厄介曖昧シュレディンガー
生田 内視郎
厄介曖昧シュレディンガー
「おい、聞いてるのか横井」
「聞いてますん」
「なんだその聞いてるんだか聞いてないんだかよく分からん返事は」
縦山先輩はぷりぷりと頰を膨らませ、ホワイトボードをバンバンと叩いた。
彼はいちいちリアクションがオーバーだ。
「全く、なんで僕がお前の赤点回避の為にわざわざ貴重な時間を費やして放課後勉強なぞ教えなあかんのじゃ」
「先輩が私に惚れてるから?」
「ちっがうわボケェぇっ!!
お前が!化学部の癖に!物理で赤点とっとるからじゃああああああああ」
うっさ!身振り手振りのリアクションうっざ!
ここはアメリカじゃなく日本ですよ、
ヘイウェルカムトゥージャパン。
アーハン?
「大体勉強を教えてくれなんて頼んだ覚えは無いんですけど?」
「お前が赤点ばっかり取るせいで、顧問の吉岡先生からこのままだと部活動停止させられそうだって言われたんだよ」
「ああ、あの無駄巨乳?つっかえな」
「使えないのはお前の頭だっ!」
先輩はまたも餌を取られた猿のようにキーキーと喚き、大仰なため息をついた。
「つか、お前そんな物理苦手なのになんで化学部入ろうと思ったんだよ?」
「ウチの学校ってダルいことに部活動参加必須じゃないすか」
……
「つまり幽霊部員になるのに丁度良いと?」
「感謝してくださいよ?私が入らなかったら定員不足で化学部潰れる所だったんですから」
「したり顔で言うことじゃないだろ。
……まぁ入って来てくれた事には感謝してるが」
先輩は分かりやすく肩を落とし、机に顎を乗せて溶けたスライムみたいになった。
「なぁ、ならお前なんで幽霊部員なのにほぼ毎日部室に入り浸ってるんだよ」
「……別に、他にする事も無いですし」
「いやあるだろ、実験とか、調査とか」
「そういうのかったるいんでいいです」
先輩はまたもわざとらしく大きなため息をつき、こちらを恨めしい目で見てくる。
「はぁーあ、唯一の後輩がこんなんじゃ、先に旅立っていった化学部の先輩方に申し訳が立たないよ」
「なんですかいちいち大袈裟な、大体化学ってそんな面白いですか?わざわざ物理と分けるのも意味分からんし」
「化学ってのは、物質の成り立ちを調べる学問だ。つまり、どんな構造で、どんな反応があってそんな形になり得たのかを研究する学問。
対して物理ってのは、自然界の現象、つまり重力や慣性の法則など、この世界に起こるあらゆる現象についての法則性を探っていく学問だ。
だから、まぁお互い相互関係が働くので本質的には被ってるところはあるし、厳密に分けられてるということでもない。あくまで便宜上そう分けて考えたほうが便利ってだけだ。わかったか?」
「何ですか急に早口で、オタクみたいで気持ち悪い」
「お前なぁ……」
「ふーん、まぁでも要するに、そこら辺の線引きはあいまいってことなんですね」
「いやお前話聞いてた?だから化学ってのは─」
「あーはいはい、分かりました、分かりました。
ったく、折角女っ気の無い先輩が唯一可愛い女の子と話せる機会なんだから、もっと面白い話してくださいよ」
「可愛い女の子がどこに居るんだよ……
だがまぁ、面白い話ならあるぜ」
「本当ですか?」
「ああ、さっき横井が言ってた曖昧な状態、それを実験で提唱した学者がいる」
「シュレディンガーの猫ですよね」
「なんだ、知ってるじゃないか」
「漫画とか散々見て手垢がついてる実験ですよね
今時小学生でも知ってますよ」
「浅い!浅いぞ横井!!漫画程度の知識で知った風な気になるなぞ笑止千万!!
これではあの世で死んだシュレディンガーさんの猫ちゃんも浮かばれんわ!!」
「いやあくまで思考実験でしょアレ、先輩の言い分だと猫死んじゃってるし」
「黙れ、黙れぃ!」
先輩は叫びながら走り出したかと思うと部屋中の遮光カーテンを閉め、電気を消して部屋を真っ暗にしてしまった。
「ちょっと、何する気ですか!?はっ!?
まさかこの真っ暗な状態で私にいやらしい事する気じゃ!?」
「違うわボケェッ!!ったく俺は発情期の猫かっつーの」
先輩は文句を垂れながら、何やら暗闇の中でゴソゴソと機材を準備しているようだった。
「準備よし つけるぞ」
そう言うと、ホワイトボードに光の真円がぽっかりと写し出された。
「これが?って痛っ、」
「一本貰うぞ」
そう言って先輩は私の髪から一本引き抜き、ライトの真円の中に差し込んで見せた。
「どうだ 分かるか?」
「分かるかって……」
真円の中には髪の毛が当たった影で光の縞模様が出来ていた。
「これが?」
「お前は、この縞模様が髪の毛の右と左、どちら側に当たって出来たものか分かるか?」
「どちら側って……」
「そう!光の道筋は本来なら右を通った光なら右側、左側を通った光なら左側を照らす筈!
なのにこの光はどっちつかずのまま壁にぶつかることで、常識とは異なる縞模様が写し出されているのだっ!
これはつまり、どちらも区別がつかないで右も左も可能性を残したままという曖昧な状況をそのまま映し出している、ということになる!!
ど〜ぅだ?凄かろう?不思議だろう!?」
「ふぅーん、なるほど、全然分からん
大して面白くもない」
「ちょっと辛辣過ぎないっ!?」
本当は、熱心に説明してくる先輩の濃い顔が近すぎて全然話が頭に入ってこなかっただけのだが…
というかこの人こそ何故分からないんだろうか?
私が大して興味もない二人ぼっちの化学部に入り浸ってる理由が──
全く、何でこんなオタク臭い全然趣味じゃない男に惚れてしまったのか
私は物理のテストや小難しい方程式より、そっちの方がよほど不可解で難解で厄介だった。
先輩は私を置いてまた不確定性原理が、エヴァレットの多世界解釈が、二重スリットがどーたらこーたらと一人でぶつぶつ呟いている。
仮に、もし仮にだが、この場で突然私が告白したら、先輩はどう答えるのだろうか
狼狽えて断る?それとも喜んで涙を流す?
シュレディンガーの猫よりは生き残る確率は高そうだが、その実験の検証結果は、まだしばらく先延ばしにしておこう。
今はまだ、この曖昧なシュレディンガーみたいな状況が、私には心地良いから。
厄介曖昧シュレディンガー 生田 内視郎 @siranhito
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