第九章

不思議な夢を見た。


両親と一緒に近くの公園でピクニックをしていた。ほのかに暖かいおにぎりやウインナーを食べる幼いわたし。ただただ過ぎ去る平穏な時間。

突然、漆黒な「何か」が猛烈な勢いでなだれこんできた。その場にいた人が巻き込まれ、跡形もなく消えてゆく。

両親と共に必死に逃げたが、濁流は無慈悲にもわたしたちを覆いつくした。


逃げられない……。消えたくない……。


その時。誰かの眩い手が差し出された。震えながらその手にしがみつくと、わたしは暗闇の外から抜け出すことが出来た。

しかし、そこには誰もいなかった。何もかも奪われてしまった空っぽの公園。あまりにも唐突で、訳が分からなくて、わたしは大声で泣き叫んでいた。

誰かに頭を撫でられる。振り向くと、悲しそうな眼をした橘さんがいた。

ボケットから綺麗な黄緑色のブレスレットを取り出し、渡してくれる。お礼を伝えようと顔をあげたが、いつの間にか彼の姿が見えなくなっていた。


驚く暇もなく、わたしは立ち尽くす……。繊細ながらも強烈な光を放つブレスレットだけが、わたしと彼の存在を証明していた……。


 *


カーテンから差し込む柔らかい光を浴び、目を覚ました。薄暗い部屋。微細なほこりがおぼろげに照らされている。


「おう、やっと起きたか」


扉が開き、恰幅のいい男の人が入ってきた。とっさに布団で自分の身を隠す。


「警戒すんなって。お前さんをここまで連れてきた鷹だって。……覚えてる?」

「……あ、……はい。……思い出しました……。」

「そうかい。もう二日以上寝てたんだぜ? ほら、これ飲めよ。」

「……ありがとうございます。」


コップの中に入っていた水を一気に飲み干す。空っぽの胃に水が静かに落ちてゆくのが分かる。ゆっくりと息を吐きだし、自分が生きていることを痛感した。


「飲んだな。よし……。飯でも食うか?」

「ご飯………。」


傷だらけの手が映り込んだ。あの日の惨劇が脳裏に過ぎる。痛々しい姿になってもなお、わたしに生きろと言ってくれた、橘さんの顔も。

涙が零れだす。さっき飲んだ水がそのまま流れ出す。止まらない。苦しくて苦しくてたまらない。伊出さんが慌てふためく様子が視界に入る。扉が空き、血相を変えた女の人の顔が見える。


「ちょっとあんた! 泣かせたの?!」

「ち、ちげえよ! なんか急に泣き出したんだよ……。」


眼鏡をかけた女の人がわたしの顔を覗き込む。憐みと、同情と……。彼女はパクパクと口を動かし、たまらなくなったのか私を抱き寄せた。


「そうよね……、恐かったわよね……。でもね、もう大丈夫だから……。」

「……うう、ううっ、わたしが……、わたしが殺したもう同然……、ひぐっ、わたし、怖くて、橘さんを巻き込んだくせにっ……、助けられなくてっ、ごめんなさい……、ごめんなさい……。」


女の人はわたしの頭を撫で始めた。静かで、それでいて暖かい声で呟く。


「そんなことない……、貴女が殺したなんて……。あなたは生きるのに必死だった……。そうでしょう?」


頷くことしか出来なかった。罪悪感で一杯になり、言葉が出なくなってしまっていたから。女の人が何かを手渡した。……夢で見たあのブレスレットだった。


「橘からよ……。貴女を無事に救出させて渡そうって言ってたの。苦しいことから守ってくれるお守りだって。これから幸せに生きられるようにって……。」


女の人の目にも涙がにじむ。純粋に輝くブレスレットから、橘さんの暖かい声が聞こえる。


一歩ずつ、一歩ずつ。大丈夫。その勇気は必ず報われるから。


心の中の黒い濁流が消えてゆく。柔らかくも確固たる光が根差してゆく。生きなければならない。わたしのことを真剣に考えてくれた橘さんのためにも。


わたしは涙を強引に拭い、暖かな宝石を握りしめる。生き続ける。わたしが、わたしで在る為に。

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虚像と哀愁 添慎 @tyototu

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