見殺しの達人と悲惨な末路

@na-nashi7

第1話

 世の中には「見殺し」という言葉がある。それは直接的に相手へ手を掛けるわけでもなければ苦しめるわけでもないが、困っている人を前にしてただ見ていることしかしないことという意味合いを含んでいるはずである。

 しかし、本来助けられるにもかかわらず助けない又は助けようとしないというのは、単にその程度の小悪でしかないのだろうか。

 例えば刺すことによって誰かを殺すことは「刺し殺し」と言う。斬ることによって殺すことは「斬り殺し」と言い、焼くことによって殺すことは「焼き殺し」と言い、殴ることによって殺すことは「殴り殺し」と言う。ならば「見殺し」とは文字通り見ることによって人を殺すこと又は、見ているだけという何もしない行為によって人を殺すことであり、やっていることは他の殺人行為と同様のものであると考えることが言葉として自然だろう。

 そう言うと、例えば「刺し殺し」においては刺す側の人間がいなければ被害者もいないのだから、見るだけの人間がいようといまいと関係なく被害者が存在する「見殺し」とは異なるものだと思う方もいるかもしれないが、ただ見るだけでなく、少しでもまともに助けようとすれば相手は死なずに済んだのだと考えれば、やはり同様のものであると判断することが適当だろう。

 そうした認識の元で考えれば、例えば極端な財政均衡主義に則って行われた九十七年の5%への消費増税と公共投資の削減による激しい失業の増加、及び年間一万人増という自殺者数の増加に対してまともな対策を打たない所か更に二回も消費増税を行い、未だにそうした増税や緊縮財政路線を改めない日本の政治家達や、悪政が敷かれているにもかかわらず彼らを支持や容認している有権者とは文字通りの「国民殺し」や「人殺し」であり、更に言えば何の罪悪感も抱いていないどころか己の非道を自覚すらしていない集団的な「大量殺人鬼」とすらも言えるかもしれない。

 我々日本人は、幼い頃から今まで何気ない顔をしながら一体どれだけの同胞達を見殺しにしてきたのだろうか。「当人の自己責任」などという下らない文言によって社会や周囲から見捨てられて碌に省みられもせず、貧困や苦境に陥って亡くなった彼らの死が戦争における戦死者のように国家や国体の維持に貢献したとは到底思えない。

 現代の日本人とは、その誰もが今まで「自己責任」という言い捨てる側にとってのみ体の良い言葉と考えでもって同胞を見殺し続けてきた「見殺しの達人」である。こと同胞を見殺しにすることにおいては我々ほど手慣れた者達はおらず、その分類には老若男女、あらゆる立場の違い、自覚や罪悪感の有無や強弱などは関わらないだろう。

 その多くは知らず保身欲に染まり「ただひたすらに我が身だけが可愛い」と少なからず内心で思って生き続けてきたはずである。そうして、夥しいほど多く世の中に溢れかえっているそんな誤った在り方や精神によって形成されたものが、国内のどの分野とどの部分を見ても危機と問題しか見当たらず、あらゆるものがそれらに埋め尽くされているという国家として極めて異常な現状だろう。そうでなくては、現在におけるそれに説明などつかないのだ。

 そして、多くの同胞を見殺しにするということは、いつか必ずその番が自分へ回ってくるということである。今までは他者を見殺しにする立場であったはずの自分が、今度は政府や地方行政や同じ日本国民という「まわりのみんな」から逆に見殺しにされてしまうという悲惨な現実と未来が必ずやってくる。

 日本に生きる全ての「見殺しの達人」の末路とは、今まで己が同胞達へとそうしてきたように、自らもまた他者から見殺しにされて息絶えるという何とも無惨なものなのだ。

 そうした者達は、巡り巡っていよいよ自らが見殺しにされる番が回ってきたという死の際になってようやく己がしてきた見殺しという行いの惨さに気付いた所で、今までの自分が他者へそうしてきたように誰が助けてくれるというわけでなく、只々無念や苦しいと思って惨めに息絶えていくのだろう。

 目に見えたとすればまるで怪物か化物のような「見殺しの流れ」は、あらゆる人々がどうやった所で逃げられないように長い年月を経て肥大化したとてつもなく巨大な体と両腕を目一杯に広げて、進む道の先で人々を待ち構えている。人はただ生きているだけでその怪物に捕まることになり、それは己だけでなく妻や子供や友人、恩師や遠い憧れの人も含めた全ての人々がそれに捕らわれた後に嬲り殺されてしまうだろう。

 余りに強く恐ろしいそれから逃れる術はたったの一つだけであり、そこに住む国民の多くが危機に晒されている祖国や同胞を見殺しにしないようにすることだけである。

 例えばコロナ禍で特に危機に晒されている観光や飲食や興業などの業種も他の日本国民の多くがそうであるように、実質的には米国に対する日本国内の多くの市場の売り渡しであるTPPやFTAなどの条約、元々所得が高いわけでもなかったタクシー業界への参入障壁の撤廃と賃金の低下、従業員の雇用を守るために今までは禁止されていた製造業における派遣業の解禁などを始めとして、以前は他の特定業種や労働者が危機に晒されていることへ特に言及も批判もせず、沈黙するという何もしない行いによって容認していたものの、コロナ恐慌に対する政府の愚策によって唐突に自ら達が槍玉に挙げられたというだけに過ぎない。

 勿論、今追いやられる彼らは救われるべき悪政の被害者だろうし、今現在において正しい政策を求めることは当然良い行いではあるが、もしもこうした事態になる以前から何の罪も無い同胞達が悪政によって危機に晒されることはおかしいと思って多くの国民が声を上げることで他業種における国民の生活や雇用の保護を政治に訴えかけていたならば、あるいは悪政を続ける政府や内閣など認めないと不支持を貫いて国民のための真っ当な政治という状況や国民同士が互いを助け合うことが当たり前となっていたとすれば、仮にどこかの業界が危機に晒されても、日頃は関係が浅い人を含む多くの国民が同胞達を守ろうとして団結し、それが世論や内閣への支持や選挙での結果という形でもって政治へと訴えかけられて早期から手厚い補償や国民全員への現金などの給付がされた可能性は高かっただろう。そうすれば、特定の業界だけでなく国力や他の多くの国民の暮らしそのものが広く手厚く守られていたということになる。

 しかし、保身にのみ偏る一般的な国民が持つ冷たい精神性がそれを軒並み潰し、今になって巡ってきた見殺しの流れがこれまで運良く逃れてきた特定の業種を中心に多くの人々へと急接近して彼らの首を万力で絞め上げることになった。

 国家とは人の集まりでもあるがためにそうした国民の生活の危機的状況によって日本の国力は衰え、それを唯一解決出来る政府は放置するどころか、店舗へと十分な補償のない上での自粛の要請という言わば店舗側にとっての自滅の強要をすることで2019年の消費増税で元から弱っていた国内経済は更に没落し、それが波及する国防を中心としたあらゆる分野において危機がより激しいものとなっているのだ。

 こうした状況から考えれば「国家という自ら達の生きる場所を蔑ろにした上に同胞を見捨て続けると、見殺しにされる番はいつか必ずあなたにも巡ってくる」という私の意見もあながち嘘や脅しではないと思って頂けるだろうか。

 政治とは本来国体を守り国民の暮らしを豊かにするためのものであり、困っている同胞を助けるためのものである。今の日本人の多くがそうであるように政治へと興味が薄いということは、つまり彼らは我が身を守ろうとするばかりで自分以外の他者を助けることになど殆ど関心が無いということなのだ。

 国家が正しい枠組みを作れば、国民全員に豊かな暮らしをさせるとまではいかずとも、例えば資産や所得の少ない貧困者には住む場所や食べ物などの必要最低限のものを支給や補助し、働く場所がない人には政府が一時的に公務員として雇って仕事を用意してあげるなどをすることで、国内での貧困死を文字通り無くすことが出来るというのに、それをせずに政府や市民が揃って「当人の自己責任」と繰り返し言いながら見殺しにすることをなぜ極悪だと思わないのだろうか。異常を異常と思わないことが異常なことであるように、国家の役割と機能を知る者にとって、それは極めて異常な思考である。

 そうした考えに対して政治家の多くを中心とした自称識者や専門家達は、そんなことをすれば市民の労働意欲が無くなってモラルハザードが起きてしまうなどと言っているが、犯罪を犯したわけでもないのに不運にも酷い貧困へ追いやられ、政府が手を差し伸べさえすれば助けられる人達を見殺しにすることがそんなに高尚な在り方なのだろうか。

 そうした発言を聞けば、倫理観が狂っているのは本来守るべき国民や同胞達を自ら達が殺すことに対して何の罪悪感も抱かず、改めようとすらしない彼らだろうと憤りを覚えてしまう。その人の心の内にたとえ砂粒ほどでもまともな倫理観や道徳が残って入れば、決してそんな惨いだけの言葉は出てこないはずである。

 この世で最も醜い悪があるとすれば、実際は自らが多くの人を殺しているにもかかわらずそれを自覚せず、それが故に何の罪悪感も抱かず、自らのことを善人やまともな人間だと信じ切っている者達の心だろう。世の中がそうした自覚の無い極悪人で埋め尽くされた時、元来において人々を助けるという善を司る国家はその醜悪を抱えきれなくなり、瓦解と滅亡をしていくのだ。

 人々の生きる場所である国家にとっての危機を避けるためには正しい物事の考え方を身に付けることが重要だとすれば、その時にまず肝要なのは、元々人の心とは私益のみに偏っているのではないということである。

 まるで関係のない例のようだが、今も一昔前も変わらず幼い子供の多くが好いているのは、世をおびやかし人々を虐げる悪者へと立ち向かう正義のヒーローや英雄的な存在であり、人助けをするお人好しな魔法使いの女の子である。

 そうした作品の中では今苦しんでいる市民や仲間達を全力で助けようとすることは理由を問うまでもないほどに当たり前のことであり、間違っても彼らに対して「日頃備えをしていなかったから酷い目に遭うのは当然のこと」「自分達だけは儲けを得られるのだから他人である彼らが苦しむことは仕方がない」などという全ての事柄を自己責任として変質させるような言葉や考えは、少なくとも味方の側からは出てこないだろう。

 人々を助けるため、たとえ自らが傷付いてでも必死になって強敵へ挑む者達を見て喜び、自分もいつかそうした存在になりたいのだと憧れを抱く純真さを少なくない人がかつては己の心に抱えていたのだ。

 もし精神の在り方を改めようとするならば、たとえ幼稚や空想的と思われようとも、又は世の中は善悪だけで割り切れるほど単純でなかろうとも、理不尽な危機に晒されて苦しんでいる仲間や同胞達を助けることは決して下らないことではないという誰もが初めは持っていたはずの真っ当な価値観や精神を取り戻すことから始めるべきである。

 そして、自らの良心によって本気で公や誰かを助けようとするからこそ必死に困難へと挑み続けて身につくものこそが本来の知性であり、自らの身を守るためだけに用いたりひけらかしたりする知識などは本来の性質とは掛け離れた単なる雑学の類いに過ぎない。

 そこに住む多くの人々が正しい知性と良心を持つようになった時、国家とは長く安定して栄えるようになるのだ。

 日本国民の各々が、学校教育や社会などにおいて、国家や公という本当に大事な事柄を学ばず他の様々なものを覚えていく内に知らず失ってしまった元々の良心を取り戻し、正しく今起きている現実を見据えた上で危機に晒されている同胞を助けようとしない限り「まわりのみんな」から見殺しにされるという悲惨な現実は、いつか必ずあなたにも訪れることになるだろう。

 己や自らにとっての大事な誰かに惨たらしい災いが降りかかることを厭うならば、決して賢くない我々は正しく自省をし、その上で自らがすべき事柄や目の前の現実と正面から向き合おうとしなければならない。

 そうした時に初めて、現代日本に溢れかえっている「人災」という底無しの泥沼に沈んだ国家は、生き返る希望を得ることに繋がるのだ。


 私は時折、なぜこの世に国家というものが存在するのだろうかと考えることがあります。

 人というものは己という存在を大切だと思って守ろうとしますが、それでも個としてのそれは決して完璧なものなどではありません。

 老いれば自ずと弱って亡くなり、たとえ若くとも病気や事故によって亡くなる人は現代でも多くおります。時代によっては戦争によって亡くなる多くの方や、今でも危険な職務が故に殉ずる方もいらっしゃるでしょう。しかし、人にとって大切なものとは何も己だけとは限りません。世には、己とは異なる存在があります。

 だからこそ、たとえ自分は幸福へと辿り着けなかったとしても、歩む道の途中で惨めに死に絶えたとしても、自らにとっての友や恋人や子供、あるいは決して会うことのないだろう未来の子孫達だけはどうか幸せに生きて欲しいと思い、そうした思いが遙か昔を生きた太古の人々の心の中で広く受け入れられたからこそ、自らが死しても尚残り続ける国家という枠組みは形作られたのだと私は思っています。

 それは単なる私の妄想や思い込みだと思われるかもしれません。しかし、本来国家の根本にあるのは、そうした澄んだ愛情だったのではないでしょうか。だからこそ今にも多くの国が残り、時にその存在が故に争い合っても、多少の矛盾を抱えていてもその中で人々は生きようとし、やはり国を大切なものなのだと思って必死に守ろうとしてきたはずです。

 そして、そうした人として当たり前に持っているはずの正しい心を人々が失い、かつて国を形作った先人達の心の在り方と余りに大きく掛け離れてしまった時、彼らが生きる場所であるはずの国家はぐらつき始めて次第にその形を保てなくなり、敵国による侵略や自然災害など様々な要因があろうとも、結局はその時代を生きる国民達の誤った精神と行いによって自ずと滅亡をしていくのでしょう。

 おそらくそれは、自分達を想い遣って国を残してくれた先人達に対する何よりの軽視と侮辱であり、国民として、あるいは彼らの先を生きる子孫として最もしてはならないことであるはずです。

 おそらくは国家というものやその意義や役目について教育の場で正しく学んだ経験のない我々にとって、それは分かり辛いことなのかもしれませんが、国家という人々の生きる場所を衰えさせることや、それを危機に晒すということは、本来はそんな忌むべき行いであるはずなのです。 

 もしもこれからの未来に豊かで温かい世の中というものが訪れるならば、それを形作るのはそこに住む一人一人の真っ当な在り方であり、本当の意味で優しい心の形であるということを、これからを生きるはずのあなたはどうか忘れないでいて下さい。

 私のような者はそれを垣間見ることすら出来ずとも、その先を生きる優しい誰かがそんな明るい場所へ辿り着いてくれたならば、それはきっと喜ばしいことなのだと思います。


終わり

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