知った。自分がとんでもなく世間知らずの甘ちゃんで、あまりにも弱いということは。


 正直、どうしてクワイエットが頷いてくれないのかわかっていなかった。

 単に知識と経験が足りないのだとばかり思っていた。それ自体は間違いではないのだろうが、たぶん、その単語が意味するもの自体を捉えられていなかった。


 人形の分けかたはいくつかある。

 まず愛玩用の人形ドールと演芸用の傀儡マリオネットの二分類。そしてさらに、エニグマレルを持つものとそうでないもの――自我を持つものとそうでないもの。

 だから操演者にも二通りある。

 自律しない通常の人形を用いる芸人と、自ら動き話す人形とともに歩む者だ。


 そして、テディは後者になりたかった。

 幼いころたった一度だけ見たアーネストの舞台に憧れて、十歳で故郷を離れてペープサートに来た。


 思えば恵まれていたと思う。

 両親はテディの夢を理解し、人形学校に入るために必要な勉強や資金を支援してもらった。準備が充分だったからこそ入学試験にも一発で通った。

 できれば人形に携わる職業人のもとで下宿したいという希望も通り、リチャードが迎えてくれた。


 そのうえ独り身になったクワイエットが、自分とほぼ同時期にペープサートを訪れていて、入学してすぐに知り合ったのだ。


 あまりにもできすぎているその出逢いを、テディは運命だと思った。

 きっと人形遣いの神がいて、自分たちは手を取り合うよう宿命さだめられたに違いない、と思ってしまったのだ。


 だから何度断られてもへこたれなかった。普段は同級の女の子にすらまともに話しかけられない奥手のくせに、彼女に対しては果敢に口説き続けた。

 運命に結ばれているから、いずれ振り向いてくれるものと無条件に信じていたのだ。


「……バカだなぁ、おれ……」


 そして今も、恩師が示してくれた選択肢にちっとも心が躍らない。

 どれもまっとうな道筋だ。それが確かなだけに、そのどれを選んだとしても、きっとクワイエットが思うような社会経験は積めないだろう。


 操演者の命を狙う者さえいた、と彼女は言った。彼女はそういう環境でずっと芸をして生きていたのだ。

 舞台の上では屈託なく笑顔を振りまいて、あの手この手で観客を沸かせていた、その裏で。

 世の中に悪意を持った人間がいることくらいはテディも知っていたけれど、幸運にも今までそれを目の当たりにしたことがなかったのだ。


 だから、パペットが恐ろしかった。

 躊躇いなく子どもたちを貪り喰って笑っている怪物を前に、何もできなかった。テディがしたことといえば恐怖のあまり嘔吐して気絶しただけだ。


 問題なのはテディに抵抗する力がなかったことではない。

 たとえクワイエットのように戦えなくても、もっと必死で生きようとしなければいけなかった。どんなに恐ろしくとも眼を逸らさず、死神にこうべを垂れたりせずに、最後まで生還することを諦めてはいけなかったのだ。


 運がよかったから救出されただけ。クワイエットたちが来なければきっと死んでいた。

 そしてそのあとも、周りで起きるできごとの数々をただ眺め、流され続けている。


 ――しかも未だにパペットを見ただけで、怖気づいて固まるなんてさ……。


 これではいつまで経ってもクワイエットがこの手を取ってくれる日は来ない。その前に彼女が放浪の旅に戻ってしまう。


 そもそもテディだって卒業したのだから、もうこれ以上この家に居座ってはいけないのだ。

 だからトランクを出したのに。そして行先を決めなければいけないのに、そのためにもらった手紙をいくら眺めても、テディの心は決まらない。

 ……まだ、運命クワイエットへの未練が絶ち切れない。


 思わず溜息を吐いた、そのときだった。


 にわかに部屋の外が騒がしくなった。具体的にはパペットが何か喚いている。

 まさか暴走したのかと思い、つい震えてしまう情けない脚を叩いて、テディは無理やり立ち上がった。


 どうやら彼女が騒いでいるのは玄関らしかった。リチャードの狼狽するような声も聞こえたが、何よりテディの耳に、愛しい彼女の悲鳴めいた叫びが突き刺さる。

 それを理解した瞬間テディの身体は、無意識のうちに走り出していた。


 そして目に飛び込んできたのは、玄関先に散らばった何かの残骸。その傍らにしゃがみ込んでいるのは、髪やドレスがひどく乱れて汚れた状態のクワイエットで、彼女は何か抱きかかえていた。

 その亜麻色の丸い物体には深緑色のリボンがついていて、そして、そのそばの硝子の瞳と眼が合う。


「……何があったの!?」

「見てのとおりよ。ストローた」


 虚ろな茜色に、今は光が灯っていない。


「……こうするしかなかったのよ」


 クワイエットはそう言って項垂れた。ストローの頭部を抱く腕は、かすかに震えているようだった。



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