126.一方その頃、司令官は胃が痛い
「出発!」
クリストファ・ラッツェン司令官の凛とした声が響く。編成を終えたゴルドーリア国軍は、それぞれの部隊に分かれ新しい王都から北へと進み始めた。
目的地は北の北、ベンドル王帝国帝都。国境を北に動かすという表明後ほぼ動くことのなかったベンドルを見越して、その国をまるごと押しつぶすために。
「陛下」
軍隊の最後部、ひときわ豪勢な馬車は動くまでにまだ時間がかかる。そこに座す国王ワノガオスに対し、クリスは他のものには聞かれぬよう声を落として語りかけた。
「わざわざ、陛下のお越しをいただかなくとも我らは、ベンドルなど一蹴してみせましょう」
「その意気は認めよう。じゃが、わしが出た方が良かろう? こちらから他国への侵攻など、ここ数代にわたってないことだったからなあ」
「……はあ」
かつての強国であったベンドルが北の地に放逐されてから、ワノガオスで国王としては九代ほどの歴史を刻んでいるだろうか。その間、他国と国境沿いでの小競り合いなどはいくつもあったが本格的な侵攻はこれが初めてになる。
その戦の場に、ワノガオス国王は自らが出陣することを決めていた。それ故に、本来は行幸に使われる専用馬車が準備されている。
「それに、他の国の領土を踏み荒らすのはわしの命令で、じゃからな。この戦が如何に決着をつけようと、これでわしは王座から降りることにしておる」
「え」
これから戦場に向かうとは思えない、穏やかな笑顔で自身の退位を口にした国王にクリスは目を丸くした。
王位継承権第一位であったゼロドラス王子は既にそれを失っており、現在は王家直轄領の小さな村の代官として派遣されている。と言ってももともと代官を務めていた役人のもとで、彼が引退した後の引き継ぎという形でこき使われているのだが。
「ゼロドラスが外れたところで、後継者はいくらでもおる。何であれば、ベンドルの王帝でもよい」
「さすがにそれは、愚かな判断ではありませんか?」
その国王の口からぽろっと漏れ出た言葉を、クリスは慌てて柔らかな言葉で否定する。わざわざ他国の王族に位を譲らずとも、ゴルドーリアの王位継承権は様々な者が所持しているのだ。数家存在する公爵家は、そのほとんどの者が王家に連なるものだ。
「まあ、そこまではいかんじゃろ。……『ランディスブランド』に国を委ねよう、とわしは考えておるのだが」
「ブラッド公爵家でございますか」
その中の一つを、国王は挙げた。これから向かうベンドル王帝国との国境、その付近に領地を所有する貴族の一つを。
当主メルランディア・ブラッド、その配偶者サファード、当主の実妹セオドラ。少なくともこの三人は高位の継承権を所持しており、玉座を引き継がせる血筋として問題はない家柄だ。
「当主夫妻には、間もなく子が生まれるという。当主には優秀な妹がおり、公爵家の引き継ぎにも問題はない」
「確かに」
メルランディアが王位につきサファードが王配となっても、ブラッド公爵の家はセオドラが婿を取って継ぐことができる。おそらく彼女の婿には、『ランディスブランド』の男が入ることとなろう。
その候補者、と国王が勝手に考えている存在も、既にいる。
「『ランディスブランド』には、神獣様が全幅の信頼を置くマスター、キャスバート・ランディスがいるからな」
「……当人がそのつもりでなければ、神獣様はお許しにはならないと思いますが」
「まあ、それは確かにな。そのあたりは、わしが口を挟むことではなかろう」
クリスのため息交じりのたしなめに、国王は年相応の苦み走った笑みを浮かべてみせる。
かつての王都でほぼ五年、自分たちを守るために特務魔術師として神獣と共にあったキャスバート。近衛騎士団や王都守護魔術師団との交流を深めていた彼の周りには、男女に関わらず多くの存在があった。その一部は彼とともに、ブラッド公爵領にある。
「……ところでキャスバート・ランディスは、誰か意中の者がおるのかの?」
不意に国王が挙げた声は、国王というよりはただの老人が親戚の少年のことを言ったようにクリスには聞こえる。ついつい彼が口にした「陛下」という一言には、いいかげんにしろよ爺さんという言葉にならない非難がこめられていた。
「ああいや、気になっただけじゃ」
「上の者が勝手に縁を結ぼうとしても、その者のことを考えなければろくなことにはなりません。先だっての問題で、ドヴェン辺境伯がどれほどお喜びになったか」
「リコリス嬢には、悪いことをしたと思うておるよ」
彼らが話している内容は、ヨーシャ・ガンドルとリコリス・ドヴェンの婚約について。
それはドヴェン辺境伯家の、ゴルドーリア軍部への多大なる影響を手中にすることを見越して元宰相ジェイク・ガンドルが結ばせたものだった。
辺境伯当主は国のためならばと渋々同意したのだが、その後に元宰相が愚かなことをしでかしたため嬉々として婚約の白紙撤回を申し出た。国政への影響もありその申し出はあっさりと受け入れられ、リコリスは自由な令嬢に戻った。
「キャスバート・ランディスについても同じことです。こちらから誰かを嫁がせる、などという命令はできません」
そうでなくとも、彼には神獣システムという『保護者』がついているのに。
その、この国の重鎮であればよく知る事実をわざわざ口にすることなくクリスは、国王にピシャリと叩きつけた。
あまり、人のことに口出しをしないほうが良い、と。
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