07◆沈黙のベントリロキズム
美しい黒髪をなびかせて、腹話術人形が人喰い人形に立ち向かう。
その光景をテディは耐えがたい気持ちで見つめていた。こんなのは間違っている。
彼女がいるべきなのは、明るいスポットライトの下なのに。
隣に腕のいい人形遣いがいて、目の前には満員の観客席。そうしてひっきりなしに拍手の音がこだまする――それがクワイエットのあるべき姿で、彼女自身だけでなくテディも望んでいたことだ。
その夢が、テディがうっかり誘拐犯に捕まったせいで、露と消えるのか……。
悄然とする少年を慰めるように、藁人形は静かに言った。
「大丈夫よテディ。彼女はあなたが思うような
――それに今、すごく怒っているみたいだから、それで手出しは無用と言ったのよ」
・・・・・*
パペットが振りかぶった鋏を、クワイエットはひらりと躱す。
長い髪もドレスの裾も、何一つかすめることさえなく、舞踏のような優雅さで。
獲物を捕らえ損ねた鋼鉄の切っ先は、そのまま勢いを殺さずに床のレンガを打ち欠いた。
破片が散り、耳障りな音が室内にこだまする。そこにパペットの唸り声のようなものが混じっている。
それらに柳眉をひそめつつも、クワイエットは手にしていたものの一端を宙に放った。
彼女が動くたび、月光を浴びてちらちらとそれが光る。
「あはあは、あはッ♪ おもてなし、おもてなし、かわいいパペット流おもてなし♪」
「ずいぶん乱暴ね、それが客に対する態度?」
クワイエットが呆れながら言う間も、攻撃が途切れることはない。
凶刃を避けるたびに鋏が周囲をめちゃくちゃにしていく。床を砕き、端に寄せられていた機械をも破壊しては、その破片が足許に散りばめられる。
しかもパペットはこの室内をクワイエットよりもよく知っていて、機材をうまく足場にして軽業のような動きを披露した。
「あは♪」
元から周囲には古びたガラクタしかないような廃工場だが、人形たちの遠慮のない攻防によって、何十年分かわからない埃があたりを舞い踊る。
人間なら肺を病んでもおかしくない量で、周囲がややけぶって見えるほどだ。
しかもクワイエットは、ときどき床に転がっている哀れな被害者を踏まないようにも留意しなければならなかった。
無造作に捨てられたそれらはもう、人の形をしていない。
どれも歪な歯型が残っていて、テディの発した「あいつが食べた」という言葉が、比喩ではないことを物語っている。
だが、消化器官を持たない人形がものを食べるなんてありえるのだろうか。ましてや人間を。
しかし今はそれを考えているときではない。
「あんた、テディをどうする気だったわけ?」
何度目かの攻撃を避けながら尋ねると、パペットはにたりと笑った。
その口の中にやたら大きな犬歯が見える。人形にも木や陶器で歯を作ることはあるが、それはどう見ても、ほんものの獣の顎だった。
誰が何のためにこんな人形を作ったのだろう。悪趣味にもほどがある。
……というのは、とりあえず相方の前では言えないことだから、クワイエットの胸の中に閉まっておくとして。
「かわいいパペット、歌が好き♪ かわいいパペット、玩具も好き♪
あの子はねえ、口からべーって何か出すの♪ 面白いでしょ♪ あはあは、あはあはあはあは」
そしてまた、鋏が横薙ぎにクワイエットに襲い掛かる。
これも避けるのは容易かった。けれどパペットもそれほど愚かではなかったらしい。
気付けばクワイエットは壁際に追い込まれていた。
しかも周りには、永いこと捨て置かれて分厚い埃を被った、もはや何の機械なのかわからなくなった物体がいくつも並んでいる。
充分な逃げ場を確保できなくなったところでもう一閃、鋏がまっすぐに突き出された。クワイエットは咄嗟にその場で腰を落とす。
ついさっきまで顔があったあたりの壁に、鋏が深々と突き刺さる。そこから剥がれ落ちた漆喰の破片がぱらぱらとクワイエットの頭に降りかかった。
「かわいいパペット、お客さんが好き♪ でも……食べられないお客さんは、要ーらない!」
壁に刺さったまま、パペットは力任せに鋏を垂直に引き下ろす。がりがりと怖気の走るような嫌な音を立てながら、削れ落ちた漆喰が雪崩のように降ってくるのを、クワイエットはとても不愉快に思った。
「……そろそろ黙りなさい、安物」
クワイエットの指がひらめく。
人差し指と小指は伸ばしたまま中指と薬指を折り曲げて、あるいは片方の手を裏返して――手遊びのような仕草で
瞬間、月明りを吸って、闇夜の廃工場の中に、いくつもの白銀の線条が浮かび上がる。
縦横無尽に張り巡らされたそれが集約された中心にいるのは他ならぬパペットで、彼女は鋏を振り下ろす途中のまま、時間を止められたように固まった。
まるで蜘蛛に囚われた羽虫さながら、人形の身体は宙に浮きあがっている。
「……ぇぎィ……ッ」
パペットは小さく呻いたが、それすら許さないというようにクワイエットが手首を振ると、そいつは完全に音を飲み込まされた。
クワイエットはするりとパペットの脇を抜けて立ち上がる。それから身体じゅうについた漆喰のかすを払い落とした。
その白い手のすべての指には銀の輪が嵌められている。さらにそこから周囲の四方八方へと伸びているのは、指輪よりは光沢の劣る鈍色をした細い筋――糸である。
金属繊維を織り込んで強度を高めた、本来は人形を繰るために開発された代物で、ちなみに特許はペープサートの人形製造業者が保有している。
そして今はその一本がパペットの顎に絡みつき、口腔内の発声機構に空気を送れないように締め上げているため、言葉を発することすら禁じられている。逃れようにも糸の先端には鋭い
「ああ、久しぶりだから時間かかっちゃったわ。たまにはやらないとダメね。
……さてと。余計な無駄口叩かないってんなら舌だけは解放してあげてもいいわよ」
頷くことすらできないパペットは、代わりに唯一動かせる瞼をパカパカやった。
それを見たクワイエットが指を一本動かすと、鋼糸が二、三本しなって動き、パペットの顎の周りだけ拘束が緩む。
「あんたはどこの人形で、何のためにこんなことをしたわけ? というかテディに何してくれたわけ?」
「どこのでもないよ♪ かわいいパペットは自由なお人形だよ♪
子どもたちと遊ぶのが大好きな、かわいいパペットだよ♪ 子どもと一緒に玩具が来たから、遊ぼうと思ってただけ。玩具はちょっと大きいから食べないの♪」
「……さっきからその『かわいい』ってのが鬱陶しいんだけど。あんた自分で言ってて空しくないの?」
「なんでぇ? だってかわいいパペットは、『かわいいパペット』だもん」
頭の痛くなるような回答にだんだんクワイエットは腹が立ってきた。
「これが最後の質問よ! ……あんたの主人は誰? それとも自由っていうのは――」
野良って意味、と言いかけて、声が途切れる。糸の感触が変わった。
がぢん! ……耳障りな音があたりに響く。
クワイエットの目の前で、ありえないことが起きていた。
強化繊維の繰り糸だ。金属を含むため切断するにも専用の器具が必要になるそれを、いくら口だけ拘束を緩めていたとはいえ、パペットは顎の力だけで噛みちぎっていた。
「う、うぅ……かわいい……パペット……自由ぅ……自由……な……」
愛らしかった表情を崩し、それは獣の形相で唸り声を上げる。
がぢん、がぢん、と人形が歯軋りするたびに上がる音は、まるで金床を打ちつけているような凄まじさだった。
「指貫人形って……あんた名前が間違ってるわね」
あまりに常識はずれなその光景に、いかに人形でも苦笑いしてしまう。
そしてクワイエットは右腕を引いた。同時に左腕は肘を起こし、人差し指と中指を揃えてひねる。
ギュッと糸同士が擦れる音がしたあと、
「
パペットの身体がその場でバラバラに分解し、四方八方に飛び散った。
断末魔すら上げずに。そんな暇すら、クワイエットは彼女に与えてやらなかった。
ごろんと頭部が転げ落ち、振動で顎の留め具が抜ける。
外れた下顎には恐ろしく尖った牙が屹立していた。その横を、抜け落ちた眼球がころころ転がっていく。
クワイエットはそれらに見向きもせず、崩壊した人形の残骸の中から小さな箱を拾い上げた。
これがペープサートの誇る唯一無二の技術、この街を世界一たらしめる人形製造の秘奥が詰まった、叡智の結晶だ。
いわば人形の「心臓」もしくは「命」。
これを外されて動ける人形はない。逆に導線が一本でも繋がっていれば再起動の恐れがあるため、クワイエットは念を入れてそれを引きちぎった。
「……終わったわよ! そっちの首尾はどう?」
箱を手の上で弄びながら、ストローとテディのほうへ戻る。
テディはすでに地面に下ろされていた。けれど身体を起こす気力はないようで、床に横たわっている。
「こっちもひと段落といったところよ。……ああ、あのパペットは壊してしまったのね」
「まあね、
「そのようね。テディ、立てる?」
「なんとかやってみるよ……何か、杖代わりになるものとかないかな……」
「無理しなくていいわよ」
クワイエットはストローに箱を投げ渡すと、こともなげにテディを抱え上げた。
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