グレン・グルード

@sousou0630

完結編


僕が彼女と直接話したのは、その日が初めてだった。その日と言ってももう何年も前になる上に、それは同時に彼女と話した最後の日でもあったから、はっきりと彼女の顔は思い出せないし、正確な日時も覚えていない。ただ、十二月か一月の、風の冷たい夜だったことは憶えている。


星を見るなら、標高の高い所の方が良いと彼女は言った。何故かと理由を尋ねると、「だってその方が星に近いもの。」と僕の目を真っ直ぐ見つめて言った。彼女があまりに真面目に言うので、僕は思わず吹き出してしまった。


結局彼女の通っていた大学(彼女は僕より四つ歳下で、大学院生だった)から、車を一時間ほど北に走らせた所にある高地へと向かった。僕の車は中古車店で買った格安の軽自動車だったから、少しでも舗道を外れると、ぎしぎし、といやな音を立てた。そんな車だからまさか車上泊などありえないだろうと思っていたのに、彼女は当たり前かのように缶チューハイを二本、顔の横で傾けて見せた。結局、二人で一夜を過ごす事となったのである。


エアコンはおろか、カーナビなんて勿論ついてるはずもなく、コンビニで買った地図を頼りに山道を走らせた。


そこに着く頃には既に日も傾いて、葉を落とした木々の影を東に長く伸ばしていた。乱立するそれらはあまりに弱々しく、先細りした枝には絶え間なく死のイメージが伴っていた。写真で見たよりはるかに殺風景であったが、風流と言われればそうも思えた。それが、辺りに広がる自然の沈黙のせいか、もしくは隣で折り畳み椅子を広げている女性のせいなのか、今となっては判然としない。


「あたし、何がしたいかわからないの」

二つ目の椅子を広げながら、彼女はぽつりと呟いた。


「どういうこと?」


「やりたいこともないし、やらないとだめなこともないの。ほんとうはあるのかもしれないけれど、ね。」


「そうなんだ。」

今となってはあまりに野暮な返事だったように思えるが、本当に何と言ってあげればいいのか、僕には検討もつかなかったのだ。

僕は高校も大学もろくに通わなかった。別に、とくべつ勉強が嫌いだった訳じゃないし、友達だっていなかった訳じゃない。

ただ、深夜ラジオのジャズ・ポップスステーションを聞く時間を削ってまで、学校へ行きたいと思える動機が、当時の僕には見当たらなかったのだ。


そう思うと、今朝方彼女が僕の部屋を訪ねてきた理由が分かった気がした。要するに、彼女は僕に一種のシンパシーのようなものを何か感じていたのかもしれない。

帰ってくる頃には空になっているだろう財布を片手に毎朝スロットを回しに行く僕に、毎月のように家賃滞納の貼り紙をポストに湛えてる僕に。そんな僕は、壁ひとつ隔てて隣に住む彼女から、どう見えていたのだろうか。


「パチンコって楽しいの?」

不意に彼女がまた口を開いた。


「まあ、それなりに。」


「それなりってことは、大好きってわけじゃないんだ。」


「そうだね。」


「それでも行くの?もっと大好きだって思える事にお金使った方がいいんじゃない?」

何も言い返せなかった。僕は洋楽が好きだったから、今までだって何度かレコードなるものを買ってみようかと思い悩んだこともある。だけどいざレコードショップの前に立つと、自分がやけに貧相で低俗かを思い知らされたような気がして、それから足を運ぶのをやめてしまったのである。


結局

「そうだね」

と言葉を濁してしまった。


「あたし、ピアノ楽曲が好きなの。それなりに弾けたのよ、今はもう触ってないからまるでだめだけど。」

それから彼女は僕に、ショパンの英雄ポロネーズや、グレン・グールドの弾く月光ソナタ第三楽章の素晴らしさを語って聞かせた。僕はめっきりジャズやボサ・ノヴァしか聴かなかったので、彼女の話が丸ごと理解出来たわけじゃなかったが、それでもその英雄ポロネーズやらグレン・グールドやらの響きは、やけに耳馴染みが良かった。


「結局、あたし何やっても続かないのよね。ピアノもそう、お母さんが習わせてくれたバレエだって、一年も続かなかった。男の子もよ。すぐに他の子が気になっちゃうの。あたし、顔はぶすいけど、それなりにボーイフレンドだっていたのよ。でもね、続かないの。季節が変わって、衣替えをするみたいに。」


「僕は人と付き合ったことがない。」


「そうみたいね。あ、悪いなんて思わないわよ。一匹狼ってかんじで、あたし好きだわ。」


僕は今まで動物に、ましてや狼などに例えられたことは無かったので、素直に喜んでいいのかわからなかった。その僕の心を察したのか、

「素敵よ、ほんとうに。」と彼女は一言呟いた。

僕は彼女のことを特にぶすいとは思わなかったが、美人というには少し無理があった気がする。はっきりと思い出せないから、なんとも言えないが。その言葉きり、彼女が口を開くことはなかった。

僕に呆れたのか、飽きたのか、分からないが、ブランケットとダウンジャケットに顔をうずめて、文字通り死人のように動かなくなってしまった。そのとき、僕は彼女が本当に死んでしまったのでは無いか、と思ってしまった。だが、時折聞こえるナイロンと寝息の擦れ合う乾いた音が聞こえたから、辛うじて彼女の生を確認することが出来た。

でも、彼女がもう一度僕にグレン・グールドの話をしてくれることは無かった。


それからどれくらい時間が経っただろう。辺りにはすっかり夜の匂いが漂っていた。時折、冷たい風が山に反響してくぐもった音を立てた。だがその音の一つも、この一帯じゃなく、別の山々から聞こえてくるように感じた。もちろん僕たちのいた場所も風は吹いていたし、風鳴りも聞こえたはずなのに、まるでそれらは僕の中では重く、ぼんやりとした幻影のように、絶え間なく、僕の頭の裏の方で響いていた。

とても不思議な感覚だった。


雲こそあったが、星はよく見えた。

真冬のオリオンは七つの恒星を十分に湛え、肌寒い夜空をぼんやりと照らしていた。

思考はやけに落ち着いていた。

何度上を見上げても、そこには変わらず無数の光の礫(つぶて)が色を落として留まっていた。だがその光も、もう500年は前のもので、今この僕が息をしている時間軸ではもう、屑となって無空の内をただにただ漂っているだけかもしれないと思うと、何か言いようの無い感情に揺られた。

もしこの人の中の歯車がどこかで不具合を起こして動きを止めてしまったとしたら。それはきっと僕には全く関係のないことかもしれないし、関係を持つことを彼女が望んでいないかもしれない。

だけど、ふたつの線分の長さが僕と彼女で違ったとしても、今この瞬間がそのふたつの交点であることに変わりはなかった。交わったあとは、また各々の終着に向かって離れ離れになってしまうのだろう。振り返ることも、もうない。

それは遅かれ早かれ、避けられない運命や、もしくは現実となって、途絶えることなく、一人の女性の寝息となって相変わらずナイロンを撫でていた。


僕は当時も今も、彼女の事を詳しく知らない。だが、顔も覚えてない彼女の事をこうやって思い出したり、彼女の線分の行方を知らず知らずのうちに脳裏で追っている自分に気づく時がある。


それが今でも僕を、一層センチメンタルな気分に誘うのである。

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