第二章 グラン・ギニョールの幕開け

17◆薄闇の前庭にて

 ストローとクワイエットは、森の前に立っていた。

 すでにパペットをリチャードに返却し、ここから先を案内する者はいなかったが、たとえ彼女に頼んだとしても嫌がってまともにやらないだろう。それより概ねの方角を訊いて自分たちで探すほうが早い。


 そろそろ昼と呼べる時間帯が近付いているというのに、森はそれすら知らないというように暗い。

 むろん鉱山へ続く道の周辺は切り開かれ、上空から充分な日差しが降り注いでいたけれど、ストローたちが向かうのは鬱蒼とした茂みの中だ。そちらは樹々が分厚い屋根となって陽光を遮っている。

 クワイエットの提言に従ってリチャードに借りたランタンを提げ、ストローは道から一歩はみ出した。


 それから数歩もいかないうちに、ふたりは森の孕んだ異様に気が付く。


 生きものの気配が極めて薄い。自分たちが小枝を踏み折る音がやたらと響いて聞こえるほどに、それ以外の物音がほとんどしない。

 まったくいないなんてことはないはずだが、それにしては妙に静かだった。


「なんか変ね」


 クワイエットがぽつりと呟く。


「まるで獣がみんな森の奥に引っ込んだみたいだわ」

「そうね。彼らに集会を開くような文化はないはずだけれど、それは私の認識不足だったのかしら」

「あたしも同意見だから安心なさいな。これはむしろ、……あたしたちを怖がって隠れちゃった感じじゃないの?」


 地面に何かが走り去った痕がある。土をかすかに抉った爪の、そのどこか慌てたような軌跡を見下ろして、クワイエットはそんなことを言った。

 半ば冗談、けれど半ば本気でそう思う。その足跡はまるで何かに怯えて逃げたように思える。


 獣が何かに怯えている。自分たちに、ひいては、人形に。


 やがてそうした痕を幾つか通り越しているうちに、また少しようすの違うものが見つかった。

 土ではなくそこから隆起した木の根に、深々と残った真新しい爪痕だ。これは明らかに逃げた者が残した痕跡ではない。

 大きさからして恐らくキツネか何かだろうが、それは踏み切ったときの足跡ではなく、掴んでいたという痕だ。でなければこれほど深くは残らない。とすれば、その獣はこの根に縋りついていたっことになる。


 キツネが誰かにここで襲われて、抵抗空しく連れ去られた――そんな情景が眼に浮かぶ。


 人形たちはその周囲を注意深く観察した。そして、見つけた。

 明らかに獣と違う、独特な形をした二種類の扁平なくぼみの組み合わせ。これを残したのは間違いなく人間か人形の履いている靴だ。


 ここにこんなものを残す時点でグラン・ギニョール社の関係者である可能性が高い。

 そう判断し、ふたりはその痕を追うことにした。どうせ暗いとはいえ、陽が出ているうちに目的地に辿り着けるに越したことはなく、こうした手がかりはありがたい。


 そして事実、ふたりはほどなくしてその建物を見出すことができたのだ。


 それは森の樹々と一体化して原型を見失いつつあるが、一応は一軒の洋館であると判断できた。

 とはいえ人が住むための建築物としてはかなり大きい。窓から判断するに二階建て、なおかつ向かって左側に少し高さある一階建ての扁平な建築物が繋がっていた。

 工場を備えた社屋、といったところだろうか。


 塀と呼ぶには低すぎる棘だらけの柵がぐるりと囲っていて、正面には同じく禍々しい意匠のちゃちな門が鎮座していた。

 その門扉の大きさといったら、人間の大人なら屈まなければ通れないほどに低い。よく見ると柵と門は半分近くが地中に埋まっているようだ。


 趣味の悪い造形になぜか埋もれた門構え、それだけでここに棲む者の異常性は充分感じられる。

 しかも門柱にはしっかりとあの「GG」のロゴが刻まれていた。


 間違いない。これが「大いなる悲劇グラン・ギニョール社」だ。


「入るの?」

「ええ、そのために来たのだもの。あなたは嫌なら無理には……」

「待ってるなんてお断りよ、決まってるでしょ。それより中に入って、つまり社長ってやつに会ってどうするつもりなのか、今のうちに聞いておきたいんだけど」

「……それが、実を言うとわからないのよね」


 ストローはそこでふうと溜息をついた。といっても、口からそれらしく空気を出しただけだが。


「勢いで来てしまったけど……とりあえず、私個人の思考としては、私の主と無関係であることを第一に確認したいと思う。ここ最近どうも落ち着かないから、その原因を取り除きたいの……」

「ああ、それは賢明な判断だわね。あたしとしては、そのあと適当にぶっとばして警察に突き出そうと思うんだけど」

「それも賢明ね。でも警察にはここのことをどう説明したらいいかしら。パペットが嘘をついていたこと、私が尋問して吐かせたことを正直に話す?」

「リチャードには悪いけど、あたしはあいつを庇う気ないから、ぜんぶ事実をぶっちゃけて終いでいいと思うわよ」

「……そうね」


 いつも、クワイエットの言葉はまっすぐで遠慮がない。その鋭さが心地いいときと、胸の内を裂かれたようで辛くなる瞬間とがあるが、今日は後者だったかもしれない。

 曖昧なのは、ストローが敢えてそれ以上己の感覚を掘り下げないからだ。


 人殺しのための道具として作られた。だから、痛みなんて理解しないほうがいい。


 クワイエットの言い分もわかるし、自分のこれが感傷にすぎないことも理解している。

 人形は主を選べない。クワイエットのように自分から捨てるほうが稀で、ふつうは作られた瞬間からずっとその人形師のものか、あるいは譲られたり売られた先の所有物で、どう存在するべきかは人間が決めている。

 名前に役割が定義されていて、そこからは決して逃げられない。


 愛玩人形のように愛されることが目的の人形なら。

 あるいはクワイエットのように、芸で人を楽しませるための存在なら、あのパペットに妙な肩入れをする必要はないのだ。


 つまりストローは内心で、彼女は自分と同じだと思っていた。

 人を傷つけるためのものとして作られた。その原始の命令に従って行動しただけ。それを罪だと糾弾するのなら、そもそも自分たちなんて存在してはいけなかったのだ。

 そして罰を受けるべき主がいないなら、罪を贖うのは人形自身ということになる。


 ……、これ以上考えても仕方がない。

 ストローは静かに、自分のために小さく頷いて、門扉を押した。そんな彼女をクワイエットが隣でじっと見つめていた。



 何ごともなく進んで正面玄関に至る。罠とかそういうものはないらしい。

 扉にはちゃんと叩き金ドアノッカーが備え付けられていて、人嫌いらしいのに来客を想定しているようだった。

 何も最初から攻撃の意思を見せる必要もないだろうと、クワイエットが進み出てそれを打ち鳴らす。


 甲高い音が周囲に響き渡り、数瞬だけ静寂が止んだ。

 それからまたしばらく沈黙が続いた。さすがに人嫌いなのは事実で、出迎えはなしかと判断したクワイエットがドアノブに手をかけようとしたところで、ふいにそれがくるりと回る。


 ひどい軋みとともにドアの隙間から顔を出したのは、虚ろな顔をした老人――の人形だった。


「ここの社長に会いに来たんだけど、ご在宅かしら? ていっても出かける場所なんてないでしょうけど」

「……。我が主は誰にもお会いにならない」

「あなたは執事? ちょっと服が変わっているけど……。なんにせよ、あなたと問答している暇はないの。通してちょうだい」

「我が主は」


 執事らしい黒いジャケットの下にけばけばしい真っ赤なズボンを穿いたおかしな人形は、視点の定まらない眼をぐるぐると回しながら右手を挙げた。

 同時に彼の口から、ぽろりと灰色の滓が零れる。埃の塊だ。


「……誰にもお会いにならない。来客は永遠にあってはならない。予定のない者は排除せよとの仰せである」


 ふいにざわざわと執事の背後が騒がしくなった。

 何か、ものすごい数の何かがその暗闇に蠢いている。判然としないのは室内がひどく暗いからだった。

 ただでさえ周囲を鬱蒼とした樹々に囲まれていて、この開けた前庭でさえ背後にそびえる山々に陽を遮られて薄暗い。それなのに中でもろくに灯りを点けていないのだ。


 暗闇に無数の小さな眼が光る。それらはキイキイと甲高い声で鳴いている。


「……私は煙出人形スモーカー・バトラー、我が主は誰にもお会いにならない……」


 精度が低いのか、そいつはそれ以外の言葉を知らないように何度もそれを繰り返した。

 その間に後ろから光の群れが近づいてくる。


 見たこともない人形だった。いや、人形と言っていいのかもわからない、布の塊のようなものだった。

 それでも自分で動くところを見るに、ひとつひとつにエニグマレルが入っているのだろう。これだけの数に――思わず人形でも気が遠くなりそうなほどの数の、それらに。

 辛うじて目玉がふたつ並んでいて、一応はそこが顔なのだとわかる。


 なんと喩えていいかわからないが、冬の祝祭に子どもが窓辺に吊るす大きな靴下に似ている。それに眼玉をくっつけたようだと述べるのが適当かもしれない。

 なので、ふたりは便宜的にそいつらをこう名付けることにした。「靴下人形ソックパペット」と。


「これはまた、ずいぶんな大歓迎ね」


 皮肉交じりにクワイエットが言って、手首から強化繊維を引っ張り出す。

 ストローも袖から五寸釘を出して構えた。



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