19◆悪夢への階段

 念のためソックたちからエニグマレルを引っこ抜いておいた。スモーカーが一体だけとは限らないし、彼の他にも司令を送る人形がいるかもしれない。

 ストローが負傷した今、また大勢の相手をするのは避けたかった。


 そもそも片腕を破損した時点で引き返してもよかったのだ。

 もう所在地は覚えた。そして帰っている間に消えている、ということもないだろう。

 ソックだけでも数が多すぎて、彼らを連れて引っ越すのには相当な手間と時間がかかるだろうし、そもそも相手に逃げるという発想自体ないような気がする。でなければ逃げたパペットを野放しにはしまい。


 だが当のストローが帰ることを渋った。もうここまで来たのだし、片腕くらいなら問題はないというのだ。

 たしかに腕一本と口さえあれば戦えるかもしれないが、敢えて不利な状態をおしてまで進む必要はない。

 一旦戻るべきだというクワイエットの主張は、しかし受け入れられなかった。ストローは黙って首を振っただけで、そのままランタンを拾い直してさっさと邸内に入っていく。


 クワイエットは彼女に聞こえるくらい大きな溜息を吐いてみたけれど、ストローが反応したようすはなかった。


「……やっぱり変」


 たぶんこのぼやきも聞こえていないだろう。


 ストローはこれまであまり自己主張をしてこなかった。

 だが、べつに素直な性格というわけではない。単に彼女が無気力で、無関心で、ゆえに世間に対して不干渉でいただけだったのだ。

 そんなストローが、このところ自発的な行動ばかりしている。らしくないといえばらしくない。


 テディの救出に関してだけは問題なかった。

 人殺しの道具として作られた人形が、自分の意思で人間を救おうとしたのだから、誰の目から見ても悪いことではないと思ったからだ。少なくとも、クワイエットにとっては。


 それがきな臭くなってきたのはいつからだろう。

 ……血染めのエニグマレルを見てからか。あるいは、復元されたパペットに対するリチャードの態度のせいか。


 今朝、彼の元にパペットを返してきた。

 リチャードは優しい微笑みでパペットを出迎えた。まるで遠くから遊びにきた孫娘に対するように、彼女を抱き上げて「おかえり」と言ったのだ。

 それを見てクワイエットですら羨望に近い感情を覚えた。ストローの心境も推して知るべしだろう。


「――って、ちょっと待ちなさいよ! 真っ暗なんだからひとりで先に進まないで!」


 少し考え込んでしまったせいで、ストローの持つランタンの明かりが遠ざかってしまっていた。

 見失ってはまずいとクワイエットは急いで邸内に飛び込む。人形が人間ほど明かりを必要とはしないのは闇を恐れないというだけで、暗視能力があるわけではない。

 こちらの大声に気づいたストローが、立ち止まってゆっくり振り返る。


「……ふあっ?」


 慌てていたから、足許をあまり注意していなかった。ストローと目を合わせたまま、めりめりと嫌な音を伴って体勢を崩したクワイエットは、咄嗟に糸を上に放る。

 幸い鉤がうまくどこかに引っかかったので、そのまま無様に転ぶことは避けられた。


 ストローがとことこ小走りで駆け寄ってくる。

 その手許のランタンに照らされて、ようやく足場の異常が明らかになった。


 床板が派手に砕けている。そうなった原因は明白で、割れた部分以外も古びてぼろぼろだった。

 もともと腐って弱くなっていたところを、クワイエットが勢いづいて踏み込んだので、ついに寿命を迎えたということだろう。

 とはいえクワイエットはそれほど重量のある人形ではない。むしろ同じ体格の人間よりは少し軽いくらいだろうし、少なくともあのスモーカーのほうがずっと重いはずだ。


「大丈夫?」

「少し靴が汚れただけで済んだわ。にしても……ここ、ほんとに人がいるのかしら? ほとんど廃墟じゃない」

「そうね……かなり暗いし、近くには人らしい気配がない。ネズミはたくさんいるようだけれど」

「いやだ」


 できるだけ衝撃を与えないように注意しながら、まだ板が割れていないところに降りる。


 ネズミは人形の天敵だ。彼らはなんでも齧ってしまうから、手足や衣装をぼろぼろにされたなんて話はしょっちゅう聞く。

 人工皮膚の材料のひとつであるゼラチンも彼らにとってはいい食料らしい。

 そのうえ小さくてすばしこいものだから、糸で捕らえるのは難しい。考えうる中でもっともクワイエットと相性が悪い生物のひとつと言えよう。


 クワイエットはストローの持つランタンをちらりと見て、状況次第ではそれも武器にするしかないな、とまで考えた。

 もちろん可燃物である自分たちが巻き込まれてはたまったものではない。扱うには相当な準備や注意が必要なので、決して気軽には使えないが。


「長居したくない場所だってことは間違いないわね。早く社長とやらを探しましょ」

「ええ。……かすかだけど、さっき上から物音がしたの。階段を探さないと」

「このボロ屋の上に上がるのは不安だわ……。

 とにかく階段ね? えーと、この手の建築様式ならホールを抜けてすぐにあるはずよ。一応は社屋だから、たぶんそこの台が受付だったのかしら」


 ストローよりは人間の文化に通じているクワイエットは、これまで外界で見聞きしてきた知識をもとに彼女を案内した。

 建築様式からすると、ここは築五十年以上になるのは間違いない。百年は超えないだろうが、なにせ保存状態が悪すぎるので、見た目だけなら築三百年と言われても疑わないほどだ。

 家具やカーテンといった調度品は七、八十年くらい前に流行ったとされるデザインで揃っている。それがグラン・ギニョール社の最盛期だったのかもしれない。


 今はかつての姿を何ひとつ留めていない哀れな廃墟で、階段もやはり無残なものだった。辛うじて段は揃ってはいるものの、床と同じく腐敗が進み、いつ抜け落ちてもおかしくはない。

 立派だったろう手すりはメッキが剥げて、泥のような色の錆が浮いていた。


「案の定って感じね……かなり気をつけて上らないと。ランタンを貸して、あたしが持って先導するわ」

「……そうしてもらったほうがよさそうね。お願い」


 片腕が使えない今、その手まで塞がった状態でこの階段を上るのは危険すぎる。

 ストローもさすがにこれには素直に従った。


 念のため、クワイエットはこっそりストローの襟首に糸の鉤をひとつひっかけておいた。これだけ暗ければ気付かれまい。

 これで彼女ひとりだけ転げ落ちることは防げるが、自分も巻き込まれないように注意しなければ。あるいは自分が転んで巻き込んだりしたら元も子もない。


 階段はギシギシと不気味に呻いた。

 その音があまりに哀れましくて、まるで踏みつけにされるのはもうたくさんだと嘆くかのようだった。



 かなり注意しながら進んだので、二階に辿り着くのに半日くらいかかったような気がした。もちろん実際には長くても十数分ほどだろうが、それくらい気を遣ったという意味だ。

 二階も同じくぼろぼろだったが、人形たちはここへきてさらに異様なものを目にした。


 窓が、ひとつ残らず板で打ち付けられている。


 一階はどうだったろう。ホールと階段の前の廊下しか見ていないし、暗い上に近くに窓がなかったのでわからなかった。

 しかし室内の異様な暗さを思えば、そちらも同じようにされていた可能性が高いだろう。


 よほど慌てて塞いだのか、板はかなり乱雑に留められていて隙間が多く、そこからわずかに外の光が入り込んでいる。

 とはいえランタンなしでは歩けないほど暗かった。これでは戦闘になったときに不便だ。


「ストロー、一旦これ返すわ。ちょっと待ってて」

「どうしたの?」

「ランタン一個じゃ足りないもの、もっと大きな明かりを点けるのよ。危ないから少し下がってなさい」


 ランタンをストローに持たせると、クワイエットは彼女に繋がっていない糸だけを左右に振った。


 今いる廊下は思ったより狭いらしく、少し糸の長さが余っているが問題はない。振り子ブランコの要領で自らの身体を揺らし、床を蹴って(また嫌な音がしたがなんとか穴は空かなかった)跳躍する。

 そしてそのまま勢いよく天井を蹴破った。


 落ちてきた大量の埃と木材、なんなら虫やネズミも混ざっていただろう瓦礫の上に降り立って、汚れたドレスの裾を払う。


「あーもうっ、わかってたけどほんっと汚いわね! 帰ったら着替えて洗濯しなくちゃ!」

「また派手なことをする……たしかにかなり明るくはなったけれど」

「どうせ解体が必要なボロ屋だもの、先に壊しても構わないでしょ。それに初めっから穏やかな訪問客ってわけじゃないんだから」


 すでに手荒な歓迎を受けて、それを武力で突破してきているのだ。今さら行儀良く振る舞う必要はない。


 もともと腐って脆くなっていたせいか、クワイエットが壊した部分以外もぼろぼろと天板を落とし始めていた。

 空いた穴から陽が射し込む。森の中とはいえ、屋根の上まで枝を伸ばした樹はそう多くはないので、久しぶりにまっとうな陽光を見られた気分だ。

 照らされた中を埃が舞ってきらきらと光っている。


 ともかくこれで多少は見通しがきくので、ふたりは改めて周囲を見た。

 やはり細長い廊下で、向かって左側の壁に扉がいくつか並んでいる。床には臙脂色っぽい絨毯が敷かれているが、もはや汚れすぎてもとの色柄がなんだったかはわからない。


 ドア同士の間には壁掛けの燭台がついているが、蝋燭はいずれもぐちゃぐちゃに溶け崩れたまま放置されていた。

 そこにぶ厚く埃が積もり、蜘蛛の巣が張っている。


 二体はひとつずつ部屋を検めていこうと思ったが、一つ目のドアノブに触れる直前で奥から物音がした。


 いちばん奥の扉が開いている。

 まだ陽射しの入らない薄闇の残滓に包まれて、そこから誰かがこちらを見ていた。



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