09◆冒された<神秘の箱(エニグマレル)>

 神秘の箱エニグマレル

 それはペープサートが誇る唯一無二の技術。


 かつてこの一帯はしがない鉱山の街だった。採れるのは石炭だけ、それも大した採掘量ではなかったため、他の大鉱山の街に比べてずっと貧しく寂しいところだった。

 石炭と一緒に真っ白な石が採れることも知られてはいたが、それは売りものにならないクズとして捨てられていた。

 それを勿体ないと思った誰かが、なんとか白石の使い道を探してあれこれ研究をしているうちに辿り着いたのが、ある加工を施した石を動力源とする人形の製造方法だったのだ。


 もともと伝統工芸のひとつとして何種類かの人形作りは行われていた。

 それらと石との出逢いが化学反応を起こした結果、今日の『世界一の人形の街』の異名がある。


 もちろん街の重要な財源として、エニグマレルの製造方法は一般公開されていない。

 街に認定された一部の企業が独占し、エニグマレルを用いた人形制作の技術を教えるのは市内の『人形学校』のみ、それも履修できるのは限られた成績上位者だけと、徹底して秘匿されている。

 テディも学生であったが、彼は操演術の専攻だったのでもちろん知らない。


 そのエニグマレルが内臓されていたということは、あのパペットを造った何者かもこの街の人形師ということになるわけだ。


「……そんなことがあったのか」


 クワイエットから血なまぐさい説明を受けたリチャードは、げんなりしたようにそう言って肘掛け椅子に身体を沈めた。

 薄汚れた神秘の箱は、彼の目の前にあるダイニングテーブルの、新聞を敷いた上に転がっている。その汚れの正体におおよそ予想がつくだけに、食事にも使う卓上に直接置くのは憚られた。


「しかし問題の人形はもう壊されているのなら、心配は要らんかね……」

「そうとも限らないわよ。たまたまあの一体だけ不具合でもあって暴走してたって可能性もなくはないけど、あいつの顎、どう見てもオオカミか何かのほんものの牙がついてた。あれを造った人間がまともとは言い難いわね」

「それに不具合で暴走したという話自体が稀なことね。私もこの街に住んで長いけれど、あまり耳にした覚えがない」

「……確かに。私もここの生まれだが、動作がおかしい程度ならともかく、思考が常軌を逸しているというのは聞いたことがないよ。エニグマレルというのはそれほど精密なんだ」

「え、……リチャードさんってこれの構造も知ってるの?」


 驚いたふうのテディに、老いた熟練工は静かに微笑む。


「なら一回これ開封バラしてみましょうよ。何かわかるかもしれないわ。

 あとテディ、あんた安静にしてろって言われてたでしょ。工具を取ってくるついでに寝かせてあげる」

「え、あ、ちょ、クワイエットさん……!」


 クワイエットはもう慣れたという調子でテディを抱え上げ、そのまますたすたと居間を出て行った。

 歩かせてあげればいいのに、とストローはちょっと思ったけれど、クワイエットはあれで彼女なりにテディの身体を気遣ってやっているのかもしれない。

 なんというか、……彼らは互いに不器用だ。


 ともかく、待っている間他にすることもなかったので、ストローはエニグマレルの表面を拭くことにした。

 色んなものがべったりこびり付いているせいで蓋の継ぎ目すらわからない有様なのだ。リチャードの言うようにこれは精密機械なのだから、あまり乱暴な開けかたをしてはいけない。


 表面のどろどろを拭うと、その下にうっすらと何かのマークが見えた。

 通常ここに刻まれるのは製造会社のエンブレムだ。丁寧に汚れを拭い落としてみたところ、それはアルファベットのGの文字を二つ並べたもののようだった。


頭文字イニシャルがGの製造業者というと、グッドガイ・カンパニー? でも字の形が違うし、あそこはGGCと三文字が入った図標ロゴのはず……。

 他にエニグマレルの製造権を持つ業者があったかしら」

「今はない。だが、五十年ほど前ならもうひとつ、頭にGのつく製造者があった。もう長いこと話を聞かんから、倒産したか業種変えしたかと思っていたが」

「それは何という会社?」

「グラン・ギニョール社だ」

「……聞いたことがない。といっても、私はかなり世間知らずのようだから」


 ストローは目を伏せた。

 もうずっとこの街にいるけれど、クワイエットが来るまでは他の野良人形ともつるまなかったし、他に口をきく相手なんて誰かを呪い殺してほしいと依頼する人間くらいなものだったから、世間話などしようもない。


 長生きしているわりに、自分は何も知らない。何にも興味がなかった。

 ただ、己を捨てた主のことだけを考えて生きていた。

 今どこで何をしているのか、どうして帰ってこないのか、それだけがストローの関心だったから。


 そんなストローの目の前に、がしゃんと音を立てて工具箱が置かれる。


「お待たせ。……何を暗い顔してんの、ストロー」

「俯いていただけよ」


 戻ってきたクワイエットに目ざとく指摘されたが、ストローは下手に誤魔化した。



 工具を手にしたリチャードが、箱の側面にそれらを丁寧に抜いたり挿したり、何かをひっかけて捻るような動作をしていく。

 そのたびに、かちり、ぱちん、と小気味いい音がした。

 部外者が容易に内部構造を調べられないようにと、エニグマレルの容れ物部分はパズルのような細工になっている。熟知した業者だけがこれを開けられるように。


 しばらくして蓋が外されると、神秘の箱がようやくその真の姿を現した。

 ……といっても中も複雑なことになっていて、少なくとも人形たちには何がなんだかわからなかったが。


 これと同じものが自分の中にもあるのだと思うと、奇妙な感覚だ。

 ストローはそっと己の腹部を押さえた。覗いたことはないが、そのあたりに入っているということだけは、感覚的に知っている。


 そもそも、なぜ藁人形にわざわざ動力を入れたのかもわからない。

 呪術の行使に必要だとも思えないし、かといって気まぐれで組み込めるほど、エニグマレルの扱いは容易くない。それに当然ながら費用だって相当なものだ。

 どうして主は自分に自律思考能力を与えたのだろうと、ストローはつねづね思っていた。


 ――自我がなければ、自分が捨てられたことすら知らないで済んだのに。


「……これは……なんということだ」


 ふいに老人が呻くような声でそう言ったので、ストローははっとして彼の手許を見た。


 箱の中に鎮座する、六角柱状の結晶を十字に組み合わせたような形をしたその石は、本来ならミルクのように真っ白な色をしているはずだった。

 エニグマレルに必須の物質、ペープサート原産の奇跡の鉱物『傀儡石ピグマリオナイト』。

 それが白一色の鉱物であることは誰でも知っている。別の鉱物が混ざって色が生じているようなものは、通常エニグマレルには使われない。


 だが、箱の中のそれは、どす黒く変色していた。縁はわずかに紅く、本来あった光沢も失われて、まるで泥の塊のように濁っている。

 周りには赤黒い粉のようなものが散っているが、どうやら何かの液体が乾いた痕らしかった。


「なんか汚いわね。箱の周りもそうだったし、それが中にまで入ったって感じかしら」

「いや、……エニグマレルは密閉構造だ。液体が入るなんてありえない。初めから中の石室せきしつ――傀儡石を収める部分に注いであったんだろう。これは血だ……人か、動物のものかは、見ただけではわからんが」

「血? どうしてわかるの?」

「臭いもあるが……石がこうして変質するのは血液、厳密にはヘモグロビンと脂質に触れたときだけなんだよ。ピグマリオナイトを扱う者なら誰でも知っている。

 こんな石をエニグマレルに使ったら、人形がおかしくなるのも無理はない。……可哀想に」


 リチャードはそう言って、震える手で眼鏡を外した。

 よほどこの光景にショックを受けたのだろう。両手で顔を拭いながら、しばらく彼は無言だった。


 一方ストローは、血で満たされた石室に、呪術めいたものを感じていた。

 小さな箱だから石を浸すのにそれほどの量は要らない。だから血を抜かれた犠牲者が必ずしも死んだとは限らないし、なんなら製造者自身の血液である可能性も充分にある。

 何にしろ確実に言えるのは、これを造った者は自らの意思でそうしたということだ。


 無垢の白石に血を注ぎ、どす黒い呪物に変えた。

 明らかに正気の沙汰ではない。きっとその人物は、作業の傍ら呪詛を唱えたことだろう。


 ……もしかして。

 ストローはまだ腹に置いていた手を、そっと退けた。


「こうなってくると安心はできないわね。パペットの他にもイカれた人形を造ってるかもしれない」

「そうね。……とりあえず、一度このグラン・ギニョール社を調べてみる。外の箱を使われただけで関係ないのかもしれないけれど、今は他に手がかりがない。

 リチャードさん、箱を元通りにしてもらえる?」

「ああ、少し待ってくれ。戻すのも開けたときと同じくらい時間がかかる」


 老人は眼鏡をかけ直して、再び工具を手に取る。

 そして彼が丁寧に箱の細工を戻していくのを、ストローはじっと待った。


 リチャードの言葉とは違って、今度は細工の動きがひどくゆっくりに感じられた。少なくともストローにとっては倍以上の時間が経ってしまったようだった。

 ようやくぱちんと軽快な音を立てて蓋が閉じる。

 思わず溜息を吐きそうになるのを噛み殺しながら、ストローは老人から箱を受け取った。


 その表面に黒々と刻まれた紋章が、手に触れた瞬間ぐにゃりと歪んで、ストローを嗤ったような気がした。



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