【2011年 実写化映画】「いまを生きる」原題「Dead Poets Society」=「死せる詩人の会」。
『倉木』
前回の異世界うんぬんの時は、キャスト・アウェイをオススメしたくて話したようなものでした。キャスト・アウェイだけでは足りない話もあるので、ロード・オブ・ザ・リングとマイ・インターンも、ついでに推した形です。今回も柱となる一本を推したあと、他の映画もオススメすべきか迷っています。
正直、僕にとっては青春小説を書く上で、この一本があればいいのではないかというほどの作品があるので、二本目を推すより、ひとつを掘り下げたいという気持ちが強い。
前口上が長くなりました。これからも、おそらく長いです。
青春小説を書く上で見ておくべき映画。
それは「いまを生きる」です。
原題は「Dead Poets Society」=「死せる詩人の会」昔から、洋画の日本語タイトルには、うーんってなることが多いけど、これはセンスがある。劇中で発せられるラテン語の「Carpe Diem」の日本語訳らしい。
ちなみに僕は、タイトルよりも、”Oh Captain, My captain”と高らかに叫ぶシーンの映画として記憶しています。タイトルでピンとこなかった人でも、この”Oh Captain, My captain”というリンカーンに捧ぐホイットマンの詩で、ああ、あれかと思い出す人も一定数いるのではないかと思う。
さて、以下は円盤のあらすじ。
1959年バーモントの秋。名門校ウェルトン・アカデミーに1人の新任教師がやって来た。同校のOBでもあるというジョン・キーティング(ロビン・ウィリアムズ)だ。伝統と規律に縛られた生活を送る生徒たちに、キーティングは型破りな授業を行う。「先入観にとらわれず自分の感性を信じ、自分自身の声を見つけろ」とキーティングは、若者たちに潜在する可能性を喚起する。風変わりな授業に最初はとまどっていた生徒たちも、次第に目を開かされ、キーティングへの関心は高まってゆく。中でも7人の生徒たちはキーティングの資料をもとに“死せる詩人の会"を結成し、深夜に寮を抜け出して洞窟に集まり、自らを自由に語り合うようになる。恋をする者、芝居に目覚める者…。皆がそれぞれの道を歩みはじめたかのようにみえた時、ある事件が起こった。そしてその事件をきっかけに、生徒たちは再び学校体制下に引き戻されそうになるのだが…。
日本での公開は1990年なので、いまから30年以上前とは、おそれいった。古くさい映画だと視聴を避ける方もいそうやけど、考えてみて。劇中の舞台は1959年のアメリカ。つまり公開当時でも30年以上前の世界観で勝負してるんや。そして、1990年にアカデミー賞脚本賞を受賞した時点で、1959年でも1990年でも、青春の悩みは大きく変化していない証明ではないやろうか。そしてきっと2021年でも同様のはず。つまり、いまみても面白いに決まっている。
あらすじだけみると、本作は型破りな教師と生徒のお話になるんかな。
これも一つの王道パターンで、色々と名作があるよね。漫画原作で実写化されたのも多いジャンルかも。GTO、ごくせん、ぬーベー、ドラゴン桜。きっと、他にもあるのでは?
いまあげた作品の先生とキーティング先生の最大の違い。キーティング先生は、あくまでも授業の時間で、教育を通じて生徒たちの心を掴むところ。授業のシーンは、映画を観ている僕も授業を受けているような気分になる。リモート授業のはしりかもしれんなぁ。
そんな、キーティングの担当は「詩」の授業。詩の良し悪しを理解させる授業とは、芸術の良し悪しを伝えること。ん? もしかしてこれって、いまやってるこの企画に通じるものもあるんちゃうか。いかに映画が面白いかを知ってもらうのにも似ているなぁ。
話がそれた。学校の授業になっているのだから「詩」の授業にも教科書がある。
教科書には、詩の良さを論理的に分析して計算するような方法が書かれている。いかにも頭のいい人が考えそうな序文のさわりは、こんな感じ。
「詩を理解するには、我々はまず、韻律・リズム・修辞をまず把握することだ(中略)これをグラフに表し、縦軸と横軸に数値として代入し、うんたらかんたら」
キーティングは「くそくらえだ」と言って、生徒たちにページを破らせるという型破りな授業を行う。これは戦いだ、戦争だ。君らの心や魂の危機だ。詩の価値が計りで測定できてたまるかよ、と。
とはいえ、これは詩の良し悪しを判断する心を養うことを通して、考えさせる力を身につけさせようという教育方針である。さらにいえば、言葉や理念で、世界を変えられるということを教えてくれているのだ。
意味や目的があって型を破るのであれば、ついてくる生徒もいる。
そして、教科書を破る行為以外にも、型破りな授業は続く。
あるときは、生徒を机の上に立たせて、それだけで世界の見え方が変わるというのを教える。そういえば、最初の授業では、”Oh Captain, My captain” の詩を引用して、キーティングのことをキーティング先生でも、キャプテン(船長)と呼んでも構わないと言ったりもする。
キーティングが、ある授業中に語った名言があるので、紹介したい。
「我々が詩を読み書くのはかっこいいからではない。それは我々が人間であるという証なのだ。そして人間ってやつは情熱で満ちあふれている。医学・法律・経営・工学は生きるために大切で尊い仕事だ。しかし、詩・美しさ・ロマンス・愛情こそが我々の生きる理由。生きていく糧なのだ」
この、詩の部分を小説(あるいは文学)に変換すれば、物書きとして救われたような気持ちになる。
この時点で、視聴している僕はキーティング先生を、いやキャプテンのことが好きになっていた。
作中でも、幾人かの生徒たちがキャプテンの影響で変わっていく。それが顕著なのは、あらすじにも書かれている“死せる詩人の会"の結成だ。正確に説明すると、再結成。元々は、キャプテンが在学中に死せる詩人の会を結成していたので。
死せる詩人の会のメンバーは、深夜に寮を抜け出して洞窟に集まり、わいわいと騒ぐ。いわば、思春期にちょっと悪いことや人とは違ったことを仲間と共に経験することで、それぞれが自分と向き合うキッカケとなるのだ。
この自分でも知らなかった自分を把握していくのが、青春小説を書く人には観てもらいたい部分やね。
青春真っ只中の少年のお手本的なものが、ばんばん登場する。尺の都合か群像劇のていのせいか、一部しか掘り下げられなかった。なので、映画を観ながら自分なら、どうやって掘り下げようかと考えるだけで短編ぐらいにはなるはず。
そもそも青春小説を書きたいけど、描きたいシーンがあるだけの場合もある。あの子のパンチラを描きたいとか、大空で好きな子を救うシーンを描きたいとか。そういうシーンだけが先行して、テーマがおざなりになっては物語としてダメになる場合もある。
なので、ここからは死せる詩人の会のメンバーの物語を簡単に説明する。
・厳しい親のせいで、やりたいことを我慢し続けてきた少年が、演劇の夢を叶えるためオーディションを受けて主演に選ばれる。
・優秀な兄と比べられて、自信をもてない少年が、自分でも知らなかった詩の才能を見いだされる。
・偶然知り合った女性に一目惚れした少年が、相手に婚約者がいても、その婚約者に殴られても、惚れた相手に思いのたけを詩にして伝える。
・もともと大人に反抗的だった少年は学校の伝統に不満があり、自分なりのやり方で反逆し、改革しようとする。
・保守的な少年は、流されるまま参加した死せる詩人の会で、それなりに楽しんでいるが、なにかあれば大人に密告しそうな危うさを抱える。
これらの物語をひとことにすると、こうなるか。
夢、欠点(才能)、恋、挑戦(反逆)、現状維持。
青春小説を描く際のキーワードがなんなのか、この映画の少年たちを見ているだけで理解できるはず。僕の言葉では足りないけど、映画を観ればわかるはずやから。
さてさて、本作では青春の光と陰、両方をきちんと描いてくれている。
映画も中盤をこえた頃、人によっては危うい歩き方ではあるが、それぞれが内なる自分の声に耳を澄まし、動き出してはいる。この段階ではゆっくりとした展開で、地味な物語という印象を受ける。
青春の刹那的な儚さや綺麗さばかりが描かれているせいで、そう感じたのかも。
そんな少年たちと関わる様々な立場の大人が登場することで、雲行きが怪しくなり、ある事件が起きてしまう。
この事件が起きてからの展開は、青春ってのは綺麗事だけではないというのを描いてくれる。
悲しい事件でした。少年は、大人とは違う時間の流れの中で、タイトルどおり「いまを生きる」のだから。同じ十年でも、少年と大人では、価値がまったく違う。この部分こそ、青春小説に必要不可欠な空気感ではないかと思う。
さて。映画で起きる事件がなんなのかは、ぜひ自ら観て確認してもらいたい。
その事件が作中よりも軽かったとしても、親は学校のキャプテンのせいにするのは変わらなかっただろう。そして、学校の対応も事件の大きさがどうあれ変わらないだろう。
結局、キャプテンに責任を押し付けて学校はイメージを守ろうとするのだ。学校側にすべてを知られた死せる詩人の会のメンバーにも選択が迫られる。キャプテンは救えないが、自分の身の振り方で自分だけは救える。キャプテンのせいにすれば、自分の一生を棒にふることはない。選択肢と呼ぶにはあまりにもなものを、精神的に脅迫を受けながら選ばねばならない感じだった。
学校を去ることになったキャプテンが、私物をとりに教室に入ると、後任の教師が詩の授業を行っている。
型破りな授業のせいで、後任の教師は最初から授業を行うことにしたのだが、教科書の序文はキャプテンの授業で破られていた。
荷物をまとめ、去ろうとするキャプテンに、一人の少年が叫ぶように謝る。これ以上、喋れば退学だと後任の教師に脅されるが、少年は机の上に立ち、”Oh Captain, My captain” と叫ぶ。
少年に続くものもいるが、逆に顔を背けて椅子に座ったままのものもいる。それは、学校のルールに縛られた生徒たちが、自ら考えて生き方を選んでいるように見えた。
事実、死せる詩人の会のメンバーと絡んでいなかった生徒の一人が、葛藤してどうするか選ぶシーンが最終盤の数秒で描かれている。
主要キャラばかりに目がいっていたが、同じ教室で同じ授業を受けていた生徒に焦点を当てるのは、演出として粋すぎる。キャプテンの教育が成功している象徴だ。全員の生徒に、詩を通して物事を考える心が刻まれていた。しかも、この名前のわからぬ少年にとっては、これから「いまを生きる」のだろうから。
ああ。ごめん。テンションがあがりすぎて、ものすごいネタバレをしてしまった。
なんにせよ、青春小説の結末とは、いったいなんなのかが、ここでは見事に描かれている。
バトル物ならば、ボスを倒す。スポーツ物ならば、勝敗が決する。そんなわかりやすいもののひとつとして、青春小説は「自由の責任をとること」が、結末だと思うのだ。
子供が出来たので、結婚をする。悪いことをしたので、学校を辞める、警察に捕まる。これらも、自由の責任をとっているのにほかならない。
この部分をなぁなぁにした場合、名作はうまれない。ずっと幸せでキラキラした青春があるならば、それは終わりになっていないだけではないか。うまく言葉が出てこなくて、歯がゆい。現実が見えなければ、責任をとることすらできない。そんな感じのことを言いたい。くそ、僕にキャプテンのような名言が出せればいいのに。
さてさて。この映画の未成年の少年達は、自由にやってきた責任がとれなかった。だから、必然的に大人が犠牲になるしかなかった。
ただし、犠牲になってくれた大人のために、主人公たちがなにもできない訳でもないのだと希望もみせてくれる。伏線を回収して感動を呼ぶ。その伏線とは、授業から学んだことを先生に返すと言いかえることもできるだろう。
生徒たちと同年代の少年・少女が観れば、青春時代の「いまを生きる」ことに深く共感できる。さらにうまい作りなのは、青春時代が終わった大人たちでも、懐かしいなぁという感想だけで終わらないところだ。
子供を持つ親や、青春時代の少年・少女と関わりを持つ大人が、様々な立場で登場する。そんな大人たちにも一石を投じている。自分の教育は、接し方は正しいのか。「いまを生きる」ものの邪魔になっていないか、と。
視聴後、これはハッピーエンドだったのかと考えることがあるだろう。だが、考えてほしい。ハッピーだろうと、そうでなかろうと、青春が終わっても人生が続くのは紛れもない事実なのだから。
もう、他の作品を推す元気がないなぁ。
本作だけでも、引き延ばせば何本も長編になる要素がある。テーマがぎっしり。
同じような展開でも、年齢を変えたり、登場人物の性別を変えたり、時代をいまに落とし込むだけでも、新しい作品になりそうですよ。
まとまったかな?
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